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小説『埋葬』

 彼は日記帳を開く。文字というものを知ってから、毎日欠かさず綴ってきた。心持ち俯き、長く、老人班が目立つ骨ばった指で、こめかみを押さえる。彼、ライが思い出すものはいつもひとつだけだった。薄手のシャツに薄手のスカートを纏った16歳の少女、エリ。彼女だけ。今日もエリとのことを老人施設の中で思い浮かべる。


「ブルーが死んだんだ」
 ライはある日、この一言でエリを驚かせた。
「ブルーが? 本当に?」
 エリは、言葉にするのももどかしいようで、今すぐそっちに行っていい? と訊いた。ライは頷いた。言葉の通り、隣に住むエリはすぐにベランダの柵を越えて挨拶もせずライの部屋の窓を開け、部屋に入った。
「どうして?」
「高齢だった」
「ブルーは今どこにいるの?」
「まだ家にいる」
「会わせて」
「おいで」
 ブルーは、ライが飼っていたセキセイインコ。
 鮮やかで印象的な青い羽を持っていた。それだけの理由でブルーと名づけたが、とても可愛がっていた。人懐こくてエリもブルーを愛でていた。動かないブルーを見てエリは眉間に皺を寄せる。小さな手のひらにその亡骸を乗せ、口づけた。
「手厚く葬ってあげましょう。ブルーはたくさんの幸せをくれたもの」
「そうだね」
 エリのその言葉に少し大げさだな、と思いながら、本音ではエリの言葉に安堵した。ライ自身、ブルーの死をひとりで受け止めるのは辛かったのだ。待ってて、と言うとエリは素早く立ち上がり、ベランダから一端、自分の部屋に戻った。

 ライは落ち着かず、煙草を吸いながら待った。ほんの僅かな時間でエリが戻ってきた。エリは小箱を手にしていた。ちょうどブルーの体が納まる大きさで、柔かい青色をしていた。ライも見たことがある有名な宝石店の箱だ。
「いいの? そんなにきれいなのに」
「きれいだからよ。ブルーによく似合うでしょ? それからこれも」
 そう言って、エリの部屋に飾ってあったという数本の切り花を胸元から出した。むりやり服の中に挟んできたのか、首の下の皮膚が赤くなっていた。エリは、鋏を貸して、とライに言いつけた。
 
 鋏を受け取ると、最初にその鋏で花の茎を切り、花の首を集めた。それから青い箱の蓋を取り、花を敷き詰め、ブルーを丁寧に花の上に乗せた。細かな花はブルーの体の周りを飾った。とても美しく、しかし、皮肉なことに美し過ぎて、ブルーがこの世にいないことをライはまだ現実として捉えられなかった。
「どこかにブルーを埋めに行きたいんだ。できれば、エリも来て欲しい」
「もちろん」
「どこがいいだろう」
 ふたりは、様々な場所の案を出し、最終的にエリが言う場所に決めた。エリいわく、そこは森の中の霊園の側にある空き地で、静寂に溢れており、霊的な印象で穏やかな場所だと言う。明朝、ライが運転する車でエリと家を出発する、と予定を立てた。

 当日、ライは暖かい革のブルゾンを着て、ファスナーを首まで上げていた。エリもいつものように薄手のシャツと絹のような青いスカートだったがさすがに上着を羽織っていた。いくら花の咲く季節とは言え、朝は冷える。埋葬のための道具は布地のバッグに詰めてバックシートに置き、ブルーを入れた箱はエリの膝の上に乗せ、車を出発させた。

 2時間ほど走った頃、エリが教えてくれた空き地に着いた。風は強かったが快晴で、遮るもののない景色をよく見渡せた。ライは適当な場所に車を停めてエリと一緒に車を降りた。エリは箱を胸に抱いたままずんずんと突き進んで行き、ライはエリの後ろを歩く。
「どの辺りに埋めようか」
 ライがエリの背後から尋ねる。
「そうね、まず柔かい土を探しましょう。それから、昼になったら今日のように陽が当たるような、そんな場所を」
 ふたりが走ってきた道の途中、その道路を少し逸れたところにちょうど良い場所を見つけた。

