【衝撃のパラドックス】 誰もが知る「生」の感覚は、なぜ科学最大のブラックボックスなのか? ― 狂気の科学者、ミニ脳、粘菌が織りなす生命の境界を巡る400年の物語
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なぜ「生きている」ことは世界で最も自明な事実なのに、私たちは未だにその定義を語れないのか?
私たちは朝、海岸でまばゆい日差しを浴びて汗をかきながら、あるいは冬眠中のコウモリが壁に静かにぶら下がっているのを見て、反射的にそれが「生きている」ことを知ります。私たちの脳には、丘を駆け下りるオオカミと、ただ転がり落ちる岩の違いを瞬時に見分ける「生物を見分ける脳内回路」が、生まれながらに備わっているからです。
それなのに、なぜ「生命の定義」は4世紀に及ぶ科学史を通じて、地下を流れる川のように底流をなしつつも、未だに解決されない最大の謎であり続けているのでしょうか?
生命の謎を追い求め、分子や原子のレベルまで掘り下げていくと、私たちは予測可能な世界観から不確定で予測不能な量子物理の世界に引き込まれ、最終的には「まるで命のないものに行き着いてしまった」という逆説に直面します。
この本は、私たち自身の直感と、現代科学の到達点との間に横たわる、巨大な矛盾と混沌を巡る知的冒険の物語です。 読者は、一時は生命の秘密を暴いたと讃えられながらも、その後転落の道を辿ったジョン・バトラー・バークという一人の科学者の波乱万丈な物語から、この壮大な探求の旅へと誘われます。バークが試みた、命なき物質から人工生命を創り出そうとする試みは、現代の最先端の科学者たちが直面している難問と、驚くほど酷似しているのです。
◆ 序章のパラドックス:世界を熱狂させた「人工生命」の光と影
1905年、イギリスのキャヴェンディッシュ研究所にいた若き物理学者ジョン・バトラー・バークは、試験管のスープに微量のラジウム塩を落とすという、大胆な実験を行いました。一夜明けて、そのスープの表面には曇った層ができ、顕微鏡で覗くと、細菌よりずっと小さい粒が散らばっていました。その粒は形を変え、球形になり、やがて小さな花のように膨らんで、分かれたのです。バークはこれを「人工生命」とみずから呼び、「レディオーブ」と名づけました。
このニュースは世界を駆け巡り、人々は熱狂しました。「ラジウムは生命の秘密を暴いたのか?」と『ニューヨーク・タイムズ』紙は問いかけ、ロンドンの『タイムズ』紙はバークを「古今を通じて最大級の偉業」をなし遂げた人物と評しました。バークは瞬く間に時の人となり、彼の著書『生命の起源』は、「『種の起源』出版以後の科学史において、どの出来事よりも多くの議論を呼んでいるのではないか」とまで書きたてられました。
しかし、彼の栄光は長くは続きませんでした。まもなく、別の科学者による追試によって、バークが描いた生命に似たレディオーブは、実は「塩の働きによってゼラチンに生じた小さな水の泡にすぎない」という決定的証拠が示されます。バークは科学者仲間から激しく嘲笑され、講演や執筆による収入を失い、40年後の死を迎えるまで、長い転落の道をたどることになったのです。
なぜジンマーは、この「失敗」の物語から生命の探求を始めるのでしょうか?それは、生命の定義の曖昧さが、今なお最先端の実験科学の現場で、科学者たちを熱狂と混沌に引きずり込んでいるからにほかなりません。
◆ 第1の混沌:崩壊に向かう宇宙で、なぜ「生」だけが秩序を維持するのか?
