匿名都市の縁に立つ異物としてのミニマルハウス──Andrew Weatherall『Hypercity』
Andrew Weatherall『Hypercity』は、ドイツの実験的ダンス・ミュージックの震源地であったForce Inc.傘下のサブレーベル、Force Tracksが2000年にリリースしたミックスCDである。このレーベルは、テクノでもハウスでもない──もしくはその両方を同時に脱構築しようとする──ミニマルハウスの美学を最も早期に体系的に提示した存在であり、『Hypercity』はその美学の可聴化、あるいは定着の試みとして企画された。そこにAndrew WeatherallというUKクラブカルチャーの最重要人物のひとりが起用された事実は、当時としても予想外だった。
レーベル発のミックスCDという体裁ではあるが、内容はあくまでAndrew Weatherall流のテクノ/ハウスへのアプローチが存分に楽しめるものであり、単なるキュレーションでは終わらない。Weatherallは、90年代を通じてUK独自の雑食的なアンダーグラウンドを牽引してきたDJであり、ダブ、ロック、EBM、初期レイヴを横断するような編集的感性で知られていた。彼のDJプレイは常に「ジャンルではなく空気」を編集するものであり、どこか英米的な語法に拠っていた。しかしこの『Hypercity』では、それらをいったん保留し、Force Tracksが構築していたドイツ流の脱情動的な構造性と審美的反復という言語に、自身の技術を翻訳することを試みている。
このCDが異質なのは、彼が自らの文法を押し通すのではなく、あくまでドイツ側の美学に自らを“アサイン”している点にある。Force Tracksが積み上げてきた微細なミニマリズム、薄く伸ばされたファンクネス、わずかな変化に耳を寄せる身体性──そうした設計思想を崩すことなく、しかし完璧な「実演」として体現している。Weatherallのような人物がこのスタイルに“順応”しているという事実こそが、このミックスの最も強いメッセージとなっている。
Force Inc.の思想的遺伝子を受け継ぐForce Tracksは、より洗練された都会的プロトコルを備えたミニマリズムへと移行していたが、その音響的志向はしばしば「無人化」「冷却」「非人称化」といった言葉で語られる。だが『Hypercity』は、その匿名性の都市モデルのなかで、なおもWeatherallの選曲の熱量や操作のクセがにじみ出てしまう──その“にじみ”こそがこの作品の美質でもある。つまりこれは、「Andrew Weatherallがミニマルハウスに従属した」のではなく、「Force Tracksの文脈がAndrew Weatherallというフィルターを通して再文脈化された」事例でもある。
Hypercityとは、誰の都市でもなく、どの国でもない反復の集合体である。そこにUKという全く異なるリズムの土地からWeatherallが入り込み、破綻させることなく、しかし均質性のなかにわずかなねじれと肉感を残す──それがこのCDの意義であり、2000年という越境可能性の残された最後の地点で成立した、一種の歴史的交差点でもある。
このミックスにおけるWeatherallの選曲は、いわゆるヒット曲やアイコニックなトラックを回避し、Force Tracksのカタログに内包される機能的かつ匿名的な素材を中心に構成されている。前半は極めて静的で、音の密度も抑制されているが、これは序盤における“導入”というより、「無内容な快楽」の延長をあえて提示する戦略に近い。開始数トラックは、パーカッションもベースも輪郭が曖昧で、構造的推進力よりも空間の“広さ”を聴かせる。この空間性こそがForce Tracksの音響的通貨であり、Weatherallはその価値観を正確に読み取り、自らのミックス手法に落とし込んでいる。
音量変化やエフェクト操作を通じたダイナミクスの導入は極めて慎重で、クロスフェードにおける遷移の滑らかさが特に目立つ。ドロップやブレイクの代わりに、音の“前景”がいつの間にか入れ替わっている。こうした手法は、単なるDJのスキルではなく、ミニマルハウスというジャンルにおける時間操作の倫理に対する理解を要するものであり、Weatherallが単に選曲家ではなく、空間設計者として振る舞っていることを証明している。
