【書評】 養老孟司 『ものがわかるということ』 : 人生の意味なんて、わからないままでいい
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今の世の中、どこを見渡しても「意味」ばかりが求められている気がします。テレビをつければ誰かが人生の目的を語り、ネットを開けば成功するための秘訣や、生きる意味を見つけるためのメソッドが溢れている。けれど、養老孟司さんの言葉に触れると、そんな肩の力がふっと抜けるような感覚になるんです。養老さんは、人生の意味なんかわからないほうがいい、とはっきり言いきっています。そもそも、世界をすべてわかろうとする努力は大切だけれど、同時にどうしても知りえないことがこの世にはあると、まずは了解しておく必要がある。そんなふうに考えるだけで、ずいぶんと心が軽くなるものです。
人生の意味なんか「わからない」ほうがいいので、わからないと気がすまないというのは、気がすまないだけのことで、それなら気を散らせばいい。
多くの人が「理解したい」とか「わかりたい」と切実に願うのは、それだけ社会全体が意味というものに縛りつけられているからでしょう。けれど、ふと足元を見てみれば、道端に転がっている石ころや、空を飛んでいる名もなき虫に、いちいち人間にとっての意味なんてものがあるでしょうか。世の中、実は意味のないもののほうが大半を占めているんです。それなのに、私たちは意味のあるもの、役に立つものにしか価値がないと思い込まされている。すべてが意味に直結し、効率よく処理されることを良しとする、そんな息苦しい情報化社会に、私たちはどっぷりと浸かってしまっています。
この意味を何よりも求めたがっている正体は、私たちの意識です。現代という時代は、この意識というものが、あまりにも肥大しすぎてしまった時代だと言えるかもしれません。世界がどんどん複雑になっていくから、私たちの意識は必死になってそれを単純化し、なんとか言葉で説明をつけようと躍起になっています。その結果、本来はもっと豊かで、わけのわからないはずの現実が、薄っぺらな情報の束に置き換えられてしまっているのです。
◉記号に支配された「脳化社会」の罠
養老さんは、人間が脳を発達させたことで、「違い」を認識するだけでなく、バラバラなものの間に「同じ」という感覚を見出す能力を手に入れたのだと語ります。例えば、野に咲く一輪一輪の花はすべて形も色も微妙に違っているはずなのに、私たちはそれを「サクラ」という1つの言葉でまとめてしまいます。この「同じ」にする力があるからこそ、私たちは言葉を使い、お金を媒介にして交換を行い、相手の立場に立って物事を考えることができるようになりました。それは素晴らしい進歩だったはずです。
けれど、この「同じにしよう、同じにしよう」とする脳の性質が、行き過ぎると厄介なことになります。これが養老さんの言う「脳化社会」の病理です。人間の脳は、個人ごとの細かな差異を無視して、できるだけ多くの人に共通する了解事項を広げていくように発展してきました。そこで力を発揮するのが、言葉や記号です。しかし、記号というものは、作られたその瞬間に動きを止めてしまいます。
記号の特徴は、不変性をもっていることです。だから違うものを「同じ」にできる。「黄色」という言葉は私が死のうが残り続けます。現実は千変万化して、私たち自身も同じ状態を二度と繰り返さない存在なのに、情報が優先する社会では、不変である記号のほうがリアリティをもち、絶えず変化していく私たちのほうがリアリティを失っていくという現象が起こります。そのことを指して私が創った言葉が「脳化社会」という言葉です。
情報の海の中では、すべてが記号としてカチッと固定されています。けれど、生きている私たちは、1秒たりとも同じ状態ではいられません。朝起きた時と夜寝る前では、体の中の細胞も、考えていることも、微妙に変わっている。それなのに、情報化社会は「変わらないこと」を前提にしています。ここに大きな齟齬が生まれます。変わらない確かな情報を積み重ねていけば、世界がわかったような気になれるけれど、それは止まった標本を眺めているようなもので、本当の生きた世界からはどんどん遠ざかってしまう。
養老さんはビデオ映画の例を出して、このことを説明してくれます。同じ映画を何度も繰り返し見ていると、映画そのものは1ミリも変わっていないのに、見ている側の自分が飽きたり、新しい発見をしたりして、どんどん変わっていく。現実は流転し続けているのに、私たちの意識はそれを認めようとせず、不変の情報にリアリティを感じてしまう。だから、コントロールできない偶然や変化を「ノイズ」として切り捨てようとする不寛容な空気が、今の世の中には満ちているのかもしれません。
◉「わかる」と「知っている」の深い溝
私たちは、検索すればすぐに答えが出てくる時代に生きています。だから、何かを検索して、その説明文を読めば、もうそれで「わかった」つもりになってしまう。けれど、養老さんは「知っている」ことと「わかっている」ことは、似ているようで全く別物だと言います。