物理学の法則によれば、宇宙のあらゆるものは、時とともに無秩序さ(エントロピー)が増大する方向に進みます。自然界において、ワイングラスが床に落ちて砕けるのは当然の出来事ですが、100個のかけらが集まって元のワイングラスになることはありません。
しかし、生命はこの宇宙の必然に逆らいます。
宇宙は、その秩序が崩壊するようにできているようだが、生命は途方もない秩序を維持している。ワイングラスが床に落ちて100個のかけらに砕けても驚きはしない。だが、100個のかけらが集まってワイングラスになったら驚きだ。鍋に湯を沸かし、色とりどりの食用色素を入れると、虹のようにきれいな縞になるとは思えない。泥のような色になるだろう。生命は、この必然に逆らう。卵が孵ってハクチョウになり、種子は芽吹いてヒャクニチソウになる。一個の細胞さえ、分子の驚くべき秩序を維持できるのだ。
生命は、このエントロピーの増大に逆らうために「負のエントロピー」を糧としてエネルギーを取り込み、秩序を保ちます。物理学者のマックス・デルブリュックは、この生命の驚異をこのように表現しました。
「ちっぽけな生細胞が、魔法のパズルの箱になるのです」とデルブリュックはのちに説明している。
「それは複雑で変化する分子に満ちあふれています。そして、有機合成をたやすく、手早く、的確におこなうスキルにおいて、人間のあらゆる化学実験室を圧倒的にしのいでいます」
生命が持つこの「秩序」と「全体性」の維持能力は、まさに生命を非生命と分かつ特徴です。ノーベル賞受賞者のニールス・ボーアは、生命の理解には二面性があると考えました。
「よくそのことを話していらっしゃいました」。のちにデルブリュックは、ボーアについて思い返している。「生物については、生物として見るか、分子の集まりとして見るかのどちらかしかできないのだと」
生命を単なる分子の集まりとして分析するだけでは、その生きた「全体」としての機能や安定性は決して理解できないのです。生命の謎を追い求めると、筋肉や細胞、分子の化学に行き着くのに、その根源的な原理は量子物理学にまで至り、予測可能なはずの厳然とした世界観が揺らぎます。この不可解な自己組織化の力こそが、科学者たちが今もなお生命の定義に苦しむ根本的な理由です。
◆ 第2の混沌:自己の「生」の確信は、なぜ脳の損傷で消滅するのか?
私たちは、自分が生きているという確信を、論理や演繹によらず、直感的に抱いています。ところが、生命の境界領域を探ると、この揺るぎないはずの「生」の感覚が、いとも簡単に崩壊するケースに直面します。
「コタール症候群」は、自分が死んではいないのに、生きている感覚を失い、自分は死んでいると訴えるという稀な疾患です。ある患者は「自分には脳がなく、神経も、肺も、胃も腸もない」と断言し、別の男性は「自分は昨年湖で溺死した」と医師に告げました。MRI検査で機能する脳が確認されても、彼らの確信は変わりません。
この症状の原因は、両眼の数センチメートル後ろにある「島皮質」の損傷にあります。
島皮質に流れ込むシグナルは、われわれが生きていることを直感するのに欠かせないのかもしれない。そこがダメージを受けると、その直感がいきなり消え、コタール症候群が発症する。われわれの脳は、処理するシグナルに合わせて、絶えず現実に対する見方をアップデートしている。体内の状態の情報が得られなくなると、人はその変化を理解するために現実をアップデートする。そして理解のできる唯一の説明が、自分は死んだというものになるのだ。
私たちが「生きている」という自覚は、体じゅうから送られるシグナルを脳が受け取り、絶えず現実をアップデートし続けているという、極めて具体的な物理的プロセスによって支えられていたにすぎないのです。
さらに、生命の始まりと終わり、すなわち「生死の境界」もまた曖昧です。人工呼吸器の発達により、脳が絶望的なダメージを受けても心臓を動かし続けることが可能になりました。この状態は「コマ・デパセ」(昏睡状態を超えたもの)と呼ばれ、従来の死の定義に疑問を呈しています。
脳死と判定されたジャヒ・マクマスの心臓は数年にわたり動き続け、彼女は思春期に突入しました。思春期の移行は、脳内の視床下部によって統御されています。この事実は、脳死と判定された体の一部が、なお「生きて」活動している可能性を示しました。結局、ジャヒは17歳で亡くなりましたが、あやふやな法的観点によって、彼女は2度死んだことになったのです。
◆ 第3の混沌:脳を持たない粘菌は、なぜ数学者が解けない問題を解くのか?
