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「右」も「左」もない。 未来は「背後」にある : ケイレブ・エヴェレット 『無数の言語、無数の世界』が教える、WEIRDな私たちが知らない思考の地平

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翔平 : 奈美さん、言語学には詳しいよね。最近、ケイレブ・エヴェレットの『無数の言語、無数の世界』という本を読んだんだけど、今の言語学や心理学の知見って、実はすごく偏っているらしいよ。

奈美 : あら、どういうことかしら? 言語学は普遍的な法則を見つける学問だと思っていたけれど。

翔平 : そこが落とし穴なんだって。これまでの知見の多くは、西洋の、教育水準が高く、工業化された、裕福で民主主義的な「WEIRD(Western, Educated, Industrialized, Rich, and Democratic)」社会の人々に依存しているんだ。全人類からすれば、実はかなり「風変わり(weird)」な集団を代表として一般化してきたというバイアスが指摘されているんだよ。

奈美 : WEIRD社会……確かに、私たちが「普通」だと思っていることが、全人類のスタンダードとは限らないのね。

翔平 : そうなんだ。世界には7000以上の言語があるのに、多くの人は自分の身近な数少ない言語、特にインド・ヨーロッパ語族の経験だけで言語を似通ったものだと過小評価しがちなんだ。その結果、チョムスキーが提唱した「普遍文法」の核とされる「再帰(節の埋め込み)」すら、ピダハン語やワルピリ語、さらには口語インドネシア語のような非WEIRD言語を詳しく調べると、存在しないか必須ではない可能性が出てきているんだよ。

奈美 : 再帰が普遍的ではないなんて、言語学の根幹を揺るがす話だわ。他にはどんな違いがあるの?

翔平 : 例えば「時間」の捉え方だね。英語では「未来は前方」と考えるけど、アンデスのアイマラ語では「経験済みの過去は目に見える前方、未知の未来は背後」と捉え、ジェスチャーもそれに従うんだ。

奈美 : 面白いわね! 日本語でも「前」という言葉が、空間的には「目の前(未来方向)」を指すこともあれば、時間的には「以前(過去)」を指すこともあるから、少し感覚が分かる気がするわ。

翔平 : 他にも、ニューギニアのユプノ語では時間は「山側(上り側)」に向かって流れるとされるし、アマゾニアのニェエンガトゥ語では時刻を伝える際に空の太陽の位置を指差すことが文法的に義務的なんだ。

奈美 : 環境が直接、言葉の仕組みに組み込まれているのね。

翔平 : 空間の捉え方もそうで、英語のように「左・右」という自分の身体を基準にする「自己中心的」な言語に対し、オーストラリアのクーク・ターヨレ語のように常に東西南北や地形を基準にする「環境中心的」な言語もある。こうした言語を話す人々は、目隠しをしても絶対的な方位で物事を記憶する能力が発達しているんだよ。

奈美 : 空間認識といえば、日本の色彩感覚も独特よね。日本語は伝統的に「和の色」と呼ばれる繊細な色名が豊富で、400以上の色名が存在すると言われているわ。自然由来の微妙なニュアンス、例えば「浅葱色」や「若草色」を細かく区別する能力は、まさに環境と文化の産物だわ。

翔平 : まさにその通りだね。この本でも、基本色彩語は言語により2〜15語と幅があるけれど、暖色(赤や黄)は寒色(青や緑)よりも前景にある注目すべきモノに多いため、より精密にコード化される傾向があると説明されているよ。

奈美 : 色だけじゃなくて、五感全般はどうなのかしら?

翔平 : 「匂い」についても、英語は抽象的に名付けるのが苦手で「ポップコーンのような匂い」といった発生源ベースの表現になりがちだけど、マレーシアのジャハイ語などは匂いを表す専用の抽象語を豊富に持っていて、日常会話で頻繁に使われるんだ。一方で「味」に関しては、多くの言語で規則的かつ一貫してコード化されていることが世界規模の調査で示されているよ。

奈美 : 味の表現については、日本語もすごく豊かよ。日本語は「サクサク」「プリプリ」といった触覚で味を表現する「味覚の共感覚表現」がとても多いのが特徴なの。一つのオノマトペが視覚・触覚・味覚を同時に表すような「複合感覚表現」が発達しているのも、日本人の食に対する繊細な認知を反映していると言えるわね。

翔平 : さらに驚くべきは、言語が身体の進化や環境にまで適応しているという説だ。農耕の普及で柔らかい食事が一般的になると、成人の噛み合わせが「垂直被蓋(オーバーバイト)」に変化したことで、「f」や「v」といった唇歯音が発音しやすくなり、それらが言語に定着しやすくなったというんだ。

奈美 : 食事の内容が言語の「音」を変えるなんて、想像もしていなかったわ!

翔平 : 他にも、非常に乾燥した環境では声帯の精密なコントロールが難しくなるため、ピッチで意味を分ける「複雑な声調」を持つ言語は乾燥した地域では発展しにくいという相関関係も見出されているんだよ。

奈美 : 環境が物理的に声の出し方まで規定しているということね。でも、世界中の言語で共通している部分はないのかしら?

翔平 : 実は、聞き直しのための「huh?(はあ?)」という言葉は、世界中の言語でほぼ同じ語形と上昇調のイントネーションを持っていることが分かったんだ。これは、最小の労力で会話の行き違いを修復するという機能に、人類が共通して適応した結果らしいよ。

奈美 : 「はあ?」が世界共通だなんて、なんだか親近感が湧くわね。

翔平 : 面白いよね。でも、この本が最後に警告しているのは、今世紀末には現存する言語の90%以上が消滅するという予測なんだ。

奈美 : 90%……! 言語が失われるということは、その言葉に織り込まれた独特の世界像や、人間についての深い理解も一緒に失われてしまうということよね。

翔平 : そうなんだ。私たちが「人間とは何か」を真に理解するためには、消えゆく多様な言語が保持している、WEIRD社会とは異なる「無数の世界」の標本を救い出すことが、今まさに緊急の課題なんだよ。

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