 エリは動きやすいようにブルゾンを脱ぎ、車の中に置いた。布地のバッグから小さなガーデニング用のスコップを2本取り出し、1本をライに手渡した。ライと共にその辺りの土を触る。陽のあたる土は柔らかく温かだった。掘っている途中、思いがけず木の根が張った部分もあったが、何とかブルーを入れた箱が納まるほどまでには掘れた。
 エリはそっと箱を取り出す。そして、ふたりが掘った穴の底に優しく乗せて目を閉じ、祈りを捧げた。ふたりで土を被せた瞬間、可愛らしかったブルーの姿が蘇り、ライはやっと現実なのだ、と受け止め、嗚咽した。エリはそんなライを柔らかく抱擁した。

 儀式は終わった。後は帰るだけだ。
 しかし、ふたりは動こうとしない。まだ陽が高く、ふたりの薄い色の瞳を照らしていた。エリは草むらの上を何の目的もなく歩き出し、ライは何となく不安で後をついていった。ふと、エリが見えなくなった。エリ? どこ? ここよ。エリの声はライの足元からすぐに聞こえた。彼女は草の中に横たわっていた。
「ゆっくりしましょう。ブルーがくれた時間よ」
その言葉にライは微笑んだ。
「君の言葉は詩的だな」
「してき?」
「ポエムのように美しいって意味さ」
「ああ、そういうこと。でも何の意味もないわ。わたしはただ感情を表しているだけ」
「だから凄いんじゃないか。そんな言葉、言おうとしたって思いつかない人間はたくさんいるんだから」
「例えば、凄いことだとしてどんないいことがあるの?」
 突発的に返され、ライは少し戸惑う。
「それは……」
 エリが目でライの言葉の先を促す。
「僕のように言葉を書く人間には、心底羨ましく思える」
「何か書いているの?」
 エリになら解ってもらえるような気がして、ライは頷く。
「文字というものが書けるようになってから、ずっと日記を書き続けているんだ」
「ずっと?    毎日?」
「そう、毎日」
「ライの方が凄いわ。わたしなんて日記はいつも三日坊主よ」
 ライは笑った。
「だけど、日常生活の中にいつも事件なんて起こるものじゃないし、時折、想像の物語を書くこともあるよ」
「面白いわ。後から読み返したらどこからどこまでが想像か判らなくなりそうじゃない。素敵」
 エリは腹ばいになって、ライの話を楽しそうに聞いてくれる。しかしライが言う想像の物語にはエリへの不謹慎な妄想も混ざっている。詳しく聞かれたら困ってしまうので饒舌には語らなかった。
「今日は、ブルーのことを書く?」
「うん。せつないけどね」

 ふと見ると、エリはブルゾンを脱いだままでいたのに気づいた。
「エリ、寒くないの? いつも薄着だよね」
「平気。締め付けるものはなるべくない方がいいの」
「それならいいけど」
 沈黙がふたりの間に流れた。エリの言うことはよく理解できるのだが、透けそうなシャツに裏地も付いていないような、布を巻いただけに見える薄いスカートなのだ。
「何かおかしい? わたしの格好」
 エリは上体を起こして言う。
「いや、好きな格好なら構わないんだけど、いつも薄着だからさ」
「理由があるのよ。何だかここでなら話せそうな気がする」
「話して欲しいな」
「笑わないでね」
「もちろん」
 ライも体を起こして、エリの目を見た。

「わたし、母の着せ替え人形だったの」
 そう言ってエリは自分の生い立ちを話し始める。
「わたしが幼い頃、母は父親と離婚したんだけど、それ以来、わたしが大人の女に成長することを許さなかった。いつまでも少女のままでいさせようとしていた。今考えると酷い抑圧ね。そのせいでわたしの普段の服装は、首の上まで隠れたひらひらとしたフリルがついたブラウスで、一番上のボタンすら外すのを許されなかった。頭には大きなリボンがついたビロードのカチューシャ。おかしな膝丈の歩きにくい硬い生地のスカート。その下には赤ん坊が身につけるような、分厚いだぶだぶの白いタイツ。靴はヒールなんて全くついていないストラップのついたゴム製だった。そんな格好ばかりさせられていた。もう16歳で体型だって変化を起こしているって言うのに。

