【直木賞】 「物語の力と言えるのか」 受賞作さえ斬り捨てる高村薫の“冷徹選評”を味わい尽くす
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1 さらば、愛しき「冷徹の女王」
第174回直木賞は、嶋津輝氏の『カフェーの帰り道』が受賞されましたね。おめでとうございます!受賞作が発表されると、次に楽しみになるのが選考委員の先生方による選評です。なぜその作品が選ばれたのか、あるいは選ばれなかったのか、プロの作家がその小説の「本質」をどう見抜いたのかを知るのは、読書の醍醐味の一つと言えるでしょう。
しかし、今回の選評を待つにあたり、私には一つだけ寂しいことがあります。それは、あの高村薫さんの選評がもう読めないということ。第150回から第172回まで、長きにわたり直木賞の選考委員を務められた高村女史が、すでに退任されていたのです。
高村選評といえば、その冷徹さと手厳しさで知られ、読んでいると「そこまで言っちゃう!?」とニヤニヤが止まらない、ある種のエンターテインメントでした。小説の「基本的な勘どころ」から外れた作品には容赦がなく、そのコメントはまさに剣もほろろ。今回は、そんな高村薫氏の直木賞選評(第150回〜第172回)を徹底的に掘り起こし、その「辛口の美学」を味わい尽くしたいと思います。
2 受賞作さえ「困惑」させる、冷徹な一刀両断
まずは、女史の「冷徹さ」が最も際立つ、受賞作に対するコメントから見ていきましょう。
直木賞を受賞したということは、他の選考委員からは高い評価を得たということ。しかし、高村女史は、たとえ受賞作であっても、自身の小説観に照らして納得がいかなければ、一切の忖度なく疑問を呈します。
その代表例が、第165回(2021年7月)の受賞作、佐藤究氏の『テスカトリポカ』に対する評です。
「事前の予想以上に絶賛の嵐で、評者は大いに困惑した。今回の候補作のなかでもっとも筆力があるのは明らかな一方、これはほんとうに物語の力と言えるのか、血まみれの臓器や肉片が飛び交う残虐なイメージの力ではないかのか、ふと分からなくなったからである。」
「絶賛の嵐に困惑した」って、もう最高に身も蓋もないコメントですよね。他の委員が「傑作!」と手放しで褒める中、一人だけ「これ、本当に物語の力なの?」と、小説の根幹に疑問符を投げかける。この孤高の姿勢こそが、高村選評の真骨頂です。
他にも、世間的な評価が高い作品への「冷や水」は枚挙にいとまがありません。
第152回『サラバ!』西加奈子
「最後に自分は『そもそも男ですらないかもしれない』という暴露があって、小説の土台が根こそぎにされる。違和感の正体は視点の定まらなさだったわけだが、作者はなぜこんな自己言及をしたのか。」「あえて性別不詳の視点を取るならば、もっと違った世界が出現してこなければならないのだ。」
第156回『蜜蜂と遠雷』恩田陸
「登場人物に人間の深みがない点で不満が残った。」「(天才とは)十分に言語化できないということであり、だからこそ天才の姿を描くのは困難なのだが、作者はそのことに悩んだ形跡がない。」「また、数十曲もの楽曲とその演奏を言語化する困難にも、作者は力業で挑んでいるが、どんなに大量の比喩が重ねられても、そこから音楽は立ち上がってこなかった。これは端的に、言葉の連なりが音楽の響きをもってくるような文章には仕上がっていないということだろう。」
第157回『月の満ち欠け』佐藤正午
「いかにも小説的な文体のわりに意外なほど人間の体温に乏しい。生まれ変わりという主題がそのまま小説の動力になり、躯体になる一方で、自分が生まれ変わりだと知った人間の驚きや苦悩が一切描かれていないことに因るが、ベテラン作家のこの企みの目的は奈辺にあるのだろうか。」
特に『サラバ!』への評は強烈です。小説の「仕掛け」そのものを「土台が根こそぎにされる」とまで言い切ってしまう破壊力。読者としては「ニヤリ」としつつも、高村女史の小説に対する「真剣勝負」の姿勢が伝わってきて、背筋が伸びる思いがします。
3 「身も蓋もない」ほど貶された、哀れな受賞作たち
たとえ受賞作であっても容赦がないコメントはさらに続きます。もはや「酷評」というより、「小説の基本的な勘どころ」を問う公開質問状の様相を呈してきます。
第150回『恋歌』朝井まかて
「選考会では本文を三人称で書くべきだったという意見が出たが、評者も同感である。」「歴史と正面から向き合う小説的試みに、手記を他者が発見するといった構成上の小細工は不要だというのは、小説の基本的な勘どころである。」
第163回『少年と犬』馳星周
