狂気だけが救いだったのか — 山岸凉子『天人唐草』が40年以上たっても心を抉る理由
「親に認められたい」
この感情は、おそらくほとんどの人が子どもの頃に抱いたことがあるものではないでしょうか。
褒められたい。
期待に応えたい。
失望させたくない。
でも、その願いがいつのまにか
「親の価値観に縛られる檻」になってしまったらどうなるのでしょう。
山岸凉子さんの短編漫画
『天人唐草』(1979年)は、その恐ろしさを容赦なく描いた作品です。
「毒親」という言葉が広まるずっと前に、
この作品は 家族という密室の中で起こる「魂の殺人」 を描き切っていました。
なぜこの漫画は、40年以上経った今でも読者の胸を抉るのでしょうか。
①可憐な花の名前が、すべての始まりだった
物語の象徴的な場面があります。
幼い響子が道端に咲く青い花を見つけ、
その名前を知ります。
その花の名前は「イヌフグリ」
彼女は夕食の席で、無邪気にその名前を口にします。
すると父親が激怒します。
「女の子がそんな言葉を口にするもんじゃない!」
理由は説明されません。母親はただこう言います。
「天人唐草と言いなさい」
ここで起きているのは、単なる叱責ではありません。
心理学的に見ると「言語による抑圧」です。
イヌフグリという名前は、語源的には
「犬の睾丸」から来ています。
もちろん幼い響子はそんな意味を知りません。
それでも父親は「女の子は言ってはいけない」と命じます。
つまり彼女はここで、「知的好奇心・言葉・自然な感覚」、これらを 「不潔なもの」として否定された のです。
この瞬間から、響子の中には
「失敗してはいけない」
という強烈な恐怖が植え付けられていきます。
②父の価値観は、彼女の「生存戦略」だった
響子にとって父の教えは
単なる道徳ではありませんでした。
それは父に認められるための生存戦略だったのです。
つつしみ深く、清らかに、美しく、
父の理想通りの女性になること。
それが彼女の人生でした。
ところが父が死んだあと、
恐ろしい事実が明らかになります。
父には
10年以上の愛人がいたのです。
しかも、その女性は
「派手な化粧、タバコ、自由な振る舞い」
つまり
父が娘に禁じていたすべてを体現する女性でした。
ここで響子の世界は完全に崩壊します。
彼女は人生のすべてを「父の価値観」に捧げてきたのです。
ところがその父自身は
自分のルールを守っていなかった。
心理学者アリス・ミラーは
これを「魂の殺人」と呼びました(※1)。
親が「あなたのため」と言いながら
子どもを自分の価値観の道具として
支配すること。
響子はまさにその犠牲者でした。
③羽田空港の怪鳥 — 狂気という自由
物語のラストは有名です。
響子は「金髪のウィッグ・フリルの白いドレス」という姿で羽田空港に現れます。
冒頭に出てきた女性は響子の変わり果てた姿でした。
そして奇声を上げながら歩き続けます。
まるで怪鳥のように。
このシーンは、一見すると
完全な破滅です。
しかし別の見方もできます。
それは狂気による解放です。
彼女の姿には象徴が詰まっています。
金髪
父が絶対に許さなかった「逸脱」
白いドレス
彼女なりの「結婚達成」
空港
実家からの出発
つまり彼女は
狂気という檻の中で、初めて自由になった
とも読めるのです。
④このラストには実在モデルがいた
実はこのラストシーン。山岸凉子さんが
羽田空港で実際に見た女性
がモデルになっています(※2)。
しかしもっと衝撃的なのは作者の言葉です。
その女性を見たとき、山岸さんは
「将来の自分かもしれない」と思ったそうです。
山岸さん自身も厳格な家庭環境で育ちました。
来客にお茶を出すだけでも
「失敗したらどうしよう」
と手が震えるほどだったと言います。
つまり『天人唐草』は
単なるフィクションではありません。
作者自身の恐怖から生まれた作品でもあるのです。
⑤山岸凉子作品に共通する「迷い子」
作家の中島らもは山岸作品の主人公たちを
「迷い子」と表現しました(※3)。
人生の途中で
立ち尽くしてしまった人間たち。山岸凉子作品には、そうした人物が多く登場します。
例えば
『鬼子母神』
母の期待に縛られる息子『狐女』
近親相姦という凄惨な出自『ハーピー』
学歴社会に押し潰される心理
どの作品にも共通するのは
「家族」という最も近い関係が人間を壊す
というテーマです。
そして山岸作品は、
安易な救いを与えません。
だからこそ現実の重さを突きつけてくるのです。
おわりに— 私たちの中にもある「天人唐草」
『天人唐草』は1979年の作品です。
しかしそのテーマは
決して過去のものではありません。
親の期待
世間の目
「こうあるべき」という価値観
私たちは多かれ少なかれ
そうしたものに縛られて生きています。
そして時にその価値観は突然裏切る。
あなたを縛っている「天人唐草」は何でしょうか。
そしてそれは
本当にあなたの価値観でしょうか。
この漫画が今も読み継がれる理由は
そこにあるのだと思います。
参考・参照リンク
※1
アリス・ミラー『魂の殺人』
※2
山岸凉子インタビュー
※3
中島らも『山岸凉子論』
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