静子の結婚式当日、英次は。
式場の白い壁が、夕暮れの光を吸い込んで、 まるで巨大な氷の塊のように沈黙していた。
英次は、その前に立っていた。 胸の奥で、何かがゆっくりと軋む。
――行け。 ――祝福しろ。 ――それが“大人”ってやつだろ。
頭ではわかっている。 わかっているのに、足が一歩も前に出ない。
ポケットの中で、指先が震えていた。 ドコモのガラケーの画面には、静子から届いた短いメッセージ。
「来てくれたら嬉しい」
それだけ。 それだけなのに、胸の奥が痛む。
英次は、式場のガラス越しに見える光景をぼんやり眺めた。 白い花。 整えられた椅子。 笑い声。 幸福の準備。
そのすべてが、遠い世界の出来事のようだった。
――俺は、あの中に入っていい人間じゃない。
そう思った瞬間、喉がきゅっと締まった。 得体のしれない塊が喉をふさぐ感覚が起きる。 胸の奥の古い傷が、じわりと熱を帯びる。
「……静子」
名前を呼んだ声は、風に溶けて消えた。
彼女が幸せになることを願っていた。 ずっと、そう思っていたはずなのに。
いざその瞬間が目の前に来ると、 心が追いつかない。
足がすくむ。 前に進めない。 まるで、過去の自分が足首を掴んでいるみたいだ。嗤う声が聞こえる。
今更、解っていたくせに。どうせ、行けやしないよ。あっちは人間の領分だ!虫けらのお前に、入れるような光の輪なんか存在しねえんだよ。下水管に戻れ、外れもの。お前は笑いものだ。笑いものになりに来たんだ…。可哀想な、好きな女を売れっ子のカメラマンに奪われた、アルバイトの身分の、恋も満足に実らない、噂の中心人物として、会場の皆様に、話題を提供してやるか??とんだ笑いもの…とんだ恥さらし…。
自分を痛めつける、その声を振り切ろうとする。その笑い声が胸の裡で残響を轟かせ、反響し続ける。
「行けよ……行けって!あんな声に、支配されてんじゃねえよ…!」
自分に言い聞かせる。 でも、足は地面から動かない。
ーー瞬間接着剤か何かで、貼り付けたかのように。
そのとき、式場の扉が開いた。 白い光が漏れ、誰かの笑い声がこぼれる。
英次は反射的に顔をそむけた。 その光が、あまりにも眩しくて。

祝福の声。そして、ヴェールをかぶって、父親にエスコートされるのは、静子だ。上品で華麗なウエディングドレスを着ている。その長い裾が、しずしずと前に進んでいく…。それは神々しいまでに美しい人生の輝きそのものだった。
人々の上げる歓声。
たかれるフラッシュ。
――ああ、無理だ。
俺はやっぱり、あの光の中には入れない。
そう思った瞬間、心の裂け目が血膿を流し、胸の奥で何かが静かに崩れていった。
英次は、深く息を吸い、 そして、ゆっくりと背を向けた。
「……おめでとう、静子」
その言葉だけを、誰にも聞こえない声で残して。
彼は、夕暮れの街へと歩き出した。 足取りは重く、でも確かに前へ進んでいた。
二人の進むべき道は、この時決定的に、分かれてしまった。
もし、彼女との未来を恐れながらでもいい、震えながらでもいい、全力で選んでいたら、手を伸ばすことが出来ていたら、全てをかなぐり捨ててでも、追いすがることが出来ていたら、あったはずの未来を、英次は手放した。
好きになるという行為そのものが、 自分を飲み込む巨大な穴に見えたから、立ちすくんだ。
好きだと思う気持ちが、 自分の生存を脅かす処刑装置にしか思えなかったから、追えなかった。
好きな相手と未来を描くことが、 地獄の入り口に足を踏み入れるのと同じにしか見えなかったから、望めなかった。
失う痛みに耐えられないと知っていたからこそ、 「好きになってはならない」という内なる声に圧倒され、足が一歩も前に出なかった。
英次は、そうして“人間”を辞めざるを得なかった。
”人間”の学校を退学した英次は、そのまま、
“虫”の人生を学ぶ学校へと入学してしまったのだった。
それからの英次は、 まるで“自分を罰するための行動”を選ぶようになった。
本当に好きなものからは距離を置き、 本当に大切な人からは逃げ、 本当に欲しい未来には背を向けた。
代わりに、 自分を嫌いになるような選択ばかりを拾い集めた。
「どうせ俺なんか」 「俺はこういう生き方しかできない」
そんな言葉を、 心の奥で何度も何度も繰り返しながら。
英次の周囲には、 彼の心の闇を理解しようとする人は誰もいなかった。
理解されないまま、 誤解されるまま、 英次は“自分を壊す方向”へと歩き続けた。

それは、 静子の結婚式で背を向けたあの日から始まった、 長い長い“自己破壊の旅”だった。
第一部 完
🎵 英次が静子に捧げた曲【気付かぬ光】はこちら
静子に捧げるラブソング【気付かぬ光】|関口直子
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