見えなくても、ちゃんと道は続いている ― 白杖が教えてくれたこと
「あ、危ない」
そう思った瞬間、私の踏み出した足の先に、見えていたはずの階段はありませんでした。
足が宙を切り、
身体がふわっと浮く。
次の瞬間には、
私は駅の階段を転げ落ちていました。
本当に、一瞬の出来事でした。
何が起きたのか分からないまま、
気づけば階段の下に座り込んでいて、
心臓だけがバクバクしていました。
もちろん、体も痛かったはずです。
でも、その時の私は、
そんなことを感じる余裕もないくらい、
とてつもない怖さと不安に襲われていました。
怖かった。
ただただ、怖かった。
頭に浮かんだのは、
「誰もいなくてよかった」
という気持ちでした。
もしそこに子どもがいたら。
お年寄りがいたら。
誰かを巻き込んでいたら。
私は、自分の「白杖を持ちたくない」という気持ちを優先したことで、
誰かを傷つけてしまっていたかもしれない。
最悪、誰かの人生を壊してしまっていたかもしれない。
体の痛みよりも、
心の痛みの方が、ずっと大きかったんです。
そして初めて、
このままでは、
私はいつか誰かを殺してしまうかもしれない——
そんな怖さを、
現実として突きつけられたのです。

🌧 白杖を持てなかった頃
その頃の私は、もうかなり視力が落ちていました。
段差と床の境目が分からない。
白い壁と白い床の区別がつかない。
人の顔もぼやけて、表情までは読み取れませんでした。
でも、それでも私は白杖を持っていませんでした。
いや——持てなかった、という方が正しいのかもしれません。
「まだ見えている」
「まだ歩ける」
「まだ普通に生活できる」
そう思いたかったんです。
白杖を持つということは、
周りの人に「私は見えません」と伝えることでした。
そして同時に、
自分自身にも、
「もう見えない自分になった」
と認めることのように感じていました。
それが、どうしても怖かった。
以前の私は、病院で看護師として働いていました。
白衣を着て病棟を走り回って、
患者さんの表情を見て、
小さな変化に気づいて。
「見えること」は、
私にとって空気みたいに当たり前のものでした。
だからこそ、
白杖を持った瞬間、
もう前の自分には戻れなくなる気がしたんです。
街を歩いていても、
「かわいそう」
「大変そう」
そんなふうに見られている気がしてしまう。
それが、本当につらかった。
そしてもう一つ。
「まだ自分で歩きたい」
「まだ頑張れる」
そんな小さなプライドもありました。
見えにくくなっても、できることは自分でやりたい。
今までの自分を、そんな簡単に手放したくなかった。
だから私は、
「まだいける」
「もう少し頑張れる」
そうやって、自分に言い聞かせながら歩いていました。
でも本当は、気づいていたんです。
階段を踏み外したのも、
ぶつかりそうになることが増えたのも、
もう自分の感覚だけでは危ない場面が増えていたことも。
どんなに周りから、
「危ないから白杖を持った方がいい」
と言われても、
どうしても持つことができませんでした。
階段が怖い。
段差が怖い。
人とぶつかる。
もう一人で歩くのは限界なんだって、
本当は自分が一番分かっていたはずなのに。
それでも、
白杖を持つという決断だけは、
どうしてもできなかったんです。
気づいていた。
気づいていたのに、認めたくなかった。
一番苦しかったのは、
白杖を持つことじゃなくて、
“見えなくなった自分を認めること”だったんだと思います。

入院中、仲のいい友人が外へ連れ出してくれたことがありました。
久しぶりの外の空気でした。
私はその頃、まだ白杖を持っていませんでした。
友人の腕につかまりながら歩いていたのですが、
周りから見れば、私は“見えていない人”には見えなかったんだと思います。
だから、人が避けない。
すぐ前を横切る。
急に立ち止まる。
肩がぶつかる。
立ち止まった人に、そのまま突っ込みそうになったこともありました。
そのたびに友人が、
「危ない」
と言いながら、ぐっと私を引き寄せてくれる。
最初は「ごめんね」と軽く返していました。
でも、それが一度や二度では済まなくなってくると、
少しずつ、友人の緊張が伝わってくるようになったんです。
人とぶつかりそうになるたびに、
私の腕をつかむ手に力が入る。
私がふらつくたびに、
隣で息をのむ気配がする。
今思えば、
友人はずっと緊張しながら、
