休むこと自体が、体には負荷として残っていたケース

よくある選択として、
これ以上続けると消耗すると感じ、
作業や予定を止める。
動きを減らし、
静かな時間を確保し、
「今は休む」と決める。

判断としては、
負荷を下げるための行為だった。
無理をしないため、
守るための選択であり、
体をいたわる方向に
進んでいるつもりだった。

しかし、
休みに入ったあとも、
体の感覚は
軽くならなかった。
緊張が強まるわけではないが、
どこか
重さや詰まりが残る。
休んでいるはずなのに、
負荷が消えた感じが
出てこなかった。

このとき体で起きていたのは、
休み方が間違っていた、
という現象ではなかった。
休むという行為そのものが、
体の中では
負荷として
処理されていた。

それまでの流れでは、
休む判断は
余裕がある状態で
選ばれていなかった。
限界や違和感を
感じたあとに
ようやく下される。
その文脈が、
体に残っていた。

そのため、
「休む」という行為は、
安心に向かう操作ではなく、
異常への対応として
認識されていた。
体は、
休みに入ったことで
緩むのではなく、
状況を警戒したまま
留まっていた。

結果として、
行動量は減っているのに、
内側の負担感は
解除されない。
使っていないが、
軽くもならない。
休みが
回復ではなく、
処理待ちの状態として
残っていた。

このケースでは、
休むことが
体にとって
負荷を下げる工程に
なっていなかった。
休むこと自体が
体には負荷として残っていたのは、
その行為が
安心ではなく、
異常対応として
組み込まれていた、
というケースだった。

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