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【知新察来】部分の足し算では届かない場所──華厳哲学とネットワーク科学の交点


◆今回のピックアップ記事◆

Nicholaos Jones, "Chinese philosophy's attack on reality's foundations" (Institute of Art and Ideas, 2025年5月20日)

  • 概要:プラトンから現代物理学まで、西洋哲学は「現実には唯一の根本構造がある」という前提のもとで議論を展開してきた。これに対して法蔵(643–712)の華厳哲学は「根本性の方向は視点によって変わりうる」という多元的な形而上学を提示する。法蔵は複数の仏教宗派の見解を「それぞれが部分真理であり、異なる聴衆への方便として提示されたものだ」と解釈することで調停を試みた。筆者のジョーンズは法蔵研究とシステム生物学哲学の両方を専門とし、2025年にオックスフォード大学出版局から Metaphors for Interdependence: Fazang's Buddhist Metaphysics を刊行した。



「すべてのものは、より小さなものでできている」——この直観は、あまりにも自然に見えます。水は分子でできていて、分子は原子でできていて、原子は素粒子でできている。小さく分解していけば、現実の「本当の根っこ」に届く。そう信じることに、疑いを差し挟む余地はないように思えます。

でも実は今、その直観を内側から揺さぶる動きが現代科学の一角で起きています。生物のネットワーク全体の挙動を研究するシステム生物学という分野では、「部分を知っても全体はわからない」という発見が積み重なっています。

そして、まったく異なる場所から同じことを言っていた人物がいました。7世紀の中国の仏教僧、法蔵です。

哲学者のニコラオス・ジョーンズがなぜ法蔵研究とシステム生物学の両方を生涯の軸にしているのか——その問いを出発点に、FuranoとPhronaは現実の「根っこ」とは何かをめぐる対話に入っていきます。部分ではなく関係性が根本だとすれば、私たちの世界の見方は、どこからどう変わるのでしょうか。


「小さいほど根本的だ」という直観

富良野: 今回の話、どこから入るか少し迷ったんですけど、まず「部分が全体より根本的だ」という直観の話から始めたくて。これ、当たり前すぎてほとんど疑わないじゃないですか。

Phrona: 水のことを考えると、H₂Oでできていて、それより細かく見れば原子があって、っていう話ですよね。下に行けば行くほど、真実に近づく感じ。

富良野: そうそう。それを「基礎づけ主義(foundationalism)」と言うんですけど——現実には根本的な層があって、その層から上のものが作られている、という考え方です。

Phrona: 土台の話ですね。土台がしっかりしていれば、その上に何を積んでもいい、みたいな。

富良野: その直観に対して、システム生物学という分野が、ちょっと違う景色を見せているんですよ。

Phrona: システム生物学?聞いたことあるような、ないような。

富良野: 生き物を、個々の部品——遺伝子とかタンパク質——に分解して理解しようとするのではなく、それらが作るネットワーク全体の挙動を研究する分野です。で、わかってきたのが、「部品を全部知っていても、ネットワーク全体の動きは予測できない」ということで。

Phrona: それは、なぜ?

富良野: 関係性が、部品そのものの性質と独立した働きをするから、というのが一つの答えです。AとBという部品が「フィードバックループ」を形成しているとき、ループ全体の挙動はAの性質からもBの性質からも導き出せない。

Phrona: ループが一つの「ふるまい」を持つ、ということですね。部品を解体したら消えてしまうような。

富良野: そこで出てくる問いが、「では何が根本なのか」ということで。部品か、関係性か。

Phrona: 部品を知っても全体に届かないなら、関係性の方が「根本的」ということになる?