「人間を類型で簡潔に切り取るハードボイルドに、それ自体は小説的な言語化が難しい犬というモチーフを合わせて、大人の童話に仕立てたのであろう。」「しかし本作は、ハードボイルドとしても動物の物語としても終始平板で深みを欠き、評者には積極的に推すべき点が見当たらなかった。」
第171回『ツミデミック』一穂ミチ
「後味の悪さも異常さも短編の魅力の一つではあるが、個人的にはここまでつくり込まなくても、と思う。」
第172回『藍を継ぐ海』伊与原新
「『夢化けの島』の萩焼の土や『星隕つ駅逓』の隕石などは小説として昇華させるのが難しく、生のまま素材が素材に留まっている分、登場人物も十分に立ってこない。物語としてまとまってはいても、小説らしい奥行きや躍動感に欠けるのである。」
馳星周氏の『少年と犬』では、「終始平板で深みを欠き」とバッサリ。また、朝井まかて氏の『恋歌』は、この回で姫野カオルコ氏の『昭和の犬』と同時受賞を果たした作品ですが、高村女史は「構成上の小細工は不要」と、受賞作の一方を「小細工」呼ばわり。この容赦のなさがたまりません。
特に「個人的にはここまでつくり込まなくても、と思う」という、突き放したようなコメントは、高村女史の「小説とは何か」という問いが透けて見えるようで、読んでいると「ごもっとも!」と膝を打ちたくなります。
4 女史が「高く買っていた」作品から見えてくる小説観
さて、辛口コメントばかりに注目してきましたが、高村女史が「◎」をつけ、強く推した作品には、彼女の小説に対する「理想の姿」が垣間見えます。女史が「高く買っていた」のは、一体どのような作品だったのでしょうか。
第151回『破門』黒川博行
「小説空間の網目の確かさという意味で、ほかの五作に抜きんでており、初めから受賞作は本作という心づもりで選考会に臨んだ。ひと昔前の小説スタイルながら、もはや職人芸の世界であり、エンターテインメントとして過不足がない。」
第153回『流』東山彰良
「中国語圏の身体感覚と台湾の鮮烈な生活風景が目に浮かぶようで、小説を読む幸福を久々に味わった。日中戦争に翻弄された歴史や、祖父が殺されるという家族の事件などがどれも陰惨すぎず、重すぎず、軽すぎない物語として機能しているのは、作者が主人公を十七歳の少年に設定したことから来ているが、これこそ小説家の直観的なバランス感覚である。」
第161回『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』大島真寿美
「作家と素材の幸運な出会いが生んだ傑作だと思う。浄瑠璃という素材が作者の言語感覚を刺激し、表現を引き出して、大阪弁の一人語りと浄瑠璃の台詞と道頓堀の賑わいの声などが渾然一体となった言語空間に結実しているのは、まさに創作の奇跡というものでもある。」
第164回『インビジブル』(候補作)坂上泉
「候補六作のなかでは一番迫力があり、評者はその一点をもって本作を推した。」「若い作者がよく資料を咀嚼して描いていると感心する一方、皮膚感覚のレベルでやはり作り物感があるのも事実である。」
高村女史が推すのは、「小説を読む幸福」を感じさせる、「職人芸」のような確かな技術に裏打ちされた作品、そして「創作の奇跡」と呼べるほどの熱量と完成度を持つ作品です。彼女の小説観は、流行や話題性ではなく、あくまで小説という形式の持つ力、そして作家の「直観的なバランス感覚」に重きを置いていることがわかります。
5 「小説の真髄」を問い続けた、孤高の選考委員
高村薫氏の選評を振り返ると、彼女が常に問い続けていたのは、「小説の真髄とは何か」という、文学の根源的なテーマだったように思います。
その気になれば誰でも小説のようなものは書ける今日、小説の真髄が逆に問われているのだと思う。
これは、彼女が選考委員を務めた期間中に残した、最も本質的な言葉の一つでしょう。
そして、彼女の選評には、小説家としての矜持がにじみ出ています。例えば、女性作家の作品を評する際に、彼女はこう述べています。
『女流』はもはや死語である。
性別に関係なく、小説は小説として、その「本質」で勝負すべきだという、彼女の揺るぎない信念が伝わってきます。
高村薫氏の選評は、時に冷たく、時に手厳しく、そして常に小説への愛と厳しさに満ちていました。彼女の選評を読むことは、単なる結果の確認ではなく、「小説とは何か」という問いを私たち読者自身に突きつける、刺激的な体験だったと言えるでしょう。
もう彼女の選評が読めないのは本当に残念ですが、彼女が残した数々の「冷徹な名言」は、これからも小説を愛する人々の間で、語り継がれていくに違いありません。
