短編『始めるために』
21時を過ぎて、祭りは完全に終わった。
待ち合わせた恋人は結局来なかった。
僕はため息をついて会場を離れ『空車』と表示されたタクシーに手を上げた。タクシーが止まり、乗り込もうとして一瞬、体が止まった。
運転手は女性で、白い手袋をはめていたが制服ではなく浴衣を着ていた。
「いらっしゃいませ」
明るくさっぱりとした声だった。
「珍しいですね。浴衣姿の運転手さんは」
「羽織ってるだけだけどね。ズボンも履いてるし。でもお祭だから特別。ついでに今日は気に入った客しか乗せないの」
「……僕は、気に入ったのですか?」
「うん」
彼女はあっさり言葉を返した。
普段なら初対面の人間とこうした砕けた話し方をするのは苦手だったが、今日は、もう少し気風の良い彼女と話したくなった。
「あの、良かったら少しドライブしてもらえませんか。もちろん、その分の料金は支払いますから」
この言葉を受けて、彼女は途端に怪訝そうな表情になり、眉を顰めてバックミラー越しに僕を見た。その視線に少々気圧されて我に返り、おかしな申し出を撤回しようとしたが、先に口を開いたのは彼女の方だった。
「すぐに帰りたくない何かがあった訳ね」
彼女の言葉は思いがけず僕の心の芯を突いた。
「……ええ」
「いいわよ。どこへ行きたい?」
「近間で申し訳ないのですが海が見たいんです」
「海沿いを、ぐるっと一周して一旦漁港に停める、というルートでいい?」
お願いします、と返事をすると彼女は滑らかに車を走らせた。
この小さな町は海に面しているため、本来ならどこを歩いてもすぐ海に到着する。タクシーなら一区間の料金だ。そのような、あまり喜ばしくない客である上、勝手なドライブの提案までしたというのに、すんなり受け入れてくれた彼女に心から感謝した。僕は視線を深まっていく夜の景色に移し、運転に身を委ねた。窓から入る夜風が爽やかに車内を循環し、すぐに潮の香りが漂った。
漁港に着いた所で彼女はタクシーを停め、エンジンを切った。暗い海に漁船が何艘か停泊していた。タクシーを降りて近くの自動販売機で温かい飲み物を買い、あらためて墨のように映る海を眺めた。
「……僕は今日、賭けをしていたんですよ」
「賭け?」
「ええ。長年付き合っていた恋人と祭りの会場で待ち合わせをしていました。この間プロポーズしたんです。その返事を聞くために。来たら了承、来なければ拒否。ふたりで決めたことでした。僕は明日、仕事で外国に発つんです。だから恋人が来てくれたら一緒に連れて行くつもりでした。けれど恋人は来なかった」
僕は洗いざらい喋った。
「辛いね」
彼女がぽつりと呟いた。
「あたしはね、今日が夫の命日なの」
僕は思わず彼女を見た。
「去年の今日、彼が事故で死んだ。仕事が終わったら、お祭り見に行こうねって言ったまんま。あたしは会場で彼を待った。でも彼の母親から携帯電話に連絡が入って、それで彼が二度とこの場所に来ないことを知ったの」
彼女は海の方を見ながら淡々と語った。あまりにも淡々としていたので、慰めるのも陳腐に思えて言葉が出なかった。
「ごめんね。あたしの話になっちゃって。別にお客さんと比べてる訳じゃないよ。愛する人を失う辛さはみんな同じ。彼岸だろうと此岸だろうと。お客さんが今、そんな気持ちだったから波長が合ったのかもね」
そう言って彼女が僕の顔を見た。
彼女の表情が僅かに変化したので、どうしたのか問いかけようとすると、彼女は白い手袋を外し、突然、僕の頬に触れて来た。僕が驚いていると頬を滑る彼女の手が濡れていくのが判った。気づかない内に僕は泣いていた。彼女は微笑んで、ポケットティッシュを渡してくれた。そのまま暫く佇み、景色を歪めたまま波の音を聞いた。
「この後、どうされるんですか?」
車内に戻り、僕はあやふやな質問を投げかけた。
「家に帰ってお風呂に入って寝る。お客さんは?」
「僕も休みます」
タクシーは来た道を戻り、話すことを終えた僕らはそこからぽつぽつ他愛無い会話をしたくらいで、後は自然に沈黙した。
指定した場所でタクシーを停めてもらうと、彼女は金額メーターを動かしておらず僕からの代金を受け取らなかった。僕は慌てて、それではあまりにも申し訳が立ちません、と言うと『ずる』したのばれちゃうから、と涼しく笑い、僕に手を振った。遠ざかるタクシーに僕は深々と頭を下げた。
明日からは、慣れない外国での生活が始まる。
今もまだ恋人がいた心の一部分にはぽっかり穴が開き、胸は痛いままだ。けれど、やがて明ける夜の町の情景は先ほどの彼女を思わせ、人生を悔やまずに生きていけそうだと思えた。
〈 了 〉
※1894文字
花澤薫さま主催の個人文学賞(note上開催)に駆け込み応募させていただきました。2000文字以内の短篇ということで、以前の作品ではありますが読んでいただきたい失われし者の物語です。
「始めるために」 / 幸坂かゆり
初出 2004/08/14
推敲 2025/02/16
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