「あいつなら知っている」というのは、「あいつのことならわかっている」とはずいぶん違います。「知っている」とは近所で出会ったことがあるとか、テレビの画面で見たことがあるとか、具体的な1つのことを指します。「わかっている」はそれとは違います。これまで目や耳から何度も入ってきていて、あいつがどういう状況でどうするか、かなり予測がつくということですね。その予測をするのが脳という器官です。これをいまではシミュレーションと言います。
単なる情報の断片を頭に入れるだけなら、それは外部メモリに記録するのと変わりません。けれど、本当に「わかる」というのは、自分の脳の中に、ある種のシミュレーションができるモデルができあがることなんです。例えば数学の問題で、「2a - a = 2」と答えてしまう子がいます。aが2つあるところからaを引けば、残りは数字の2じゃないか、と。日常の言葉の世界では正解に見えるかもしれませんが、数学という別世界のルールに飛び込めていない。aが何であっても、4aからaを引けば3aになると「わかって」いれば、それは単なる知識ではなく、応用が利く力になります。
この「わかる」の基礎になるのは、実は身体を動かすこと、つまり入出力の繰り返しです。赤ん坊が自分の手をじっと見つめながら動かす。ハイハイをして、対象に近づけば大きく見え、遠ざかれば小さく見えることを身をもって知る。そうやって脳の中に、距離と大きさの関係、つまり比例の規則がひとりでに作り上げられていく。これが学習の根本です。机に向かって教科書を読むだけでは、本当に身につく学びにはなりません。
◉自分が変わる、それが本当の学び
養老さんは、知ることの本質を、「自分が変わること」だと言い切ります。これにはハッとさせられました。何か新しい知識を手に入れた時、私たちは「世界についての情報が増えた」と考えがちですが、そうではない。本当の学びを得た時、変わったのは世界ではなく、見ている自分自身のほうなんです。
宣告され、それを納得した瞬間から、自分が変わります。世界がそれまでとは違って見えます。でも世界が変わったのではなく、見ている自分が変わったんです。つまり、知るとは、自分が変わることなのです。自分が変わるとはどういうことでしょうか。それ以前の自分が部分的に死んで、生まれ変わっていることです。
「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」という言葉がありますが、これは、新しい見方を手に入れた瞬間に、それまでの古い自分が死んで、新しい自分に生まれ変わる、その激しい変化を指しているのだと養老さんは解釈します。けれど、今の私たちは「確固とした自分」という情報に縛られすぎていて、自分が変わることをどこか恐れている。
世の中でよく行われている未来予測も、実はこの「自分が変わる」ことを棚上げにしています。「ああすれば、こうなる」という単純な予測がアテにならないのは、予測の前提となる自分自身が、その未来にたどり着くまでに変わってしまうことを無視しているからです。CGや映画の映像がどれほどリアルに動いているように見えても、それはデジタルデータのピクセルが色を変えているだけで、実は1ミリも動いていない嘘と誤魔化しの塊に過ぎません。その嘘に騙されてしまうのは、見ている側の脳が、動かない情報を勝手に解釈してしまっているからです。
◆心に個性はない、あるのは共通性だけ
ここから話は、今の時代に最も突き刺さる「個性」という問題に移ります。よく「個性を伸ばそう」とか「自分らしく生きよう」と言われますが、養老さんの指摘は痛快なほどに厳しい。心に個性があるなんて思っているとしたら、それは大きな勘違いだと言うんです。
私の個性は私だけの考え、私だけの感情、私だけの思いにある。ここに大きな誤解があります。心に個性はありません。他人に理解できないことを理解し、感じられないことを感じている人がいたら、それは病気です。私の考えを説明して、それがわかってもらえたら、それは私の考えだけじゃなくなるんです。だから心は共通です。
考えてみれば当たり前です。もし心の中に、自分にしか絶対に理解できないような独自の「個性」があったとしたら、私たちは誰ともコミュニケーションが取れません。「お腹が空いた」と言って相手に通じるのは、相手も「お腹が空く」という共通の感覚を持っているからです。言葉が通じるということは、私たちの心や意識が「共通了解」の世界、つまり「同じ」を目指す世界に住んでいるという証拠なんです。
じゃあ、本当の個性はどこにあるのか。養老さんは、それは「身体」にしかないと言います。例えば、大谷翔平選手の考え方を真似して、彼と同じように考え、話すことはできるかもしれない。けれど、彼のあの身体を真似ることは誰にもできません。親子の間ですら、皮膚の移植が拒絶反応でつかないことがある。誰に教わったわけでもないのに、身体は自分と他人を、分子レベルで厳格に区別している。これこそが、如何ともしがたい唯一無二の「個性」なんです。
◉身体という「逃げられない個性」