私を守ってくれていたんですよね。
そしてある時、
友人が私の手をぎゅっと握って言いました。
「もう白杖を持ちなさい」
静かな声でした。
でも、その声は今でも忘れられません。
「そうじゃないと、周りの人には分からないよ。
このままだと、私も責任が取れない」
その言葉が胸に刺さりました。
一瞬、反発したくなりました。
まだ持ちたくない。
まだ大丈夫。
そんなふうに言い訳したかった。
でも、できなかった。
友人の声が、本気だったからです。
あぁ、この人は怖かったんだ。
私が転ぶかもしれないことも、
誰かにぶつかるかもしれないことも、
全部、怖かったんだ。
その時初めて、
私は自分一人の問題じゃないことを思い知りました。
見えなくなったのは私だけれど、
周りの人も一緒に緊張していたんだ、と。
そして友人は、最後に静かに言いました。
「白杖を持たないなら、もう一緒には歩けないよ」
その言葉を聞いた時、
私は初めて、
「あぁ、もう持つしかないんだ」
と思いました。
本当は、まだ認めたくなかった。
できることなら、
もう少しだけ、
“見えていた頃の自分”のままでいたかった。
でも、
自分のためではなく、
一緒に歩いてくれる友人のためなら——
そう思った時、
少しだけ、
白杖を持つ理由を自分の中に作ることができたんです。
それは覚悟というより、
どこか“諦め”に近かったのかもしれません。
でも同時に、
「自分のためじゃない」
と思うことで、
私はようやく、
白杖を持つという決断に踏み切ることができたのでした。

でも、そのあと私は困りました。
白杖って、どうやって手に入れるんだろう。
今なら笑い話みたいですが、
その頃の私は、本当に何も知りませんでした。
看護師さんや先生から、
「白杖を持った方がいいですよ」
と言われたことは、一度もありませんでした。
視覚障害者向けのリハビリの話もなければ、
支援制度の説明もない。
どこへ行けばいいのか、
誰に相談すればいいのか、
白杖をどうやって手に入れるのか——
そんなことを教えてくれる人は、
誰もいなかったんです。
私は病院のベッドの上で、
一人でぼんやり考えていました。
そして、ふと思いついたんです。
「Amazonで探してみよう」
検索してみると、
本当に売っていました。
白杖が。
“えっ、Amazonって白杖まで売ってるんだ…”
そんなことに驚きながら、
私はそのまま注文しました。
でも当然、
長さも種類も分からない。
今みたいに、
石づきがどうとか、
身体に合った長さがあるとか、
そんな知識も全然ありませんでした。
届いた白杖は、
今思えば、
まったく私に合っていないものでした。
長さも合っていない。
石づきもない。
グリップもない。
ただの金属の棒みたいな白杖でした。
今だったら、
「なんでこれ買ったんだろう」
って思います。
友人たちからも、
「偽物白杖」
なんて言われていました。
でも、
私にとっては大切な一本でした。
あの白杖は、
“見えない私”として生きていくことを、
初めて自分で選ぼうとした証みたいなものだったんです。
怖くて、
認めたくなくて、
それでも何とか前に進もうとしていた頃の、
私の最初の一本でした。

🌙 「大丈夫です」と強がっていた頃
白杖を持ち始めた頃、私はまだそれを“頼り”とは思えていませんでした。
どちらかというと、“敗北”に近かった。
白杖を持った瞬間、自分が“障害者になった”気がしていました。
街を歩いていても、周りの視線が気になる。
「かわいそう」
「大変そう」
そんなふうに思われている気がして、苦しくなることもありました。
だから最初の頃は、できるだけ白杖を小さく持っていました。
本当は必要なのに、なるべく目立たないように歩いていました。
でも、実際に歩いてみると、少しずつ気づくことがありました。
コツン、と地面を叩く音。
その小さな音が、段差を教えてくれる。
障害物を教えてくれる。
白杖があることで、“分からない”が少しずつ“分かる”に変わっていく感覚がありました。
それまでの私は、“見えない”ということを、
「何も分からないこと」
だと思っていました。
でも違った。
分かる方法が変わっただけだったんです。
白杖を通して、私は少しずつ“見えない世界の歩き方”を覚えていきました。
***
そして、周りの人の反応も変わりました。
人が自然に避けてくれる。
段差を教えてくれる。
見守ってくれる。