 半袖もなかなか許してもらえなかった。夏の暑さが酷かったから何とか勘弁してもらったけど。でも、それが表向きのわたしの姿。だから夜になり、母が眠ると、すぐにその服を剥ぎ取るように脱いで、洗濯籠に投げつけて湯船に浸かった。すべてを消し去るように。そして湯を出たらリネンや自然な素材の、だぼっとした柔らかい服を好んだ。色も、灰色、黒、ベージュ、今日のような暗めの青、地味過ぎるほどシンプルなのが好き。さっきも言ったけど、わたしにとってスカートは締めつける物がない、というだけ。ほぼスカートとしての役割を果たしていないけど、あくまでも裸でいたら世間的にまずい、というだけの理由よ。ズボンは面倒。それだけ」

 ライは何も言わず、エリの顔を見つめた。
「一気に喋っちゃった。つまんない話でごめんね」
「そんなことない」
「日記に書ける内容?」
「書いていいの?」
「もちろん」

 ライは思う。エリは妙に大人びていて、同年代の少女たちが近寄りがたい雰囲気を纏っている。なのに、強い風が吹き付けても抵抗せず受け止めているかのような凛とした美を思う。エリが今のような格好になって外を歩くと、みんなが振り返り、見惚れるだろう。そのくらいしなやかで目立った。
 この世にルールがあるとすれば、それが小さなものに見えてしまうほどエリの存在感は男女問わず、あこがれを抱かせる。
 ライはまだエリと話をしたこともない頃、エリが古い人形のような格好をしていた姿を窓から見たことがあった。エリがもしも無邪気に笑う子供であれば可愛らしかっただろう。しかしエリは無表情を貫き、何よりもその表情で服がはちきれてしまうのでは、と思うほど、エリの存在には力があった。あり過ぎた。要するに、似合わなかった。もしも、ほんの少しでもエリ自身が納得しているのであれば、どれほど人形が着るようなドレスであってもエリは美しく着こなすだろう。そう思わせるには十分なほどの魅力をエリは持っていた。エリは孤島に咲く花のようだった。

「今、お母さんは許してくれてるの? エリの服装を」
「まさか。知らないと思う。服に関してだけ、何かに取り憑かれたようになるの。特別に教育熱心という訳ではないのよ。ただ、肌を出すってことだけを極端に忌み嫌ってる。幸い、母は眠る時間が早いの。昔の人間なのよ。面倒だから言うことを聞いた振りをしてやり過ごしてる。だからわたし、未だに昼間は今言ったお人形さんの格好をしてるのよ。信じられないでしょう? ライとは夜しか会わないから。でもわたし、判ってる。母はわたしに嫉妬しているんだと思う。いつもパジャマを脱いでフリルだらけの服に着替える一瞬、嫌でも肌が見えるとき、母の執拗な、舐めるような悪意に満ちた視線を感じるの。へんてこな服に着替え終わったら、母親の顔に戻るわ」

 ライは言葉を探す。エリは自分の魅力を判っている。そしてライも思う。あんな堅苦しい服なんかより、もちろん今のエリの方がいい。そんなライの何か言いたげな表情に勘付いたのか、エリは言う。
「ライだって似合わないって思っているでしょう?」
 ライはまごついてしまう。
「正直ね」
 エリは微笑む。ライは降参したように両手を挙げてみせる。
「わたしばっかりこんなに話すのもなんだわ。ライはわたしとそれほど年は変わらないわよね。それなのにどうして煙草を吸ってお酒も飲めるの? 今更だけど、こうして車も持ってるし」
 ライもゆっくり自分の生い立ちを語り始めた。

「……僕の家は両親共揃っているよ。日常生活に支障がない暮らしで、正直、そこそこ裕福だと思う。エリの言うとおり未成年だけど煙草を吸ったり、酒も飲む。ただ、不満だ。父親は出張で家を空けることが多いくせに、やたらと僕に対して厳格なんだ。少しでも家にいると監視をしてきて鬱陶しい。文句を言うと怒鳴る。そんな父親に反抗心を起こしている。母は、父親を怒らせてはだめ、としか言わない。幼い頃は我慢をした。我慢をすれば褒められた。だけど我慢以外、褒められた記憶はない。
   母は言うんだ。お父さんのおかげで私たちは生活ができているのだからって。でも僕は気づいてる。父は浮気をしているんだ。相手の女もわざとだと思うけど、今どき、父のシャツに口紅の跡をつけたり、香水の匂いを父に移したり、母の物ではないヘアピンをポケットに潜ませたりする。母だってもちろん気づいてる。父自身さえ、そんな母を判っていて隠す気もないまま婚姻関係を続けてる。おとなしい母が便利だからだと思う。そして、母も金づるである父に頼っていたいんだ。