生命が「生きている」ことを示す特徴の一つに、「意思決定能力」がありますが、この能力が必ずしも「脳」を必要としないという事実は、私たちの知性の定義を揺るがします。
レモン色のかたまりとして姿を現す粘菌(モジホコリ)は、命令を発する脳を持たない単細胞生物です。しかし、彼らの生存戦略は驚くべきものです。粘菌は脳のないタイプの「記憶」を用いて、迷路から脱獄したり、最短ルートを見つけたりします。
粘菌はこの脱獄を、脳のないタイプの記憶を用いてやってのけている。絶えず探索の触手を伸ばし、食物のシグナルの増大を検知しなければ引っ込めるのだ。引っ込めるときに、触手は粘液の皮膜をあとに残す。モジホコリは、自身の這い跡を感知して、新たな触手をそれから遠ざける。この外部記憶によって、粘菌は砂糖への誘惑を振り切れる。いくつも枝分かれした先端をアセテートの壁に打ちつけるのでなく、袋小路から出て食物へ向かう新たな道を探ることができるのだ。われわれには物事を記憶するのに脳が必要だが、モジホコリにはそのような器官はない。その代わりに、モジホコリは経験の記録を外界に残すのである。
さらに粘菌は、数学者を代々悩ませてきた「ナップザック問題」を解決し、最小限のコストで最大限の食物を摂取する完璧なネットワークを数日で編み出します。粘菌は、脳を持たないにもかかわらず、自身のネットワークを日々数学者のような正確さで調整し、環境の変化に驚くべき対応力を見せるのです。
◆ 第4の混沌:半生命の存在は、定義の土台を崩壊させる
生命の特徴をリスト化し、どれだけ多くの項目を満たしているかを基準に生命を定義しようとすると、すぐに「半生命」と呼ばれる境界領域の住人たちに直面します。
1 ウイルス:
ウイルスは、遺伝子を持ち、タンパク質と膜で構成されていますが、細胞が代謝に用いる酵素は見つからず、「食べることもなければ成長することもない」とされます。国際ウイルス分類委員会は「ウイルスは生物ではない」ときっぱり宣言しており、「ウイルスはただ、借り物のような一生を送るにすぎない」と評されています。
しかし、この「命なきもの」は、地球上に何兆種もひしめき、その多様性は桁外れです。これほどの生物学的な多様性を生命から閉め出すことは、生命の生態系の網にウイルスがどれほどしっかりと織り込まれているかを軽視することにもなります。
ウイルスを生命という家から閉め出しておきながら、戸口のあたりをうろつかせておくというのはどうにも落ち着かない。ウイルスはあたりにものすごくひしめいている。1リットルの海水には、地球の全人類よりも多くのウイルスが存在する。スプーン一杯の泥でも同じことが言える。地球上のウイルスをすべてかぞえ上げることができたら、その数は細胞をもつあらゆる形態の生命の総計をもしのぐはずで、10倍にさえなるかもしれない。
さらに恐ろしいのは、ウイルスが私たちの存在そのものに縫い込まれているという事実です。
われわれ自身のゲノムにもウイルスの断片が数万個含まれており、全部合わせるとDNAの8パーセントになる。そうした断片のなかには、遺伝子や、遺伝子をオンやオフの状態にするスイッチへと進化したものもある。ウイルスが命なきものだとすると、命なきものがわれわれの存在に縫い込まれていることになる。
2 ミトコンドリアと赤血球:
私たちの血管を流れる赤血球は、膜や酵素を持ち、寿命もあって死にますが、DNAを持たず、自身のタンパク質を作ったり分裂したりできません。
また、赤血球が燃料を作れないのは、ミトコンドリアという燃料工場がないからですが、このミトコンドリアも「半生命の形態」であることがわかっています。ミトコンドリアの祖先は20億年前に自由生活性の細菌でしたが、大きな細胞に呑み込まれ、ATPを提供する代わりにシェルターを獲得しました。ミトコンドリアは宿主細胞の外では存続できず、自分の食料を探すこともできません。
3 蘇生可能な生物:
クマムシや線虫といった生物は、体内の水をすべて失っても生き延び、数分で蘇生できます。この「クリプトビオシス」(隠れた生命活動)という状態は、「生と死のあいだの第3の状態」と表現されています。彼らは、生命に必要な化学反応を起こせない状態で何十年も生きながらえることができるのです。
ロシアの生化学者アレクサンドル・オパーリンは、こうした事実を前にして、生命の定義について次のように結論づけました。
「生命は、何か特別な性質によって特徴づけられるものではない。むしろ、そうした性質の、特定の組み合わせによって特徴づけられる」とオバーリンは結論づけている。
◆ 第5の混沌:定義なき科学は、人工生命や宇宙生命を探求できるのか?
