僕のモヤモヤが消えた理由-誰かの否定の言葉に惑わされない思考-
少し大袈裟なタイトルですかね😄
今回は、いつもと違うことを書いてみようかな?と思いました。
実社会でもネットの世界でも、「否定的な意見やそれは、間違えている」等の言葉を見かけたり聞いたりすることが、あるのではないでしょうか?
僕もまるで、これって自分のことを言われているのかな?なんて感じたことあります。
大切にしていることや体験、考え方を否定する多くの言葉は、個人に向けられていなくても刺さることが、あるんですよね。
こうして否定の言葉が、自分に向けられていると感じた途端にモヤモヤって生まれるのかな?って思ったんですよ。
そんなモヤモヤを抱えていたら何も楽しめない。
だったらモヤモヤそのものを無効にしたら、楽になるんじゃないかって考えたんですよ。
そして僕は楽になったので、その思考を置いておきます。
モヤモヤの解消は、先ず心の余裕を確保する事を第一に考えています。
心に余裕がないと冷静に物事を見極められなくなりますからね😊
この時点で、なんかムカっときたなら見ないでね☺️
初めに
⚠️この記事は、否定する側の人へのメッセージでは、ありません。⚠️
だって僕自身、誰かのことを知らず知らずに否定しているかもしれませんからね。(この記事すら人によっては、否定されたと感じるでしょう)
ただあまり気にしすぎたら、何も書けなくなっちゃいますし😄
ですから、受け手になった時の交わし方と思ってください。
じゃあ僕の思考整理いくよ😁
※一応めっちゃ甘口マイルドにしてますので(〃▽〃)ポッ
答えと正解は違う
これが、元凶の元でした( ˙▿˙ )☝
正解には、間違えがあるけれど答えに間違えはない。
正解とは1+1=2の様な客観的な事実に基づくものなので、間違えが存在します。1は間違えですよね?
ルールーや法律なんかもそうですね。
一方答えとは、主観の言語化だと思います。
その人の内面にあるもの主観的な考えです。
それらは、体験、人生観が大きく影響しています。
ですので、答えは皆んな違うのです。
そしてそこに正解も間違えもありません。
そう考えれば大抵の否定の言葉は、主観に過ぎないのです。
「正解=客観的事実」 「答え=主観」
なぜ否定までしてしまうのか?
そもそもなぜ、否定するのか?
これには、いくつかあると思います。
その中でも僕の感じた1番厄介な例を取り上げます。
自分の答えを正解にするために間違えを生み出す。
これは主観である自分自身の答えに自信が無いため根拠が欲しいのです。
そのために答えを正解へと変えているのではないでしょうか?
元々、正解の無いものに間違えを見出すのですから、それは理論破綻も起こしています。
哲学は否定や間違えの根拠にならない。
中には否定の根拠(間違えている理由)として、哲学を根拠として出す人もいます。
哲学で語られるとそれっぽく聞こえるので、まるで自分が間違えているかのように錯覚を起こしますが、哲学に正解はなく問いだと僕は思っています。
(結論迄書いている哲学ですら哲学者の答えに過ぎません)
それは主観と何ら変わらないんですね😄
哲学を語ればその哲学は自分に返ってくるだけですからね。
冷静に見ると
「あ~それが、あなたの人生観ねって」だけのことです。
間違えを作り出してまで、否定したい理由
自分の答えに自信が無いので、補強のために間違えを作り出すのです。そうすることで、自分が客観的な事実に基づいた判断していると思いたいのですね。
本来、答えに自信があれば他者を否定する必要ないですもんね😃
これは、切実な防衛本能だと思います。
※僕の経験上、防衛本能からくる否定が一番熱量があり厄介です。
中には、防衛本能関係なく純粋にマウントを取りたい人、バズり目的、無意識に否定する人がいます。
この人達は、ただの目立ちたがりか、ドジっ子ちゃんです。
大きな小学生です。
ですので、
「あらあら大きな小学生がはしゃいじゃって🤭」
なのです。
子供を見るように優しく見てあげましょう。
専門用語で畳み掛けて否定する人は、そもそも相手に伝える気なんてありません。
自分の土俵で相手を煙に巻きたいだけかもしれませんね。
そもそも伝える気があれば、噛み砕いて誰にでもわかるように努力します。
それを怠るということは、誰かに伝えたいのではなく発表したいだけなのです。
もはやただの発表会です。「頑張ってるね😊」くらいの気持ちで流しましょう。
身近な例えでモヤモヤ解消
ラーメン屋で醤油ラーメンを食べていたら、後ろの席から「豚骨ラーメン以外はラーメンじゃないな!」と、大きな声で呟いている人がいます。
この人の発言に対して、あなたは、好きな醤油ラーメンに自信がなくなりますか?😄
せいぜい、「うるさい嫌な人だなぁ」程度ですよね😁
はい!その程度のことなんですよ。
好き嫌いをそれらしく言っているだけなのでした。
だから答えは、
「はぁ?この人何言ってんの☺️」
で良いのです。
答えに正解なんてありません。
だから自分が見つけた答えがあれば、いいのではないでしょうか?
だから、好き嫌いの主張に心を掻き乱される必要なんてないのです。
そして正解がないのなら
「自分が出した答えこそが、自分の本物でいいのです」
この記事の内容も僕の主観です。
僕の答えであって、正解ではありません。
この記事で否定されたと思った人がいましたら、『僕を大きな小学生』と思ってください😁
きっと楽になりますよ🤭
この記事を書いている時の僕の思考プロセス
そんなに難しくない。
まず論理的に否定のそのものが、成立しないことを書く。
否定論者の思考を書く。
否定論者は、否定することで自分を保っている
主観や哲学に正解はない
答えと正解は違う
正解は間違えがあるが、主観や哲学にあるのは、人生経験の反映された個人の答えだ。
正解ではなく答えなので間違えはない。
哲学を否定の道具にすることは、もはや哲学の悪用だ。
答えに間違えはない。個人の感想なのだから
その主観で大切なものを否定されても。なんの根拠にもならない。
それは、醤油ラーメンが好きだからとんこつラーメンを否定するに等しい行為だから
なぜ否定しないといけないのか?
自分の答えに自信が無いので、答えを正解にして間違えを作り出したいだけではないか?
相手の理屈が人生観や哲学をだすので、正しく感じる錯覚を起こしているに過ぎない。
結果、人格そのものまでもが否定されたように感じるが、それは相手の自信の無さの表れでしかない。
所詮好き嫌いを小難しく言ってる程度の話
だからそんな程度の話に心を痛める必要なんてない。
正解の無いものならば、答えがすべてだ。もうめっちゃムカつく!それは書いちゃダメ
トーンを調整する。
あっ!でもね。他人や自分を傷つけるための答えはダメだよね。