富良野: そこを正面から問うているのが、今回取り上げたジョーンズという哲学者で。彼は法蔵研究とシステム生物学哲学を同時に専門にしていて、その二本柱の必然性が面白いんです。

ポイント解説

「現実には根本的な層があり、それ以外はその層の上に構築される」という考え方——形而上学(けいじじょうがく、目に見えない現実の構造を問う哲学)の文脈では基礎づけ主義と呼ぶ——は、西洋哲学の長い主流だった。プラトンの幾何学的元素、デカルトの心物二元論、現代物理学の素粒子還元主義まで、問いの形は変わっても「根本は固定されている」という前提は共有されてきた。

これに対してシステム生物学は、別の問いを立てる。細胞内のタンパク質相互作用ネットワーク、代謝回路のフィードバック構造、免疫系の自己組織化——これらはいずれも、構成要素を個別に記述するだけでは説明が届かない現象を示す。ジョーンズが複数の論文で取り上げてきた「ネットワーク説明(network explanation)」は、「なぜAが起きたか」という問いに対して、個々の部品の性質ではなくネットワーク内の位置と関係性によって答える。部品が変わっても構造が同じなら同じ挙動が起きる——このトポロジー的な説明は、「部品こそが根本だ」という直観を静かに、しかし確実に崩していく。

ニコラオス・ジョーンズが法蔵研究とシステム生物学を同時に専門としているのは偶然ではない。「根本性は固定されているか」という問いが、両方の領域で同時に問われているからだ。彼の研究はその交点に立っている。

法蔵は「根っこは複数ある」と言った

Phrona: ジョーンズが法蔵に着目するのは、法蔵も「根本は一つに決まらない」と言っているから、ということですか。

富良野: そう読めます。法蔵は7世紀に、互いに矛盾するように見えるインド仏教の宗派をどう調停するか、という問いと取り組んでいた。一方の宗派は「ダルマ——現象の根本要素——が独立して存在し、部分が全体より根本的だ」と言う。もう一方は「すべては心に依存していて、ダルマも心なしには存在しない」と言う。

Phrona: 「物質が先か、心が先か」みたいな対立ですね。普通に考えれば、どちらかが間違っているはずで。

富良野: 法蔵はそう言わなかった。どちらも部分的には正しい、と言って。

Phrona: 「両方正しい」って、相対主義——要は「どっちでもいい」——になりませんか。

富良野: そこが法蔵の面白いところで、「どちらも部分的に正しい」と「どっちでもいい」は違う、と彼は言うんです。部分真理(partial truth)という概念で、各宗派は現実の一側面を確かに捉えている、ただし別の側面を見落としている、という話。

Phrona: 見落としている、というのはどういう意味で?

富良野: 法蔵が「執着(attachment)」と呼ぶもので——これが彼の議論の核心なんですが——執着というのは道徳的な意味じゃなくて、認識の話なんです。「現実のある側面に注目することで、別の側面を見落とす信念」のことを指す。

Phrona: 一方向からしか光を当てていない、みたいな?

富良野: そう言えますね。で、執着のない認識——すべての側面を同時に捉えるような認識——に近づくためには、「根本性の方向は固定されている」と決め込むこと自体を手放す必要がある、と法蔵は言う。

Phrona: 「部分が全体より根本的だ」という主張に貼りついている限り、「全体が部分より根本的だ」という視点からしか見えないものが永遠に見えない、ということか。

富良野: 逆も然り、ですよね。どちらの方向から光を当てても見えるものがあって、その両方が合わさって初めて、より完全な像に近づく。

ポイント解説

法蔵が「執着」という概念に与えた定義は、通俗的な意味——物や人への「未練」「こだわり」——とは異なる。それは認識論的な概念だ。執着とは「現実の一側面に焦点を当てることで、それ以外の側面を視野から落とす信念構造」を指す。

重要なのは、執着が「間違い」ではないことだ。「部分が全体より根本的だ」という主張は、ある説明文脈において確かに機能する。問題は、その主張が普遍的な真理として固定されたとき——つまり他の説明文脈から見た景色を「誤り」として退けるとき——に生じる。法蔵はこれを部分真理の絶対化と見なした。

この構図はジョーンズのシステム生物学的な問いと直結している。「部品から全体を説明する」という戦略は、多くの文脈で有効な説明を生む。しかし「ネットワークの構造から説明する」という戦略も、それとは独立した説明力を持つ。どちらかが「本当の意味で根本的だ」と主張した途端、もう一方の説明が見せるものが消える。