生命の謎の探求が進むほど、科学者たちは生命の境界を巡るこの混沌に直面し、その「定義」について意見が一致しないという耐え難い状況に追い込まれます。
「なぜなら、生命について議論するのに、その一番重要な対象に定義がないまま進められるだろうか? 誰かが人工生命を作ったって、そんなものは生命じゃないと言えちゃうわけだから」
この「定義なき科学」の混乱は、宇宙生物学の領域で特に深刻です。火星からやってきて南極大陸に落ちた隕石「アラン・ヒルズ84001」から、NASAの科学者がかつての生物の化石を見つけたと主張したとき、宇宙のどこかほかの場所にいる生命の可能性についての議論は沸騰しました。しかし、その証拠はあまりにも曖昧であり、地球外生命の探索において、私たちは「何を探しているのか」さえ明確にできないというジレンマに陥っているのです。
それでも、科学者たちは生命を再現しようと試みを続けています。リー・クローニン博士は、ジョン・バトラー・バークの時代から一世紀を経て、生命を作るための「ドロップファクトリー」(しずく工場)というロボットを開発しました。彼は、単純なオイルの塊である「しずく」を選び、ロボットに化学物質を混ぜ合わせてシャーレに落とさせました。すると、そのしずくが、まるで「泳いでいるように見える」など、予期せぬふるまいを見せたのです。
ロボットによる試行錯誤の結果、しずくは「ドッグランに放たれた子犬のように走りまわるようになっていた」といいます。さらには、ふたつに分かれる能力を獲得し、「小さな子どもの群れを生み出していた」のです。
クローニンは、自分の試みがバークのように嘲笑されるか、「完全にまともか」のどちらかだと認めながら、生命の起源が長大な時間はかからなかったはずだと確信しています。
「ざっと計算して1万時間です」とクローニンは言った。「今後数年以内に、私たちは生命の起源の問題を解決するにちがいありません。でもそのとき、だれもがこう言うのです。『なんだ、簡単だったのか』と」
◉ 結論:生命の定義を放棄せよ!哲学者がちゃぶ台をひっくり返す
なぜ、これほどまでに生命の定義を巡る議論は混沌とし、熱狂と失敗を繰り返すのでしょうか?
これに対し、哲学者のキャロル・クリーランドは、この本の中で颯爽と登場し、「生命を定義するのは間違いだ」とちゃぶ台をひっくり返すのです。彼女は、生命の定義の探求は、「生きているとはどういうことかについて、より深い理解に至るのを阻んでいるから、科学にとって有害だ」とまで主張します。
クリーランドによれば、私たちは「生命が何であるのかを知りたい」のであり、概念と概念を結びつけるだけの「定義」を探し求めても意味がありません。彼女は、生命の定義を探す現代の生物学者を、近代化学以前に「水」を定義しようとして失敗した錬金術師に例えます。
生命については、われわれはまだ錬金術師の段階だとクリーランドは言う。われわれはどれが生きていてどれが生きていないかを直感で決め、それぞれに共通する特徴のリストを恣意的に作っている。また自分たちの無知を、自分たちが理解しようとしているものを決してとらえられない定義で取り繕っている。今科学者にできる最善のことは、生命を説明する理論を目指して努力することだ、とクリーランドは論じている。
生命とは単なるリストや定義ではなく、物理学や化学を超越した「生命といったらそれしかありえないというものだ」という「生命の理論」によってのみ説明されるべきなのです。科学者たちは、まだその理論を手にしてはいませんが、まるで未来から投げかけられた影を読み取ろうとしているかのように、その理論を目指して努力しています。
カール・ジンマーの『「生きている」とはどういうことか』は、私たちが当たり前に知っていると思っていた「生命」という概念が、実はどれほど危うく、深く、そして混沌に満ちたフロンティアであるかを教えてくれます。生と死、物質と精神、秩序と無秩序の境界線が溶解していくこの物語は、あなた自身の生命観を根本から問い直す、知的興奮に満ちた旅となるでしょう。
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