『線になるまで』
―― あるアルコールインクアーティストの記録ーー
第一章 台所のアトリエ
午前五時四十分。
ニーナは目を覚ますと、まず天井を見た。クリーム色の壁紙に、シミのような影がひとつ。何度見ても消えないそれを、彼女はもう「友達」と呼ぶことにしていた。隣で夫がかすかに鼾をかいている。三人の子どもたちはまだ夢の中だ。
起き上がる前に、ニーナは小さく息を吐く。
これは儀式のようなものだった。一日が始まる前に、自分が「自分」であることをひととき確認しておく。ニーナという名前は、本名ではない。配信での名前であり、絵に署名する名前でもある。本名の佐倉奈穂子よりも、最近はこちらのほうが、自分の輪郭にしっくりくる気がしていた。
階下に降りる。
台所のテーブルの上には、昨夜のうちに片づけきれなかったユポ紙が一枚、ぽつんと残されていた。乾ききったアルコールインクが、青と金と、ほんのわずかな赤紫を孕んで、見たこともない地形のような模様を描いている。山脈にも、銀河にも、深海のサンゴ礁にも見えた。
ニーナは、その紙を裏返した。
裏には、昨日の夕方、長男の蓮が描いた恐竜の絵があった。クレヨンの線が乱暴で、力強い。ニーナは少し笑って、また表に返した。
「おはよう」
紙に向かって、小さく言った。誰に聞かれるでもない。けれど、こうして声をかけることで、ニーナは絵と「同じ部屋にいる」ことができるのだった。
朝の段取りは戦闘だった。
蓮の体操着、瑠菜の連絡帳、杏の保育園バッグ。三人ぶんの朝食、三人ぶんの検温、三人ぶんの「いってきます」。
夫は出張が多い職業で、今週は水曜まで不在だった。だからニーナは、ひとりで三人を玄関まで運ぶ。文字どおり、運ぶ。杏はまだ三歳で、靴をうまく履けないし、履けても左右をしょっちゅう間違える。
「ママ、靴下、裏返し」
瑠菜が指摘する。小学三年生の彼女は、最近やたらと細かいことに気がつく。
「ほんとだ。ありがと」
ニーナはしゃがんで杏の靴下を直しながら、ふと、自分の指先にまだ昨日のインクが残っているのを見た。
爪の脇に、小さな青。
これだけは、どうしても落ちないのだ。何度洗っても、爪と皮膚のあいだの、わずかな隙間に色は残る。
最初の頃、ニーナはそれを恥ずかしく思った。スーパーのレジで店員に指先を見られた気がして、咄嗟に握りこぶしを作ったこともある。けれど今は、もう気にしていなかった。
これは、私が私であることの、たぶん、しるしのようなものだ。
子どもたちを送り出したあと、ニーナは台所のテーブルを拭いた。
朝食のパン屑を払い、こぼれた牛乳を拭き、ようやくユポ紙を広げられる「アトリエ」を作る。アトリエ、というには、あまりにささやかな空間だった。横九十センチ、縦六十センチ。ここが、ニーナの世界のすべてだった。
スマートフォンを立てかける。リングライトを点ける。
「ポコチャ」と呼ばれるライブ配信アプリのアイコンを、ニーナは少しだけ躊躇ってからタップした。
最初の頃、配信を始めるたびに、心臓がどくどくと音を立てていた。今でも完全に慣れたわけではない。けれど、一年と少しを続けるうちに、ニーナにはわかってきていた。
このどくどく、は、悪いものじゃない。
これは、誰かに会いに行くときの、あの音と同じものだ。
第二章 ジャッキーさんという人
配信を開始すると、しばらくは誰もいない時間が続く。
ニーナはその「誰もいない時間」が、嫌いではなかった。むしろ、好きですらあった。スマートフォンの向こうに広がっている、まだ誰の足跡もついていない雪原のような時間。やがてそこに、ひとり、またひとりと、足跡がついていく。
「ニーナさん、おはようございます」
最初に現れるのは、たいてい、その人だった。
ジャッキーさん。