   僕自身は、自分が父親に反撥することや、母親に苛立つこと、それは正直言って面倒な感情だ。だから、反抗期、というこの時期に起こる事象だって理由にして、そのまま甘受させてもらってる。父は月に一週間も家にいればいい方だ。そうして家にいない間、母は僕がこうして車に乗るのを許すんだ。煙草を吸ったり酒を飲むのも。多分、嘘の生活に対する負い目を感じているんだろう」

 エリもまたライを見つめる。ライはじっと聴いてくれたくれたエリに感謝しつつ、少し恥ずかしくなった。
「エリには僕がどんなに自由に見えても、車は父親の物だし、あるのは免許だけだ。僕の年齢はエリより少し上だな。18歳だよ。後2年もすれば家を出られる。だけど、今話していてものすごく後悔したのは、こうして君を連れて来てしまったことだよ。もしも職務質問なんてされたら君を巻き込んでしまう」
 エリは笑い飛ばした。
「そんなのどうだっていいわ。気にしないで。わたしは、夜中なのにいつもわたしを部屋に迎え入れてくれたライに感謝の気持ちでいっぱい。毎日、叫びそうで心が割れるんじゃないかって思っていた。でも行く場所なんてどこにもなかった。ライはわたしを救ってくれたのよ。だからとても嬉しかった。それから、感謝はブルーにもね」
「エリが僕の部屋に来るようになったのはブルーがきっかけだったんだよな」
「そうよ……、ブルーったら、歌うんだもの!」
 エリは思い出したのか、急に大きな声で笑い出した。ライもあの時のことを思い出す。

 多分、エリが窮屈な服を脱いで薄いローブを纏い、心底リラックスしていた時だったのだろう。暑い日だった。ベランダに出ていたエリには、ライが流していたレコードの音が聞こえていた。泣けそうなバラードだったのに、なぜかブルーは突然、ヴォーカルに声を合わせて歌真似を始めたのだ。しかも素っ頓狂な音程で。
 エリは驚いて、隣のベランダ、つまり声の元であるライの部屋を覗いた。ライもまた、ローブ姿の若い隣人に気づいて驚いた。しかし、ふたりが何かを話すよりも先に、またブルーはその歌を音程が激しく狂ったままリピートした。エリは吹き出し、ライもつられて笑ってしまう。ライは笑いを堪えてベランダに行き、エリに挨拶をして、招き入れた。

「ようこそ。特別なライブに」

 エリは微笑んで差し出してくれたライの手を取り、部屋に入った。その間もブルーは時折鳥らしい声も挟みながら、それでも笑わせるに十分な歌声を披露し、ライとエリにとって、ふたりが隣人以外の一体何者なのか、そんなちっぽけな説明の機会を失わせた。

 そうやって、時折エリは夜になるとライの部屋に来るようになった。最初にローブ姿を見せていたせいか、気も遣わずに済んだ。ライの部屋に来る時は今のように体の線がよく見えず、けれどシャツの下には何も身に着けていない、そんな格好でライも馴染んでいた。どれほどいけない想像をエリに抱いていても、容易に手を出そうとは思わなかった。壊したくなかったのだ。この不思議な関係を。

 ふたりは、エリが用意していたバゲットのサンドウィッチと飲み物で昼食にした。サンドウィッチの中身は、香ばしいベーコンや、チキン、エビのタルタルなどをたっぷり野菜にくるんだ物やクリームたっぷりのフルーツサンドなどもあり、空腹だったふたりはサンドウィッチにかぶりついた。水筒には熱いコーヒーが入っていた。
「いつ用意したの?」
 ライが聞く。
「今朝、コンビニエンスストアで調達したの。味は間違いないわよ。作ったのはわたしじゃないから。わたしはコーヒーを入れただけ」
 エリは、エビのタルタルソースにかぶりつき、口の端にソースをつけながら言って笑った。

