小説 『十三夜の人魚』
夏が褪せて来た、と思ったのは濃厚な香りが風に乗ってきたから。香りの元は待ち合わせた場所へと向かう道すがら見つけた夏の白い花。まだ咲き誇っているけれど香りはもう飴のように甘く熟していた。もうすぐ夏は逝く。思っているよりも早く。
私は昨年の冬から春の間、病んでいた。しかし、恐る恐る受診した精神神経科は人の気配がしつつも静かで、いつも同じ清潔な空気が保たれていてどこにいるより安堵した。幾度か通院したのち、真面目な患者であったのと主治医の適切な処置のおかげで夏には症状も落ち着いたことで通院を終えた。秋に近くなった頃、当時主治医だった……仮にK医師、としておこう。彼から連絡があり、寛解した患者数名と一般人をごく僅かに交えた会を開きたいので手伝って欲しいという話を持ちかけられた。
「美琴さん、これは医療行為ではないんですよ」
待ち合わせた病院のそばにある喫茶店でK医師は私にそう伝えた。ただ参加条件は誰でも、という訳ではなく多少なりともK医師が行った治療内容を知る人物であり、その治療方法と相性の良さを感じた人物のみであると話す。
K医師は様々な作業療法を取り入れており、一般的な子供にとっては楽しいであろうジェンガやオセロゲームを行ったが、もちろん当時の私は既に大人で、病んでいたし、あくまでも治療の一環として行っただけで、本来はゲームなんてやっている心境ではなかった。しかし数ある治療法の中、心を惹かれたものがあった。今では随分ポピュラーになった箱庭療法だ。四角い箱の中に砂が敷いてあり、砂をよけると底が青色になっていて海を表しているという。そこに小さな玩具を並べてK医師が患者の心理状態を探るというものだ。
箱庭を作るための専用の部屋に入ると、玩具がおもちゃ屋さんのように棚にずらりと何列も並べられ、それらを砂の上に好きに置いて良いのだという。患者が完成させるまでK医師は口を挟まない。しかし終えても感想を言わない。ただ患者の内面にあるものが浮き彫りになるらしい。私は通院するたびに箱庭を作るようになり、その内完成したものを壊されるのがもったいなくて、完成したものをスケッチするようになった。後日完成した絵を見せるとK医師は非常に喜び、作ることと私の相性の良さを教えてくれた。私が病んだ原因は、現実での仕事である絵をなかなか認めてもらえなかった時だった。しかし通院しながら休暇を取り、仕事から少しだけ距離を置いたことで作る喜びを再び見出せた。そこから私はどんどん快方に向かっていった。
そんな経緯からの今回の話だ。
呼ばれたのは私の他、一組の男女。彼らも患者だがすでに寛解のきざしを見せており、彼らもまた作ることと相性が良いのだという。そのように、ある程度治療を終えた患者を集め、小規模な心理学会を開きたいのだ、とK医師は話す。
「大げさに考えずに。あくまで共同作業が目的なのです」
K医師が少し身を乗り出すと私の手元の紅茶のカップが震え、波紋を描く。
「もちろん間には私が絶対入ります。医師も私ひとりではありません。患者さんたちだけで進行させることもしません。まずはお茶でも飲みながらそれぞれの参加者が現在どのような創造に興味を持ち、また実践しているのか、どのようにしたら伸ばしていけるのかを語り合えたらと思います」
院外での計画なので大事にはせず、六月、七月、八月の月に一度、全三回に渡って試行的に行われる。私は絵を仕事にしていたので、テーマに沿ったポスター作りを提案するとK医師はとても喜んだ。もうひとりの女性は対人恐怖症ながら司会をこなすと言った。もうひとりの男性は音楽活動をしており、その分野での発表を考えていた。K医師が言っていたもうひとりのスタッフは新たに病院にやって来た若い医師だった。
場所は病院近くの地域会館の一室を使用する。
