【創作大賞2026】台所でせかいをつなぐ 第45話 赤プリって?記憶の花壇
第45話 赤プリって?記憶の花壇
妙蓮寺で買ったおでんと唐揚げを温め直し、実家の食卓に並べた。
「明日は、墓参りに行こうと思うの」
仏壇の前に置かれた父の似顔絵が、わずかにこちらを向いている気がした。父が逝ったのは、コロナが日本に広まり始める直前のことだった。
あれから、もう五年の歳月がたつ。
介護ベッドがなくなり、リビングには馴染みのソファーが据え直されていた。
父の席には、今は哲郎が座っている。
その光景が自然になったことに気づいても、そんな感傷は口に出さない。
「来るなら、もっと早く言ってくれればよかったのに」
機嫌の悪そうな弟の表情は、おでんの湯気ですぐに和らいだ。
「隆、ちくわぶ、なくってごめんね」
「別にいいよ」
思い立って帰省した理由を、響香はあえて口にしなかった。
翌日、隆はいつものように出勤し、母と哲郎と三人で、連れ立って墓参りをした。
その帰り道、ショッピングモールでお昼ご飯を食べることにした。
「昔、おとうさんとも、よく来たわ」
懐かしがる母と、少し前を歩く哲郎の後ろを、響香は静かに歩いた。
ウインドウのマネキンの服を見ることなく、
「この色いいわね」と
母と響香が同時に足を止めた。花壇の前だった。
そして、天井の高いフードコート。
総合受付で注文したものができるとベルが鳴るという。
待ち時間に、「十年前にここに来た時と比べてどう?」と聞くと、母は言った。
「この二階はなかったわ。若い人が多くなったし、フードコートもこんなに広くなかった。
老舗のお店ばかりね。やっぱり豊かになったって感じね。花壇もきれいになった」
響香は、「老舗?」と思ったが、厚いメニュー表をぱらぱらめくった。銀座や赤坂の名がならんでいた。
あたりを見渡すと、本当に子ども連れの若い層が席を埋めていた。
そして、母は続けて言った。
「霞が関の赤プリの花壇もそうね」
「赤プリ?」
「赤坂プリンスよ。」
母の答えは、隣の子どもの無邪気な声にかき消された。
霞ヶ関――その言葉だけで、胸の奥がざわつく。
長年の電話のやりとりの中で、霞が関という地名が出るたびに、私は父や母の検査結果ばかり気にしていた。
その時に母が見ていた花壇の話など、聞いたことがなかった。
父の人生には、まるでドラマの一場面のような出来事があった。
「九死に一生を得た」としか言いようのない瞬間だった。
それから二十年。
父は、あの綱渡りの奇跡から、静かな余生を生きた。
「お父さんは心臓が弱いから、ぽっくり行くと思うよ」
口ではそう言いながら、自宅のリビングで、じたばたと頑張ってくれた。
働いて飛び回るのが好きだった父にとって、ひとつのリビングにいた二十年も、別の形の挑戦だったと思う。
奇跡の舞台は、霞が関近くの病院だった。
日本の政治の中心地――都会の真ん中で、父の命は救われた。
なぜ父は自宅近くの病院ではなく、そこを選んだのか。
それは、父なりの理にかなった理由があった。
自宅近くの病院に行くには、会社を丸一日休まなければならない。
だが、仕事の中心地・赤プリのそばなら、隙間時間で診察が受けられる。
やがて、母もその病院に通うようになった。
心臓の導火線が切れたのは、たまたま母と一緒にいた、通院中のその病院だった。
それが、命をつなぐ幸運だった。
一歩でも遅れていたら、命は尽きていただろう。
最新の医療と救急システムが、父の命をつないだ。
それは、世界を震撼させた9.11の前日だった。
父は、目覚めた病室でそのニュースを見たという。
父が引退したあとも、そして、父が逝ったあとも、母は変わらずその病院に通っている。
いつも電話で「立ちっぱなしよ」と通院の電車内をぼやいていた。
「席、譲ってもらえないの?」
「若い人、疲れてるのよ。寝たふりしてるの」
「でもね。薬の入った袋をわざと見せるのよ」
八十歳を過ぎても背筋を伸ばして立つ母は、「あつかましいおばさん」と思われているかもしれない。
「近くの病院にしたら?」と言っても、母には無用なおせっかいだった。
母は今も、バスと電車を乗り継ぎ、駅のエレベーターを駆使して往復三時間の通院を続けている。
そして、あの赤プリの花壇を見ていたのだ。
そんな母が、ある日、唐突に甥である宏兄ちゃんに電話をかけた。
数年ぶりに母の近況報告を聞いた宏兄ちゃんは、どこか違和感を感じたらしい。
宏兄ちゃんは、母との電話を切ったあと、北海道の私に電話をくれた。
「突然、現実のほうがずれていくことがあるらしいよ」
「赤プリって?」ともう一度目の前の母に尋ねてみた。
「いやね、赤坂プリンスよ」
母は、あの花壇の季節のうつろいを、四半世紀も見続けてきたのだ。
三人で並ぶフードコートは、メニューの多さや注文の仕組み、空間のつくりまで、どれも北海道では見慣れないスタイルだった。
百を超えるメニューの中から、いちばん確かでコスパのいいランチを選んだのも母だった。
宏兄ちゃんの「電話じゃわからない」という言葉が、じんわりと胸に染みてきた。
だからこそ、電話ではここまでにしておこうと思う。
「赤プリって?」と訊ねたのは、私のほうだった。
先に食べだした母を見つめながら、赤い箸袋から、つるりとした木肌の箸をゆっくりと取り出した。
絶妙な味と食感が口の中にふんわりと広がった。
フードコートの窓は広く、青空がきらきらと隣に座る親子づれを照らしていた。
見たことのない赤プリの花壇の色が、胸に静かに広がった。

◇
次話
第46話 「実家の本棚 ㊙の記憶」 へ つづく

実在の場所をモデルにしていますが、作者の記憶や想像をもとに創作したものです。