 そんな穏やかな時間は、あっという間に過ぎた。辺りは陽が暮れかけている。

「家で気づいているかな。わたしたちがいないって」
「僕たちが一緒にいるとは思ってないだろうね。接点が見つからないと思う。僕は誰にも何も言ってこなかった」
「わたしも。平気?」
「平気だよ。車なんて今までも散々借りてたし」
「ねえ、ライ」
「ん?」
「このまま何もなかったように帰るの?」

 このまま帰ったら、エリはまた着せ替え人形になり、もしかしたら監視がきつくなり、家から出ることすら禁じられるかも知れない。ライの家では母から父親に連絡が行き、帰宅と同時に殴られるかも知れない。

   互いに縛られるものが今までより多くなるだろう。それを考えると、どっと疲れた。投げやりになってしまいそうだった。ふたりを取り持つブルーはもういない。
「ライ、車貸して」
「えっ、どこに行くの?」
「どこにも。運転できないもの。ただ運転席に座ってみたいの」
「なんだ、いいよ。何なら運転してもいいよ」
「無免許の初心者よ」
「構わないさ」

 ふたりは車に戻った。
 助手席にしか座ったことがない、というエリはバランスが取れずに乗り方がおかしくなり、ほとんど倒れこむような形でシートに乗り込んだ。助手席に座るライが笑ったのでエリはその頭を小突いた。
「見える景色が助手席とは全然違うのね。不思議だわ」
 ライはエリの方を見た。陶器のような美しい横顔。思わずライはエリが慣れない手つきで握るハンドルの片方の手を取る。エリがライを見る。ライはシートに頭をつけ、目を閉じた。

「……ライ、あなたきれいね」
「ええっ?」
 突然のエリの言葉にライは頭を起こした。
「目を閉じた時の睫毛の長さったら。きっとわたしより長いわ。羨ましい」
「何言ってるんだよ。睫毛の長さなんて、全然得にならないよ」
 ふたりは軽く笑った。エリはライの頬に触れる。
「ほら、こんなところにまで睫毛の影が落ちてる」
 ライはもう一度目を閉じて、撫でるような優しいエリの指のなすがままになる。エリの指がふと止まった時、ライは体を起こし、ゆっくりとエリに口づけた。
 どんな格好をしていようとどんなにライより睫毛が短かろうと、この上なくエリは美しく、ライにとってエリは、エリでなくては、と思う。それはエリも同じで、ライがきれいでなかろうと、父親の車を勝手に使っていようと、少し甘い部分があろうと、ライそのものとは関係がないと思う。ふたりはふたり。ただ、いてくれて嬉しい。それだけ。顔を寄せると、舌が互いを欲していた。互いを撫で、舐めて、咀嚼し、飲み込んでしまいたかった。このまま時が止まればいい。

 すると、
    車は緩やかに動き出す。
 しばらくして、ライの耳に、遠くからブルーの歌声が聞こえた気がした。

 ライは、気がついて周りを見渡す。
 真夜中だろうか。辺りは暗闇で、霧のような煙が上がっていた。煙は車から出ていて、ふたりは車外に放り出されていた。ライとエリが乗っていた車はどこかにぶつかったのか、車体がひっくり返っている。

 何が起こったのか判らない。煙で見えない中、瞬時にエリを探すべく腕を伸ばし、辺りを彷徨わせた。すぐにエリの腕に触れた。ライは安堵してそのままエリの体を引き寄せようとしたが、触れたのは腕ではなく彼女の足だった。その時、ライの足にも何かが触れた。エリの髪の感触。エリもまた、ライの足に触れてきた。彼らは頭と足が逆方向になってその場に倒れこんでいた。ライに触れていたエリの指が僅かに動いた。ライは剥き出しになったエリの足を抱きしめた。体温を感じた。
「ライ、大丈夫?」
 不意に、エリの声がライの頭上から降ってくる。
「体中が痛い。エリは大丈夫かい……?」
「どこも痛くないわ」
「良かった……」
 ライの言葉に、エリが微笑んだような気がした。