その優しさに、私は何度も助けられました。
でも正直に言うと、最初はその優しさを受け止めることができませんでした。
「大丈夫ですか?」
「お手伝いしましょうか?」
そうやって声をかけてもらうことが増えました。
本当にありがたいことです。
今の私は、そう思えます。
でも、白杖を持ち始めたばかりの頃の私は、その優しさをどうしても素直に受け止めることができませんでした。
声をかけられるたびに、胸の奥がザワッとしたんです。
苦しかった。
怖かった。
情けなかった。
その言葉を聞くたびに、
「あなたはもう一人ではできない人なんですね」
と突きつけられているような気持ちになってしまいました。
本当は違う。
そんな意味じゃないって、ちゃんと分かってるんです。
分かっているのに、心が勝手に傷ついてしまう。
だから私は、
「大丈夫です」
と必要以上に強く言ってしまったり、
そっけない態度を取ってしまうことがありました。
今思えば、
せっかく勇気を出して声をかけてくださった方に、本当に申し訳ないことをしたなと思います。
本当は、感謝していないわけじゃないんです。
ただあの頃の私は、
「助けてもらう側の人間になった自分」
を受け入れることがどうしても苦しくて、
そうやって自分を守るしかありませんでした。
だからもし、
街で勇気を出して声をかけた相手に、
冷たい反応をされてしまったことがあったとしても——
その人は、優しさを拒絶しているんじゃなくて、
もしかしたら今、必死に自分自身と戦っている途中なのかもしれません。
もちろん、本当はそんな態度を取らない方がいい。
それは本当にそう思います。
でも、そうしないと立っていられないくらい、苦しい時期の人もいる。
少なくとも、私はそうでした。
だから、もし少しだけでも、
そんな気持ちの人もいるんだなと思ってもらえたら、
うれしいなと思います。

🌈 白杖が教えてくれたこと
そんなふうに、
最初は人の優しさをうまく受け止めることができなかった私ですが、
少しずつ、その気持ちにも変化が生まれていきました。
駅で「階段ありますよ」と声をかけてくれた人。
電車とホームの隙間を教えてくれた人。
スーパーで商品を探してくれた店員さん。
道に迷って困っていた時、
「どちらまで行かれますか?」
と自然に声をかけてくれた人。
私は、そういう何気ない優しさに何度も助けられてきました。
最初は、
その優しさをうまく受け取れずに、
拒んでしまう時期もありました。
声をかけてもらうたびに、
申し訳ない気持ちになったり、
情けなくなったり。
「助けてもらわないと歩けない自分」
を突きつけられているようで、
苦しくなることもありました。
でも、
何度も助けてもらう経験を重ねるうちに、
少しずつ、
その気持ちにも変化が生まれていったんです。
断ってしまった時も、
強がってしまった時も、
その優しさはちゃんと私の心に残っていました。
そして、
「あぁ、頼ってもいいのかもしれない」
と思える瞬間が、
少しずつ増えていきました。
それは、
周りの人の優しさだけじゃありません。
白杖も、
何度も私を助けてくれました。
コツン、と地面を叩く音。
その小さな音が、
段差や障害物を教えてくれる。
危険を知らせてくれる。
最初は“敗北”みたいに感じていた白杖が、
少しずつ、
「私を守ってくれる相棒」
のような存在に変わっていきました。
そして私は、
少しずつ思えるようになったんです。
自分一人では難しいことでも、
誰かに助けてもらいながらできるなら、
それも大事な“できる”なんじゃないかなって。
以前の私は、
「一人で頑張れること」
が強さだと思っていました。
でも今は、
少し違う考え方をしています。
頼ることは、
弱さじゃない。
生きていくために必要な力で、
自分に必要な大事なスキルなんだって、
今は思えるようになりました。
もちろん、
今でも本当は、
誰にも頼らず、
一人で自由に歩けたらいいのにと思う日があります。
白杖も持たず、
ハーネスも持たず、
好きな時に、
好きな場所へ、
何も気にせず歩けたら——
そんなことを考える日は、
今でもあります。
だから、
頼ることへの心の負荷が、
完全になくなったわけではありません。
でも、
「できないから諦める」
より、
「助けてもらいながらでもできる」
方が、
ずっといい。
今の私は、
そう思っています。
***
今の私は、盲導犬と歩いています。
朝、ハーネスの金具がカチンと鳴ると、