ニーナはこの人の本名も、年齢も、住んでいる場所も知らない。プロフィール画像は、なぜかいつも、季節によって変わる紅葉や桜や、雪をかぶった山の写真だった。一度も人物の写真を出したことがない。
「ジャッキーさん、おはようございます。今日もありがとうございます」
ニーナがそう言うと、ジャッキーさんからは、いつもこう返ってくる。
「今日は何を描かれるんですか」
その問い方が、ニーナは好きだった。
「何を描くんですか」ではなく、「描かれるんですか」。たったそれだけの、丁寧さ。けれどそれは、ニーナがアルコールインクアーティストである、ということを、ジャッキーさんが本気で認めてくれている証拠のように、ニーナには感じられたのだった。
「今日はですね、ちょっと、海を描こうと思ってるんです」
「海」
「はい。なんていうか、深い海というよりも、朝の海、というか」
「朝の海」
ジャッキーさんは、ニーナの言葉をときどき繰り返す。
それは決して、揶揄っているのでも、聞き返しているのでもなかった。ただ、ニーナの言った言葉を、自分のなかで一度、転がしてみている。そういう間だった。
「いいですね。朝の海」
その「いいですね」は、お世辞ではなかった。ニーナにはそれがわかる。配信を続けていると、誰の「いいですね」が本物で、誰のそれが空気のようなものか、不思議とわかってくるのだ。
ジャッキーさんが初めてニーナの配信に現れたのは、一年と二ヶ月前のことだった。
その日のことを、ニーナはよく覚えている。
配信を始めたばかりで、リスナーは平均三人。そのうち二人はおそらく身内で、もう一人は誰だかわからない。インクを垂らしても誰もリアクションをくれないし、ニーナは何を喋ったらいいのかわからなくて、ずっと黙ってインクをドライヤーで吹いていた。
ドライヤーの音だけが、配信に流れていた。
そこに、ふっと、コメントがついた。
「インクが、生きていますね」
それが、ジャッキーさんの最初の言葉だった。
ニーナは、ドライヤーを止めて、画面を見た。
インクが、生きていますね。
たったそれだけの、文字。けれどニーナはそのとき、自分が一年近く誰にも言われなかったことを、まさにこの瞬間、誰かに言われたのだという気がした。
「……ありがとうございます」
声が震えたのを、ニーナは今でも覚えている。
第三章 線というもの
アルコールインクアートに、決まった「描き方」というものは、たぶん、ない。
ニーナはそう思っている。
水彩のように筆で描くわけでもなく、油絵のように層を重ねるわけでもない。インクを垂らす。風を送る。広がる。にじむ。乾く。それだけのことだった。
けれど、それだけのことが、毎回ちがう。
同じ青を、同じ場所に落としても、その日の湿度や、紙の癖や、ニーナの息のはきかたで、模様はまったく別のものになる。コントロールできないこと、それがアルコールインクアートのいちばんの特徴であり、いちばんの魅力でもあった。
「描く」のではなく、「立ち会う」。
ニーナは、自分の仕事をそう説明することがあった。
私はただ、立ち会っているだけです。インクと、紙と、空気と、それから、その日の私と。
そう話したとき、ジャッキーさんはこう書いた。
「立ち会う、というのは、いい言葉ですね」
「ありがとうございます」
「立ち会う人がいるから、線は線になれるんですよ」
その言葉を、ニーナは長いこと、忘れられなかった。
立ち会う人がいるから、線は線になれる。
それは、絵のことを言っているようでいて、絵のことを言っているのではないようにも、ニーナには感じられたのだった。
第四章 夕方の戦争
午後四時。
保育園のお迎えに走り、買い物を済ませ、宿題を見て、夕飯を作って、洗濯物を取り込んで、お風呂を沸かして、明日の準備をする。
その間、ニーナは「ニーナ」ではなく、ただの母親だった。