当日、緊張もあり私は少し早めに準備をしに施設に出向いた。すると給湯室には既にK医師が来ており、お茶の準備をしていた。カップとソーサーを並べる白衣の後ろ姿に私はどう話しかけようか戸惑った。するとK医師は誰もいないと思ったのか歌を歌い始めた。だから私はますます話しかけられなくなった。それにあまりにも気持ち良さそうに歌うので、そのまま諦めて壁に凭れ、K医師の死角になる場所に移動し、歌を聴くことにした。
K医師の歌声は話す声と印象が違った。元々よく通る声というところは変わらないが、歌うと穏やかな高音になった。何分か経過した時、壁にかけられた時計が鳴り、K医師は何事もなかったかのように歌うのをやめた。私ははっとして、たった今やってきた振りをして挨拶をした。
「美琴さん、よく来てくれました」
K医師はそういうと微笑んで挨拶を返した。私の胸に少しだけ罪悪感が生じる。なぜなら私はK医師の歌声をこっそりと携帯電話で録音してしまったから。K医師の歌声はあまりにも美しかったのだ。
第一回目の課題は音楽と心理学の関係について。
計十名ほど一般観客が集まった。私は音楽をテーマにしたどこか揺らめきを思わせる絵をポスターにした。見えないものを描くのは非常に難しく、揺らめきを海と魚で表現してみた。参加した人が「素敵な絵ですね」と褒めてくれて嬉しかった。喫茶店で話をしたとおり女性が司会進行をし、同じくその日女性の隣にいた男性が自ら映像を制作して発表し、施設の備え付けである電子ピアノで表現をした。K医師は熱心に聴き、男性は曲の歌詞やミュージックビデオの世界を心理学的観点から伝えていた。若い医師はそれらを資料としてノートに書きとめながら話を聞いていた。初回は概ね成功だった。
第二回目はこの町に住む建築家を招待して行われた。
私は彼のサイトなどを参考にしてポスターを作った。彼の建築物はシンプル、と言うより無機質な印象を受けたのでどこか一部分に華やかさを入れたくて、銀色のスクエアをたくさん描き入れた。当日建築家は私の拙い絵を褒めてくれたが何故だかお世辞にしか思えず、愛想笑いをした。多分建築家が片側の頬を引き上げて笑ったのを見たせいだろう。そんなことを少し気にしながらも淡々と時間は過ぎた。そして話の中で建築家もまた過去に病んでおり、K医師の元患者だったのを知った。本格的に建築家としての道を歩み始めた頃だったという。彼は最初とても自信家だったがストレスを受け、声が出なくなってしまったのだと話した。
「僕はどこか……人をバカにしていた節があったのです。当時の僕は人づきあいが上手いと思っていて、相手の心を動かすことは容易いとすら思っていた。
けれど、自分がプロの新人建築家という立場になると、四方八方から貶められ、嘲笑された。それは今まで自分が他人にやってきたことです。そこから僕は物理的に言い返すことができなくなりました。見下されることがどれほど屈辱的なのかを思い知りました。そう感じた時、自分が他人に対し、ずっとそんな態度を取っていたのを思い知って自分自身を殴りたくなりました。そして、今までのことが罰のように、失声状態となって降りかかってきたのです……」
建築家の話を聞いて私は先ほどの態度を思い返し、納得した。彼は好きで片頬を歪めて笑った訳ではなく、声を自由に出せない事実に至った彼なりの笑顔の作り方であり、コミュニケーションの方法だったのだ。会の終わりになる頃には全員が打ち解け、私も建築家と笑顔で握手を交わした。それどころか照れながらも私のポスターを欲しいと言ってくれた。もちろん喜んでプレゼントした。
最後の第三回目は総括のようなものだったが、参加人数が集まらず前日に中止の知らせが入った。そううまく行くものではないらしい。私は完成した最後の会のためのポスターを持参し、タクシーに乗って地域会館に向かった。第一回、第二回と続けて参加しているのにほとんど集まった方の話を聞くだけで自分の話をせず、ポスターを描くことくらいしか協力できなかった。だからこそ自分が唯一参加することができたポスターだけは見て欲しかったのだ。
地域会館の玄関は施錠されていたが物音に気づき、奥から誰かがやってきた。K医師だった。今日は中止だったので私の姿を見て少し驚いていた。私は描いたポスターの件を話した。K医師は笑顔で「ぜひ見せて下さい」と言い、私を施設の中に招き入れた。ドアを閉じて外気が締め出されると静寂だけが残った。