 ライは体を強く打ち、起き上がれなかったがエリはライの手をすり抜けた。更に毅然と立ち上がった。裸足だった。ブルーの歌声のような音が鳴っている。エリはふらふらとそちらに向かう。ライは横たわったままエリから目が離せず、遠くへ行くな、と言いたかった。しかし声が出ない。体中が痛くて動けない。僅かに土が付着したエリの足をただ見つめるだけだった。もう一度、役に立たない声帯で、行くな、と言った。声は出なかったがエリは一瞬だけライを振り返った。柔かい表情で微笑みを向け、そのまま、その場に崩れ落ちた。

 それから数日が過ぎた。
 街では、車が暴走し、若者ふたりが怪我を負ったと話題になっていた。
それほど大きな街じゃない。すぐに噂は広まった。乗っていた若い男の子は軽症だそうよ、でも、一緒にいた若い女の子は。そんなふうに。

 病院で目が醒めたライは、全身打撲の状態ではあったが軽かった。
 何故かエリのことは教えてもらえなかった。ライは口惜しくて、痛む体で暴れた。涙と汗と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになっていた。ライは執拗に医師に食い下がり、一言だけエリについて聞くことができた。外傷はなかったけれど頭を打っていた。仕方なかったんだ、と医師はそれだけをライに告げた。

 エリを破滅に向かわせたものの発端、それはブルーが死んだ、とライが告げた時だった。ブルーを葬ってあげましょう、と言ったエリの言葉が大げさに聞こえたあの時、既にエリはすべてを決めていたのだろう。運転席に乗りたがったのも偶然ではなかったはずだ。エリは最初からこうなることを望んでいた。ライがどれほどエリを欲しているかも見抜いていた。ひとつだけエリの計画が狂ったとすれば、ふたりが、ひとりぼっちになってしまった、ということだ。行くな、と声が出ていれば、エリはライの手の届く位置にいてくれただろうか。ライはただ、たった今、エリが欲しかった。今だからこそ。ライにとってエリは人生のすべてだった。物を書く、とエリに言った言葉だって、エリがいなければ。

 あの日聞こえたブルーのような歌声が耳に残って離れない。エリはその声に連れて行かれたんだ。ライに微笑みを向けたまま地面に吸い込まれるように倒れたエリの体を追うように、スローモーションのような動きで、薄いスカートがふわりとエリの体を覆った。ブルーの羽のように見えた。もしもそうだとしたら、ブルー、なぜ僕も一緒に連れて行ってくれなかったの。ライは声を出さずに泣いた。時折、ライの喉からブルーのような素っ頓狂な声が空気のように鳴った。


 ライはベッドの上で日記帳を閉じた。
 あの日から何年にも渡ってライが書き続けたのは、たったひとつ。エリ。彼女のことだけだった。どう考えたら、ライが、そしてエリが、幸せになれたのか。もう判らない。ただ日常に帰るのを拒んでいた。少なくとも、エリはそう感じて絶望の中にいた。そして、そんな絶望を取り除いてあげられるほどライも大人ではなかった。物語は途中で、ぷつりと切れた。エリは強引に終わらせた。もう、ライが書くことは何もない。エリの匂いも、瞳の色も、口唇も、もう感じることはできない。日記帳は終わり。絶筆だ。ライはもう年老いていた。もう十分だろう。ライの日記の中で、エリは鮮やかに生き続ける。


《  了  》
初出 2014/02/17
推敲 2025/02/23

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あとがき
2014年当時、某サークルに所属しており、とあるテーマを元に書いた短編です。完成して本当に良かった、と言うのが書き終えてからの一言でした。テーマは既存の小説の一行を抜粋したものだったので、その部分は削除し、新たな文章に置き換えました。

この物語を書いていた当時はソチオリンピック真っ只中でした。
応援しながら深夜に書き、日常の憎いつまらなさをやり過ごし、私自身も現状から脱したい、と悩みながらラストを迎えました。今もそれほど変化のない日常ではありますが、改めてあとがきを更新できて、今も書いているという現実を嬉しく思います。読んでくださり、心から感謝致します。

最後に、
私が当時書いたブログに、エリのインスパイア元となった画像をいくつかアップしているので、そちらも併せてご覧いただけたら幸いに存じます。↓

幸坂かゆり🐱

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