杏が床に牛乳をこぼし、瑠菜が「お母さん見て」を二十回繰り返し、蓮が「ゲームの時間まだ?」と三十秒おきに聞いてくる。台所の床は、何度拭いても、また何かがこぼれる。
ある夕方、ニーナはふと、自分のアトリエだった台所のテーブルの上に、子どもの落書きが広がっているのを見た。クレヨンと、絵の具と、ボンドと、よくわからない貼り絵。
ニーナの「立ち会う」べきユポ紙は、その下に、押しつぶされて隠れていた。
「ねえ、ママ、見て、これ恐竜!」
蓮が誇らしげに見せたのは、確かに恐竜のように見える、何かだった。
「上手だね」
ニーナはそう言いながら、その下のユポ紙を、そっと引き抜いた。
ふと、涙が出そうになった。
それは悲しい涙ではなかった。なんと言えばいいのか、ニーナにもわからない種類の涙だった。たぶん、自分の世界と、子どもの世界が、たった一枚の紙を介して重なっているということに、突然気づいてしまった涙だった。
私の絵の上に、この子の恐竜がいる。
それは、悪いことではなかった。むしろ、何かとても大切なことのような気がした。
その夜、配信を開いた。
子どもたちが寝静まったあとの、二十二時三十分。
「こんばんは、ニーナです」
リスナーは、まだ二人だった。
そのうち一人は、いつもの紅葉のアイコンだった。
「ジャッキーさん、こんばんは」
「こんばんは、ニーナさん」
ニーナは、その日あった「恐竜の話」をした。
子どもの落書きが、自分の絵の上に重なっていたこと。それを見て、涙が出そうになったこと。けれどそれは、悲しい涙ではなかったこと。
話しながら、ニーナは、なぜ自分がこの話を、よりによってジャッキーさんに話しているのか、不思議に思った。会ったこともない、本名も知らない、年齢も性別もわからない、紅葉のアイコンの人。
けれど、なぜか、この人になら、話せるのだった。
「ニーナさん」
しばらくしてから、ジャッキーさんは書いた。
「それは、コラボレーションですね」
「コラボレーション?」
「ええ。お子さんと、ニーナさんの」
ニーナは、画面を見つめた。
コラボレーション、という言葉が、その瞬間、ニーナの中で、思いがけない場所に着地した。
そうか。あれは、コラボレーションだったのか。
私の世界が、子どもの世界に、邪魔されていたのではなく。
私の世界と、子どもの世界が、同じ紙の上に、立ち会っていたのか。
第五章 最初の依頼
ニーナのもとに、初めて「仕事」の依頼が来たのは、その配信から二週間後のことだった。
ポコチャのDMに、見知らぬ名前から、一通のメッセージが届いていた。
差出人は「ヤマザキ」と名乗っていた。
『はじめまして。私は東京で小さなギャラリーを運営している者です。先日、知人からニーナさんの配信を教えてもらい、何度か拝見しました。来年春に開く新人作家展に、ニーナさんの作品を、もし可能でしたら、出展していただけないでしょうか』
ニーナは、その文章を、三回読み返した。
それから、もう一度、初めから読み返した。
ヤマザキ、という人物について、ニーナは何も知らなかった。けれど、文章の文末の整い方や、句読点の打ち方や、「もし可能でしたら」というその一言から、ニーナは、この人が「本物」であることを、なぜか直感した。
返信を打とうとしたが、指が震えて、何度も誤字を出した。
ようやく書いた返事は、こんなものだった。
『ご連絡、ありがとうございます。少し、お時間をいただけませんでしょうか』
送信してから、ニーナは、自分の心臓の音を聴いた。
久しぶりに、はっきりと、聴こえる心臓の音だった。
その晩、ニーナはジャッキーさんに、このことを話すべきか迷った。
迷った末に、結局、話さなかった。
なぜなら、まだそれが、本当に起こることなのか、ニーナ自身、信じきれていなかったからだ。話してしまったら、現実が、その手応えのなさを露わにして、煙のように消えてしまう気がした。