この作品がリリースされた2000年という年は、電子音楽における「グローバル・プロトコルの均質化」が加速しはじめた時期でもある。ミニマルテクノ/マイクロハウスは、ベルリンを中心にサブカルチャーとして育まれてきたが、この頃には世界標準の一形態としての洗練を手にし始めていた。そこにWeatherallという、UKのローカルかつ雑食的な文脈に深く根差したDJが介入したことは、このミックスを単なるシリーズの一作以上のものにしている。
『Hypercity』は決して話題作ではなく、リリース当時から現在に至るまで過小評価されてきた部類に属する。だが、それはWeatherallがこの作品を“匿名的に”残すことを選んだからだとも考えられる。名を削ぎ、語りを閉じ、ただ流れる構造としての音──その冷たさと静けさの中に、確かにWeatherallという人物の輪郭が残されている。彼のディスコグラフィの中でも特異なこの一作は、Force Tracksの歴史においてもまた、外部からの観測点として際立っており、その意味でこのミックスは、「都市の記録」ではなく、「都市に挿入された異物の軌跡」として、20年以上を経た今なお語る価値がある。
このミックスの背後には、当時Force Tracks周辺で進行していたディープハウス/ガラージ再文脈化の運動が見え隠れしている。中でもLuomoことVladislav Delayの試みは象徴的で、彼は『Vocalcity』(2000年)において、Larry HeardやMood II Swingらが築いたUSディープハウスの音響的親密性──空間性、繰り返しの優雅さ、ヴォーカルの残響──を、極端なまでに引き延ばし、再構築し、まるでデータ構造のような形に変換して提示していた。これは単なる引用ではなく、ガラージをミニマルの形式性に“アップデート”する試みであり、感情や肉体性といった要素が“抽象化された快楽”として置き換えられるプロセスだった。
『Hypercity』はLuomoの楽曲をミックスの終盤に収録しており、その選曲は象徴的である。ただし、ミックス全体に漂うミクロな装飾、距離感を持ったヴォーカル断片、ベースの柔らかな重心移動といった特徴は、Luomoの楽曲そのものから直接もたらされており、“参照”というよりも“収録の結果として現れている”と捉えるべきだろう。言い換えれば、Weatherallはここで、UKのダブ~EBM文法を保留しつつ、Luomoが切り拓いた“脱アメリカ的ガラージ”の形式美に自らを同期させているのである。
この同期は、決して迎合ではない。むしろWeatherallは、かつて自身が属していたJuniour Boy's Ownで展開されていたUSガラージハウス影響下のソウルフルな感情主導のハウス文脈から距離を置き、より形式と構造を重視するヨーロッパ的アプローチを選び取った。この選択が、彼の中での“ガラージの死と再誕”を意味していたのだとすれば、『Hypercity』はその儀式的ドキュメントであり、Luomoらによって再編された未来志向のディープネスに対する、ひとつの応答だったとも言える。
『Hypercity』が特異なのは、その表層がテクノ的でありながら、実際の機能性は明確にハウス的であるという点にある。リズムの鳴り、構造の反復、音響の密度──それらは確かに一聴すれば硬質で、どこか無機質なテクノ的印象を与える。だが、Weatherallが行っている構成の技術は、明らかにハウスの身体性を理解し、それをクラブの物理的空間の中でどう生かすかを前提としたものである。
曲間の移行におけるグルーヴの持続、低域のキープの仕方、パーカッションの役割の配分──こうした細部は、いずれもフロアでの運動の連続性を重視するハウスDJの技術に近い。つまり、このミックスはテクノの質感を纏いながら、ハウスの文法で設計されているのであり、それゆえに「硬くも温かい」「冷たくも躍動する」という逆説的な身体感覚を生み出している。
これは、Weatherallが本来的にロックやダブのような“揺らぎ”のある音楽から出発しており、常に音の「外れ」をどう扱うかに意識的だったことと無関係ではない。Force Tracksのサウンドが持つ明瞭なプロトコル──構造、均質性、匿名性──を、彼はそのまま受け入れるのではなく、あくまで「どうすれば身体がこの構造にノれるか」という問いを通して翻訳し直している。
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