法蔵の言葉を借りれば、「どちらの説明も、それを完全な真理として絶対化した者の執着の産物だ」ということになる。

関係性が根本だとすれば、何が変わるか

Phrona: 「根本性の方向は固定されていない」というのは、面白い発想なんですけど、それって実際に何かを変えるんでしょうか。知的な遊びにとどまらずに。

富良野: ジョーンズの問いで一番鋭いのは、そこだと思っていて。システム生物学の話に戻ると、「ネットワーク構造が根本的だ」という視点が採用されると、研究の方針ごと変わるんですよ。どの遺伝子を探すか、ではなく、どのパターンが複数の異なる生物で保存されているか、を問うようになる。

Phrona: 問いの立て方が変わる、ということですね。部品を集めて積み上げるのではなく、関係の形を先に見る、みたいな。

富良野: それをジョーンズは「説明の抽象化戦略の違い」と呼んでいて——どの水準で、どんな変数を使って、何を説明しようとするか、という話です。

Phrona: 法蔵で言えば、「どの宗派の主張が正しいか」ではなく「それぞれの主張がどんな説明目的に対して有効か」を問う、ということですね。

富良野: そう。その視点の転換は、論争の解決じゃなくて、論争そのものの立て方を変えることになる。

Phrona: ちょっと飛ぶかもしれないんですけど、これって科学論争以外の場所でも同じことが起きてる気がして。

富良野: どういう意味で?

Phrona: 対立する二つの主張が、それぞれ「自分が根本的な真実を見ている、相手は間違っている」と主張し続けるとき、そこで消えていくものがある気がする。どちらかが「正しい」かの前に、「それぞれの主張は何を見えやすくして、何を見えにくくしているか」を問えるかどうか、みたいな。

富良野: 法蔵が「執着のない認識に近づくには、自分の見方を唯一の真実として固定することを手放す必要がある」と言ったのは、そういうことだと思う。認識の問いとして。

Phrona: ただ、それって簡単に「寛容になれ」という話にもなりますよね。どんな見方にも一理ある、みたいな。でも実際には、明らかに人を傷つける主張でも「部分真理として尊重する」とは言えないはずで。

富良野: そこは法蔵が直接答えていない問いで、記事のジョーンズも開いたまま残しています。どこかで線を引く必要があるとすれば、その線は「部分真理の枠組み」とは別の根拠から来ざるを得ないんでしょうね。

Phrona: その問いは残ったままでいい気がします。解決する必要がないというより、解決を急ぎすぎると、今議論していた「固定化」の問題に同じように戻ってしまう。

ポイント解説

「根本性の方向は視点によって変わりうる」という法蔵の命題は、相対主義——あらゆる見方が等しく正しい、したがって何でもあり——とは区別される。法蔵は各立場が「部分真理」であると言った。部分真理とは、現実のある側面を確かに照らしているが、別の側面を照らしていない認識のことだ。これは「真理の基準がない」という立場ではない。

この区別は実践的な含意を持つ。研究者にとっては、「どの理論が正しいか」という問いに加えて、「この理論はどの説明文脈に対して有効で、どの文脈には届かないか」という問いが開かれる。ジョーンズがシステム生物学の文脈で論じた「説明の抽象化戦略(strategies of explanatory abstraction)」——どの水準の変数を使って、何を説明しようとするか——は、まさにこの問いに対応する。

同時に、「部分真理の複数性を認める」という立場が「すべての主張が同等に尊重される」という結論に直結しないことも確認しておく必要がある。有害な主張が部分真理かどうかという問いは、認識論から倫理学へと問いの種類が変わる場所で生じる。法蔵の枠組みはその移行点まで届くが、そこから先の判断基準は別のところから来なければならない。この開口部は、法蔵哲学の限界であると同時に、それが生きた問いとして現代に届いている理由でもある。



この記事は、Projeteam, Inc. ウェブサイトで先行公開された

現実の「根っこ」を探すのではなく――法蔵とネットワーク科学の接点

を素材として対話形式で再構成したものです。元記事では、ジョーンズの「ネットワーク説明」概念と法蔵の部分論(mereology)をより技術的な水準で照合し、現代の説明理論への含意を掘り下げています。深掘りに興味のある方はぜひ。



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