けれど、その夜の配信で、ニーナはいつもよりも、口数が少なくなってしまった。
「ニーナさん」
ジャッキーさんからのコメントがついた。
「今日は、いつもと、少し違いますね」
ニーナは、ドキッとした。
なぜわかるのだろう、と思った。
会ったこともない、声も知らない、顔も知らない人が、なぜ、画面の向こうの私の「いつもと違う」を、こんなにも正確に見抜けるのだろう。
「……すみません、ちょっと、考え事を」
「悪いことですか」
「いいえ、悪いことでは、ないと思います」
「それは、よかった」
ジャッキーさんは、それ以上、聞いてこなかった。
聞いてこない、というその静かさが、ニーナにはありがたかった。
第六章 ヤマザキ氏
ヤマザキ氏との面会は、平日の昼下がりに、東京の小さな喫茶店で行われた。
ニーナは、夫に三人の子どもを預け、新幹線で東京へ向かった。久しぶりにスニーカーではなく、革のローファーを履いた。爪の脇の青いインクは、念入りに、けれど結局完全には落ちきらないまま、その日のニーナの指先に残っていた。
ヤマザキ氏は、痩せた、五十代後半に見える男性だった。
灰色の髪を後ろになでつけ、丸い眼鏡をかけ、紺色のジャケットを着ていた。テーブルの上には、すでに紅茶のカップと、革のノートと、万年筆が置かれていた。
「ニーナさん、ですね」
「はい」
「ヤマザキです。本日は、わざわざ遠くから、ありがとうございます」
ヤマザキ氏の話し方は、文面の印象と、寸分違わなかった。
ニーナは、安心した。
「実は、私は、ニーナさんの配信を、半年ほど前から、拝見しております」
「えっ」
「申し訳ない。黙って観ていて」
ヤマザキ氏は、少し、笑った。
「私はあまり、コメントというものをしたことがなくて。けれど、ニーナさんの作品が、毎日少しずつ、変わっていくのを、ずっと、見守らせていただいておりました」
ニーナは、何と答えていいか、わからなかった。
「ニーナさんの絵には」
ヤマザキ氏は、紅茶を一口飲んで、ゆっくりと続けた。
「『立ち会う』という姿勢が、あります。これは、最近の若い作家には、なかなか、見られないものです」
「立ち会う……」
「ええ。コントロールしようとしない。けれど、放任しているのでもない。ただ、そこにいる。インクの傍に、紙の傍に、ご自分の手の傍に」
ニーナは、ジャッキーさんの顔を、不意に思い出した。
正確には、ジャッキーさんの「顔」を、ニーナは知らない。けれど、紅葉のアイコンを、思い出した。
立ち会う人がいるから、線は線になれるんですよ。
ヤマザキ氏の言葉と、ジャッキーさんの言葉が、ニーナの中で、静かに重なった。
第七章 春の展示
新人作家展は、翌年の春、東京の小さなギャラリーで開かれた。
ニーナは、三点の作品を出した。
一点は『朝の海』。 一点は『恐竜のいた紙』。 そしてもう一点は、『立ち会う』というタイトルだった。
『立ち会う』は、これまでニーナが描いた中で、いちばん大きな作品だった。縦九十センチ、横六十センチ。普段の三倍の大きさのユポ紙に、青と、金と、ほんのわずかな赤紫を落とした。子どもたちが寝静まったあとの台所で、三晩かけて、ゆっくりと「立ち会った」作品だった。
オープニングの日、ニーナは、夫と三人の子どもたちを連れて、ギャラリーに行った。
末っ子の杏は、自分の母親の絵が壁にかかっているのを見て、しばらく、ぽかんとしていた。
「ママの絵だ」
そう小さく言った杏の手を、ニーナは、ぎゅっと握った。
蓮は、絵の前で腕を組んで、まるで批評家のように何度もうなずいていた。
瑠菜は、『恐竜のいた紙』というタイトルを見て、にやっと笑った。あれが、自分のたちと関係があることを、瑠菜は、ちゃんとわかっているようだった。
