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【書評】 『大名廃業』 : 江戸の大名は”崖っぷちの経営者”だった!? 不祥事、跡継ぎ不在、そして廃業….徳川の掟に震えたお殿様たちの、壮絶なリストラ戦記

江戸時代の大名といえば、一度その座に就けば一生安泰、子々孫々まで贅沢三昧ができる。そんなイメージを持っている人は、意外と多いのかもしれません。でも、事実はまったく違いました。彼らは常に、幕府という巨大な権力の顔色をうかがい、一歩間違えれば、昨日までの領主から一転して路頭に迷う浪人に転落する。そんな薄氷を踏むような日々を送っていたんです。安藤優一郎さんの『大名廃業』という本によると、教科書に載っている華やかな江戸時代の裏側で、いかに多くの廃業が繰り返されていたかに驚かされます。お家を取り潰される改易は、まさに現代でいう企業の倒産そのものです。経営の舵取りを誤り、後継者選びに失敗し、あるいは不祥事を起こして、社長も社員もまとめて放り出される。そんな生々しいドラマが、江戸の空の下で幾度となく展開されていたんです。

◉ 将軍の弟でも容赦なし。初期の幕府が振るった伝家の宝刀

江戸幕府が誕生して間もない頃、改易の嵐は特に激しく吹き荒れました。驚くべきことに、その最初の犠牲者になったのは、他ならぬ徳川家康の身内、親藩大名だったんです。家康の五男である武田信吉は、名門武田家の名跡を継いで水戸15万石を治めていましたが、わずか21歳で病死してしまいます。彼に跡継ぎがいなかったという、ただそれだけの理由で、再興された武田氏はあっけなく断絶してしまいました。

江戸時代を通じて大名廃業が最も多かったのは、三代将軍・徳川家光までの時期である。将軍の権力基盤はまだ脆弱であり、改易によって諸大名の力を削ぎたい意図が秘められていた。大名の家督相続には幕府の許可が要件と定め、これを最大限活用したのだ。跡継ぎがいなければ、自動的に改易とした。

この時期の幕府は、とにかく「ルールは絶対」という姿勢を崩しませんでした。家康の四男である松平忠吉も、関ヶ原の戦いで武功を挙げた実子でありながら、跡継ぎがいないことを理由に、やはりお家断絶の憂き目に遭っています。実の息子であっても特例は認めない。そうすることで、他の外様大名たちに対して「文句は言わせない」という無言の圧力をかけていたわけです。さらに、二代将軍・秀忠は弟の松平忠輝を、三代将軍・家光は弟の徳川忠長を、それぞれ改易や自害に追い込んでいます。将軍としての威光を天下に示すためには、身内の命さえも道具にする。そんな凄まじいまでの覚悟が、幕府の基盤を固めていったことが分かります。

◉ 浪人の群れが江戸を揺るがす。1651年の大転換

ところが、あまりに厳しくお家を取り潰しすぎたことが、逆に幕府の首を絞めることになります。改易されるたびに大量の浪人が発生し、彼らが社会不安の種になったんです。その不満が爆発したのが、1651年に起きた由井正雪の乱、いわゆる慶安事件でした。これに衝撃を受けた幕府は、これまでのやり方を根本から見直すことになります。

これに衝撃を受けた幕府は、事件の原因となった浪人の増大を食い止めるため、大名の改易に慎重になる。余程の失政や問題がない限り、大名の存続をはかるようになった。具体的には、末期養子の禁を緩和することで改易を極力防ごうとした。跡継ぎのいない大名が、臨終の際に養子を届け出ることを条件付きで認めたのである。

これまでは、殿様が死に際に慌てて養子を願い出る「末期養子」は認められていませんでしたが、これを50歳未満の大名には許可することにしました。この規制緩和のおかげで、跡継ぎがいないという理由で廃業に追い込まれる大名は激減しました。お家を守るために、幕府もまた柔軟にならざるを得なかったんです。

◉ お家を守るための「死に際」の知恵

それでも、すべての危機を回避できたわけではありません。殿様だって人間ですから、酒に溺れることもあれば、精神を病むこともあります。あるいは、どうしても許せない相手に刀を抜いてしまうこともある。そんなとき、残された家臣たちはどうやってお家を守ろうとしたのでしょうか。ここで編み出されたのが、実に巧妙な落とし所の数々でした。

改易と当時に御家再興を認めることで実際は減封処分にとどめる事例は、江戸幕府による改易でもみられた。貞享3年(1686)閏3月、幕府は福井藩主・松平綱昌の所領50万石を没収して改易としたが、同時に御家再興を認めて前藩主の昌親(吉品)に新知として25万石を与えた。差し引き25万石の減封処分となったことはすでに述べたところである。

このように、形の上では一度取り潰すが、すぐに別の親族を立てて再興を許すという、実質的な減封処分で済ませるパターンが増えていきました。これは幕府にとっても、大名のメンツを立てつつ、実質的にその力を削ぐことができる、一石二鳥の名案だったわけです。

◉ 江戸城は戦場だった? 松の廊下の影に隠れた血煙

刃傷沙汰、つまりお城の中での殺傷事件といえば、誰もが忠臣蔵の松の廊下を思い浮かべるでしょう。でも、あの事件は氷山の一角に過ぎませんでした。実は、五代将軍・綱吉の時代だけでも、大きな事件がそれ以前に2度も起きていたんです。1つは前将軍の法要の最中、増上寺で起きた内藤忠勝による永井尚長の殺害事件。そしてもう1つは、あの大老・堀田正俊が、若年寄の稲葉正休に江戸城内で刺殺されるという、前代未聞の事件でした。

