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なぜプロボノ?改めて考えてみた

久しぶりの投稿です。もちろん今回も AI と文章を推敲して書きました😆

今回は、ちょっとしたきっかけで、なんでプロボノをやっているんだろうということを改めて考えてみました。


上司の疑問と点と線

先日、上司との期末レビューの面談がありました。仕事の振り返りの準備ができてなくて話が少し脱線し、こんな質問をされました。
(優しい上司で助かりました😊)

「なんでそんなにプロボノ(無償の社会貢献)活動に熱心なの?」

批判的なニュアンスではなく、純粋に不思議そうでした。私は一瞬言葉に詰まり、結局その場では、なんとなく答えて終わってしまいました。

けれど、その問いは自分にも跳ね返ってきて、寝られなくなってしまった…
というのは、もちろんウソ😆
だた、自分にとっては呼吸をするように当たり前になっているこの活動を、あえて言語化するならどうなるのか、考えてみることしました。

あらためて自分の内側を AI エージェントと対話しながら整理してみると、去年の 11 月末ごろに AI と一緒に読み解いたある論文の話や、小学校の頃の些細な記憶が、驚くほど鮮やかに一本の線でつながっていく感覚がありました。

「だから自分はこれ(プロボノ)をやっているのか」

そんな、自分の中で非常に腑に落ちたストーリーを、備忘録としてまとめておこうと思います。


冷蔵庫のマグネットと「逆転クオリア」の記憶

たしか小学校高学年の頃だったと思います。
冷蔵庫に貼ってあった、よくある丸くて赤いマグネットをボーっと眺めていたときのことです。

ふと、「このマグネット、自分には赤くて丸く見えているけれど、他の人には緑で四角に見えているんじゃないか?」という考えが頭をよぎりました。

もちろん、みんなそれを「赤」と呼び、「丸」と言います。でも、その人の頭の中で実際に展開されている「感じ(クオリア)」は、私のそれとは全く別物かもしれない。
その人は「緑」を「赤」、「四角」を「丸」と呼んでいるのでは?

言葉では合意できても、中身が同じであることは一生証明できない…

そんな、世界との間に薄い膜が張られたような、奇妙な断絶を感じたのが私の思考の原点でした。


「独我論」という底なし沼

いつだったかは忘れましたが、この感覚は、大人になってから知った「独我論(Solipsism)」 への入り口だったと気づきました。

独我論とは、自分の意識だけが実在し、他者はすべて自分の認識が作り出した影かもしれない、という考え方です。正直、これはハマると非常に危うい「底なし沼」のような問いだと思います。他者に心があるのかさえ疑い始めると、世界はあまりに孤独で冷え切ったものになってしまいます。

私はずっと、絶対にそんなはずはないと、どこかで思っていて、それに対抗する考え方を探していたのかもしれません。


半年前の伏線、「意識場の仮説」

そんな中、去年の 11 月末 のことでした。 Google のフィードで流れてきた、ある論文の紹介記事に目が止まりました。

Universal consciousness as foundational field

それを AI と一緒に読み解いていくうちに、「意識場の仮説」という考え方に出会ったのです。意識は個別の脳に閉じているのではなく、空間に広がる根底の「場」から生じている、という仮説です。

科学的にはまだ議論の余地が大きいものですが、これを理解したことで「自分と他者は、根底でつながっているのかもしれない」という予感が、自分を支える重要なピースとして残りました。今回の上司の問いに向き合う中で、そのピースがパチリとはまったのです。


知行合一:動くことで、世界の手触りを確認する

ただ、意識場という理屈だけでは、この独我論の沼からはなかなか出られません。そこで私にとって一つの有効な手段となっているのが、陽明学の「知行合一(ちこうごういつ)」という考え方です。

「知ること」と「行うこと」は、切り離せない一つのものである。
本当に理解したと言えるのは、それを行動に移した時だけである…

頭の中で「世界はつながっているはずだ」と念じるだけではなく、プロボノとして実際に手を動かし、誰かと関わり、具体的な試行錯誤を共有する。その「プロセス」を通じて得られる確かな手触りこそが、頭の中のモヤモヤを晴らしてくれるのかなぁ、なんて思っています。


素直な「うれしさ」という共鳴

なんだか、御大層なこと😆を書き綴ってしまいましたが、自分にとっては、いままで体験し、体感してきたことに基づいて、当たり前のことを当たり前にやっているなんですよね。

ただ、そんな「当たり前」の活動の中で、自分の働きが誰かの役に立ち、喜んでもらえると、やっぱり素直にうれしいものです😊

その「うれしさ」は、私が善人だから感じるのではなく、自分と他者の境界が少しだけ溶けて、感情が共鳴しているサインなのだと感じています。独我論の寒々しい世界ではなく、温かい手触りのある世界に今自分はいる。その答え合わせができることが、私にとっての静かな報酬なのかもしれません。


ただ、当たり前に種をまく

小学生の自分自身への赤いマグネットの問いから、独我論への抵抗、半年ほど前の AI との意識場の探究…

今回、上司の問いをきっかけに整理してみたことで、それらが一本の線でつながり、「だから自分はこれをやっているのか」と、非常に腑に落ちた感覚があります。

効率やコスパ、タイパが重視される時代ですが、これからも自分の納得感を大切にしながら、コツコツと種をまき続けたいと思います。

それが、自分自身と、そして(たとえ見え方は違っていても)確かにそこにいる他者への、今の私なりの敬意の示し方なのだと思っています。

追記:心の「楕円」と、共鳴のゆくえ

この記事を書き終えた後、読み返してみたら「あれ? これ、プロボノをやってる理由の説明としては弱いんじゃね?」と思って😆、さらに AI と対話を続けてみました。

すると、もうひとつ大切なことに気づきました。

私の心は、
一つの中心を持つ「真円」ではなく、二つの中心を持つ「楕円」のような構造をしているのではないか——と。

内村鑑三は「真理は円形にあらず、楕円形である。一個の中心の周囲に画かるべき者に非ずして二個の中心の周囲に画かるべき者である」と書いています。私にとっての二つの焦点は、こんな感じです。

  • 第一の焦点
    理性と論理 独我論の沼を直視し、意識場の仮説や知行合一で世界を理解しようとする探究的な自分

  • 第二の焦点
    共鳴と関係性 他者と「つながっている」という温かい手触りを感じようとする自分

この二つの焦点が絶妙な距離を保っているからこそ、心のバランスが取れているのだと腑に落ちました。

そして、もう一つの気づき。

私にとってプロボノは、この「共鳴」を体感するための、現在の表現形態に過ぎないのかもしれない。
かつてそれは音楽であり、ある時期は家族との時間でした。
今はそれが、社会の現場で専門性を活かして手を動かす形を取っています。

そう考えると、「なぜプロボノなのか?」という問いへの答えは、
自分なりのやり方で、世界と誠実に共鳴し続けたい」というシンプルな願いに集約されます。

今は専門性を無償で活かしながら NPO を支援するという行為が、この楕円のバランスを最も自然に保てる方法のように感じています。

理屈と共鳴。この「楕円形」のバランスを楽しみながら、コツコツ種をまき続けていこうと思います。

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