それなのに、今の教育や社会は、この身体という個性を無視して、頭の中、つまり意識の中に個性を求めようとしています。けれど、意識や心は本来、他人と「同じ」になるための機能ですから、そこで個性を発揮しようとすればするほど、矛盾に陥ってしまう。
今の若い人は本当に気の毒です。一方では、英語で論文を書け、もっと利益を出せ「共通了解」を求められる。他方では、何を意味しているのかわからない「個性」を伸ばせと言われる。こういう矛盾の中で生活していたら、頭を抱えて混乱するのは当たり前です。
社会が求めている「個性」とは、結局のところ、社会の役に立つ範囲内での「目立ち方」でしかありません。そんなインチキな個性を求められるから、今の若者は、マニュアル通りに振る舞いながら、どこかに「本当の自分」がいるはずだと探し回る。けれど、探している当の自分がどんどん変わっていくんだから、見つかるわけがありません。自分とは、どこかに埋まっている宝物のように「探す」ものではなく、日々の手入れを通じて、少しずつ「創り上げていく」ものなんです。
◉SNSという名の、身体なき荒野
今のネット社会、特にSNSを見ていると、この「身体の不在」がいかに深刻かがわかります。SNSはまさに、身体性を切り捨てた「純粋脳化社会」そのものです。そこでは言葉と概念だけが飛び交い、「同じ」であることを強要し、少しでも違う意見を持つ者を執拗に攻撃する。
SNSには身体がありません。純粋脳化社会です。身体がないので、言葉、概念だけでコミュニケーションをする。概念の力は「同じ」をつくることです。違いは認めない。SNSそのものじゃないですか。
目の前に相手の身体があれば、言葉がどれほど激しくても、相手の呼吸や表情から、どこかで「これ以上はまずい」という感覚が働きます。けれど、身体のないSNSではそのブレーキが利きません。言葉はどんどんエスカレートし、承認欲求を満たすための過激な表現が溢れかえる。それは、自分の身体や感覚を無視して、意識の上澄みだけで火花を散らしているような、非常に危うい状態です。だからこそ養老さんは、人疲れした時は「対物の世界」、つまり自然の中へ行けと勧めるんです。
◆「好き」を仕事にするという病
仕事についても、養老さんの考え方は非常に朴訥で、けれど深く納得させられるものがあります。最近は「好きなことを仕事にしよう」というスローガンが花盛りですが、そもそも自分の「好き」なんてものが、そんなにハッキリしているでしょうか。
養老さん自身、臨床の医者になりたくなくて、仕方なく解剖学の道を選んだと言います。ところが、解剖を仕事にしてみれば、研究だけしていればいいわけではなく、お正月に献体を引き取りに行かなければならなかったり、泥臭い事務作業が山ほどついてきたりした。そこで養老さんが出した結論が、この言葉です。
好きなことをやりたかったら、やらなくちゃいけないことを好きになるしかない。
これは諦めではなく、知恵なんです。世の中は自分が生まれる前からそこにあり、自分の好き嫌いとは無関係に動いています。いわば、私たちは全員、世の中に遅刻して生まれてきたようなものです。すでに始まっているゲームに放り込まれたら、ルールの不満を言う前に、まずはその場に合わせて身体を動かしてみるしかない。
やらなきゃいけないことを、文句を言わずに、腹を括ってやり続ける。そうすると、不思議なことに、自分の脳の中に新しい「型」が身についてきます。日本の伝統芸能が「守・破・離」を大切にするように、まずは師匠の型を徹底的に真似る。どうしても真似しきれない、そのはみ出した部分にこそ、後から本物の個性が立ち現れてくる。反復練習をすっ飛ばして、最初から個性を出そうとするから、何も身につかないまま空回りしてしまうんです。
◉最後は「共鳴」するしかない
結局、「わかる」というのは、理屈で相手を論破することでも、情報をデータとして管理することでもありません。養老さんがたどり着いたのは、「共鳴」という言葉でした。
自然の中に身を置き、じっと虫を眺めている。あるいは、何十年も解剖を続ける。そうやって、自分の意識や理性の殻を少しずつ壊していくと、自分の内側にある自然のルールと、外側にある自然のルールが、ふとした瞬間に響き合うことがある。
自然がわかる。生物がわかる。その「わかる」の根本は、共鳴だと私は思います。人間同士もそうでしょう。なんだか共鳴する。「どこが好きなんですか」と聞かれても、よくわからない。理屈で人と仲良くなることはできません。暑い時に冷たい水に触れると、「気持ちいい」という感覚が皮膚を通じて入ってきます。それを感じることが共鳴です。共鳴は身体や感覚で感じるものです。
理屈で説明できることは、誰にでも代わりが務まる情報のやり取りに過ぎません。けれど、理屈を超えて「なんだか響き合う」感覚。それは、身体を持った生身の人間として、世界と直接向き合った時にだけ訪れる、奇跡のような瞬間です。
何でもかんでも分かろうとしなくていい。人生の意味なんて、分からなくていい。ただ、今日という日を生き、虫の声を聞き、風の冷たさを肌で感じる。そんな当たり前の身体感覚を取り戻すことから、本当の「ものがわかるということ」が始まっていく。そんな気がして、読み終わった後に思わず、外の空気を吸いに出かけたくなりました。