夫は、何も言わなかった。
ただ、ニーナの肩に、ぽん、と手を置いた。
それだけで、ニーナには十分だった。
その日の夜、ニーナは、ホテルの部屋から、ポコチャの配信を開いた。
子どもたちは、隣のベッドで眠っていた。夫は、お茶を入れに行ってくれていた。
配信を開くと、すぐに、いつものアイコンが現れた。
紅葉ではなく、その日は、桜だった。
「ジャッキーさん、こんばんは」
「ニーナさん、こんばんは」
「今日、東京で、展示のオープニングだったんです」
「ええ、知っています」
ニーナは、息を呑んだ。
「……来てくださったんですか」
返事はしばらく、なかった。
それから、ジャッキーさんは、こう書いた。
「ええ。お邪魔しておりました」
ニーナは、画面を見つめながら、なぜか、笑ってしまった。
声を立てて笑うわけにはいかなかったので、口元を手で押さえて、肩を震わせるように、笑った。
「いらしてたんですね」
「ええ。『立ち会う』、というタイトルの作品。あれは、本当に、よい絵でした」
「ありがとうございます」
「あの絵の前で、私は、本当に立ち会わせていただきました」
ニーナは、しばらく、何も書けなかった。
書けないまま、ただ、画面の向こうの、見知らぬ誰かに、深く、深く、頭を下げた。
「ジャッキーさん」
ようやく、ニーナは書いた。
「ありがとうございます」
ジャッキーさんは、こう返してきた。
「線は、ニーナさんを、描いていますね」
第八章 線はニーナを描く
線は、ニーナを描いていますね。
ジャッキーさんのその言葉を、ニーナは、ホテルの天井を見上げながら、繰り返した。
線は、ニーナを描く。
それは、ニーナが線を描いている、という意味ではなかった。
線のほうが、ニーナを、描いている。
最初に、台所のテーブルで、広告チラシの裏に一滴の青を落としたとき。あの瞬間から、もしかしたら、ずっと、ニーナは、線に描かれてきたのかもしれなかった。
母親であること。妻であること。配信者であること。アーティストであること。
そのどれもが、ニーナの「役割」のように見えて、本当はそうではなかったのかもしれない。
それらはすべて、一滴ずつ落とされた、インクの粒だった。それぞれが滲み、にじみ、混ざり合い、ときに弾き合いながら、ひとつの模様を、紙の上に描いていた。
その模様は、たぶん、ニーナという名前の、形をしていた。
隣のベッドで、杏が寝返りを打った。
「ママ」
寝言だった。
ニーナは、そっと、その小さな頭を撫でた。
明日、家に帰ったら、また台所のテーブルを拭いて、ユポ紙を一枚、広げよう。
朝の光の中で、一滴の青を落として、立ち会おう。
子どもたちが起きてきて、その上に恐竜を描いたとしても、いい。それも、コラボレーションだ。
そして夜になったら、また、ポコチャを開こう。
紅葉か、桜か、雪の山のアイコンが、現れるのを待とう。
ニーナさん、と呼んでくれる声を、待とう。
そして自分は、こう答えるのだ。
ジャッキーさん、おはようございます。今日もありがとうございます。
終章 しずくの落ちる音、ふたたび
朝、五時四十分。
ニーナは目を覚ました。
クリーム色の天井に、シミのような影が、いつものようにあった。
隣で、夫が、かすかに鼾をかいていた。
三人の子どもたちは、まだ、夢の中だった。
ニーナは、起き上がる前に、小さく息を吐いた。
これは儀式だ。
一日が始まる前に、自分が、自分であることを、ひととき確認する。
ニーナ。
その名前を、ニーナは、心の中で、一度、唱えた。
それから、ゆっくりと、ベッドから足を下ろした。
階下の台所で、今日もユポ紙が、彼女を待っていた。
その上に、たった一滴、青が落ちる音を、ニーナは、もう、はっきりと聴き分けることができた。
しずく、と。
それは、線が、ニーナを描き始める音だった。
(了)