お嬢が嬉しそうに玄関へ走ってきます。
その音を聞きながら、
バッグの中に白杖が入っているかを確認する。
それが今では、
私の毎朝の当たり前になりました。
白杖は、
見えなくなって自分の殻に閉じこもっていた私を、
もう一度外の世界へ連れ出してくれました。
怖くて、
苦しくて、
できれば家から出たくなかった私に、
「それでも、少しずつなら歩いていけるよ」
そう教えてくれたのが白杖でした。
小さく閉じてしまっていた私の世界を、
少しずつ広げてくれたんです。
そしてお嬢は、
その白杖が広げてくれた世界を、
もっと自由に、
もっと遠くまで連れて行ってくれる存在になりました。
“怖い場所”だった外の世界を、
もう一度、
「行きたい場所」
に変えてくれたんです。
もちろん今でも、
白杖もハーネスも持たずに、
自由に歩けたらいいのにと思う日があります。
もし願いが叶うなら、
また見えるようになりたい。
その気持ちは、
今でも心のどこかにあります。
たぶん、
完全に受け入れるなんて、
一生できないのかもしれません。
でも、それでも。
今の私は知っています。
白杖を持つことは、
諦めじゃない。
“選ぶ”ということなんだ、と。
安心して外へ出るために。
自分の足で生きていくために。
私は白杖を選びました。
あの日、
どうしても持ちたくなかった一本は、
今では、
私を世界につなぎ止めてくれる大切な相棒になっています。
バッグの中で静かに揺れる白杖。
隣を嬉しそうに歩くお嬢。
私は今日も、
相棒たちと一緒に歩いていきます。
見えなくても、道はちゃんと続いている。
そのことを、
白杖とお嬢は、
今も静かに教えてくれているんです。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
今回の記事は、創作大賞に応募するために書いた作品です。
去年は、noteを始めたばかりで、
「創作大賞って何だろう?」
と思いながら、よく分からないままなんとなく挑戦していました。
でも今年は、
ちゃんと向き合って挑戦してみたいなぁと思って、
何を書こうか、ずっと考えていました。
その中で思ったんです。
せっかく去年1年間をかけて、
『見えなくても私の人生は素晴らしい』
シリーズを書いてきたんだから、
その中でも特に自分の心に残っている出来事を、
創作大賞用に改めて書き直してみようかなって。
今回は、その第一作目でした。
白杖のことは、
これまでも何度か書いてきました。
でも今回改めて書き直してみて、
「あぁ、私は本当に白杖を持つことが怖かったんだな」
って、
自分でも改めて感じました。
見えなくなったことを認めるのが怖かった。
助けてもらう側になることが怖かった。
そして、
“今までの自分じゃなくなってしまう”
ような気がしていたんだと思います。
白杖を持つことも、
助けてもらうことも、
私にとっては簡単なことではありませんでした。
今でも、
本当は誰にも頼らず、
一人で自由に歩けたらいいのにと思う日があります。
もし願いが叶うなら、
また見えるようになりたいとも思っています。
だからきっと、
私は今でも揺れながら生きています。
でも、
そんなふうに弱さや不安を抱えながらでも、
ちゃんと生きていていいんだと、
最近は少しずつ思えるようになりました。
助けてもらいながらでもいい。
立ち止まりながらでもいい。
泣きながらでもいい。
それでも、
また歩こうと思えるなら、
それで十分なんじゃないかなって、
今は思っています。
見えなくなってからの10年間、
苦しいことはたくさんありました。
でも、それだけじゃありませんでした。
支えてくれる人がいて。
声をかけてくれる人がいて。
お嬢がいて。
「今日も楽しかったなぁ」
って思える日も、
ちゃんとありました。
だからもし今、
しんどさの中にいる人がいたら。
不安でいっぱいの人がいたら。
「もう前みたいには生きられない」
って思っている人がいたら。
この文章を通して、
「私だけじゃなかった」
って少しでも思ってもらえたらうれしいです。
そして、
弱さや不安を抱えながらでも、
揺れながらでも、
ありのままの自分で生きていっていいんだって、
そんなふうに感じてもらえるきっかけになれたら、
私はとてもうれしく思います。

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