稲葉家が御家断絶となったのは言うまでもないが、正俊も正休も死んでしまった以上、まさに死人に口なしである。正休が刃傷に及んだ動機については迷宮入りとなる。そのため、水戸藩主・徳川光圀などは正休を斬り殺した老中たちの対応を批判している。こうなると、様々な憶測が流れるのは避けられなかった。

驚くことに、この大老暗殺事件には将軍綱吉自身の関与さえ噂されていました。目障りになった功臣を、別の部下を使って消させたのではないか、というわけです。泰平の世といわれながらも、お城の中はいつ刃傷沙汰が起きてもおかしくない、殺伐とした空気が流れていたのかもしれません。

◉ 犬小屋が狂わせた大名の運命

綱吉の時代といえば、「生類憐みの令」も忘れてはいけません。これがきっかけで人生を狂わせた殿様もいました。中野に造られた広大な犬小屋の建設を命じられた津山藩主の森長成ですが、27歳の若さで急死してしまいます。跡継ぎがいなかったため、急遽、建設責任者を務めていた叔父の関衆利が五代目藩主として迎えられました。ところが、この衆利が江戸へ向かう途中で突然狂乱状態に陥り、幕府から「乱心」と認定されてお家は改易されてしまったんです。

乱心の理由は不明だが、藩主の一族とはいえ、家老から藩主となったことへの戸惑いと緊張感に耐えかねた結果、情緒不安定となり乱心状態に陥ったのかもしれない。江戸城に登城して将軍に拝謁することは当の大名にたいへんな緊張感を強いるものであったが、中野の犬小屋建設に苦労したこととの関係を指摘する説もある。

巨大プロジェクトの重圧と、突然背負わされた藩主という肩書き。そのプレッシャーがいかに凄まじいものだったか、現代の私たちにも痛いほど伝わってくる話です。

◉ 殿様を座敷牢に放り込め! 決死の「主君押込」

もし、自分の主君がどうしようもない暴君だったり、お家を潰しかねない乱心者だったら、あなたならどうしますか? 江戸時代の家臣たちは、とんでもない実力行使に出ることがありました。それが「主君押込」です。主君を文字通り座敷牢に閉じ込め、反省を迫る。あるいは強制的に隠居させてしまうという、まさに命がけのクーデターです。

藩主の不行跡を見かねた家老などの重臣が主君を座敷牢に押し込める行為は、家臣団の総意というよりも、一門や重臣の合意に基づいていた。重臣たちが執行主体である。藩主の身柄を拘束した後は、座敷牢もしくは囲いが設けられた一室に幽閉し、粘り強く諫言して改心を迫った。ただし、一連の行為は重臣たちの独断ではない。縁戚関係にある大名や旗本も関与し、これを了承していた。幕府がまったく預かり知らぬことでもなかった。

本来なら主君への反逆は死罪に値する重罪ですが、幕府はこれに暗黙の了解を与えていました。なぜなら、表沙汰になってお家を取り潰すよりも、内々に解決してもらった方が、浪人も増えず幕府にとっても都合が良かったからです。お家を守るという大義名分のもとで、家臣たちが殿様を監禁する。そんな信じられないような光景が、当時の日本のあちこちで見られていたというから驚きです。

さらに、領民たちの怒りが爆発してお家が潰れることもありました。本家への見栄のために実際の収穫高の4倍以上もの石高を幕府に申告し、領民に重税を課した沼田藩の真田信利などはその典型です。

1681年春、領民の窮状を見かねた月夜野村の杉木茂左衛門は将軍綱吉への直訴をはかるが、尋常な手段では無理と考え、一計を案じる。信利の悪政を5カ条に連ねた訴状を、寛永寺のトップたる輪王寺宮を介して綱吉のもとに届くよう細工し、見事成功する。これにより、信利の悪政を綱吉つまり幕府は知り、統治の責任を問う運びとなった。

その結果、真田家は改易。直訴した茂左衛門は磔になってしまいましたが、彼の行動がお家を動かし、領民を救った。殿様であっても、領民の声を無視し続ければ、待っているのは「廃業」の二文字だけだったんです。

◉ そして、江戸時代の終わりとともに

数えきれないほどの大名を廃業に追い込んできた徳川将軍家ですが、歴史の皮肉というべきか、幕末には自分たちがその危機に立たされることになります。戊辰戦争で朝敵となった徳川家は、かつて自分たちが諸大名にしてきたように、新政府から領地を没収され、改易の瀬戸際まで追い詰められました。最後は静岡70万石の駿府藩として生き残りましたが、それも長くは続きませんでした。1871年の廃藩置県によって、全国のすべての大名が、ついにその長い歴史に幕を閉じたからです。

この本を読んでいると、大名という存在が、決して雲の上の優雅な人たちではなかったことが分かります。彼らは誰よりも重い責任を背負い、家族や家臣という社員の生活を守るために、必死で生き残る道を探していた経営者だったんです。不条理なルールに振り回され、身内の裏切りに怯え、時には領民に突き上げられる。そんな彼らの苦悩を知ると、歴史がぐっと身近に感じられませんか。安藤さんの『大名廃業』は、単なる過去の記録ではなく、組織の中で生きる人間の本質を突きつけてくる、そんな一冊でした。次に江戸城の石垣を見たときは、きっと、そこにあったはずの数々の「廃業」のドラマを思い出してしまうに違いありません。

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