「三回目が中止になってしまって申し訳ありません。もう少し早くお知らせできたら良かったのですが」
「いいえ。私は少しでも力になれましたか?」
「もちろんです。美琴さんが参加してくれてとても助かりました。美琴さんは戸惑いながらも色んな参加者の話を熱心に聞いてくれました。その真摯な姿勢を通して他の参加者の目がどんどん輝いていきました。ああ、美琴さんはこんなにも誰かを輝かせる力を持っていたんだな、と僕はとても感激しました」
「そんな……そんなことはないです」
自分から問いかけたのにあまりにも甘美な答が返ってきたため、心臓の鼓動が早く打ち、心の中を覗かれたらどうしようと思い、落ち着かなくなった。
「あ、ポスター……」
私は少し慌てて持ってきたポスターを広げた。K医師はじっと見つめた。今回は総括だったので今までの要素をすべて絵の中に描き入れた。音楽の中を泳ぐ魚や、その中に彷徨う銀色のスクエアも、海の泡のように丸く形を替え、曼荼羅のような仕上がりになった。
「……とても美しいですね。泡が真珠のようです」
K医師がため息のような声で感想を言う。
「ありがとうございます」
「美琴さん、このポスターは私がいただいても良いですか?」
「喜んで」
「今回、全三回の予定でしたが正直に言いますと、二回実施できたのがやっとでした。勉強することが山ほど見つかりました。けれど和やかな雰囲気で進んだのは、美琴さんの持つ朗らかな笑顔や落ちついた声のおかげでもあります。初めて診察した時から、美琴さんはその部分を失っていません。変わらずにいることと、成長するというのはどこか同義語でもあります。美琴さんは、その資質を保ちながら……大雑把な言葉ですが、とても大人になりました。素のままの美琴さんに柔らかい衣が重なるようにたくさん勉強をされたことがきちんと体を覆っていてとても成長されています」
「先生、それはどういう……」
真意を測りかねた私の言葉がついえてしまったためK医師は続けた。
「つまり」
「はい」
「美琴さんはもっと自信を持っていいんですよ。今回美琴さんが申し出てくれて描いて下さったポスターはとても素晴らしくて、美琴さんが帰った後も写真に収めたりする方が後を絶たなかったんですよ。二枚目は建築家の彼が入手してしまいましたが」
知らなかった。みんなその場限りの褒め言葉なのかと思っていた。私が最初は建築家の言葉を素直に受け取れなかったように。
そう考えていると長時間立ち話をしていたせいか、急に目の前が暗くなり、体がふらついた。いけない、貧血だ。K医師は私の様子に気づき、素早く体を受け止めてくれたが私自身も崩れ落ちまいとして必死にK医師の白衣を掴んだ。K医師は隅にある長椅子まで私の体を支えて誘導してくれた。
「……すいません」
「気にしないで横になってください。寒くないですか?」
「はい、あの、水が欲しいです」
「わかりました。持ってきます」
私はなぜだか急に窒息しそうな魚のような錯覚に陥った。だから急激に水を欲したのだ。K医師はすぐに冷蔵庫からピッチャーを取り出し、よく冷えた水をコップに注いで私の目の前に差し出した。その時、自分でも思いがけないほどの渇きが襲い、中途半端に礼を言うとK医師の腕ごと掴み、コップを引き寄せて水をごくごくと飲んだ。乱暴に口に運んだせいで唇の端からひとすじ水が首へと伝ったが、冷たさは私の体の中をまっすぐに降りていった。水を飲み干すと大きく深呼吸をした。
「少し落ち着きましたか?」
「はい。貧血を起こしてしまったようです。ごめんなさい」
「こちらこそ長い時間立ち話になってしまって申し訳ありません。完全に落ち着くまで休んでいてくださいね」
私はK医師に礼を言い、しばらく何も話さなかったが、長い沈黙はふと過去の記憶を思い出させた。
「先生は憶えていらっしゃるでしょうか。初めて受診した時、心理テストで私が描いた絵を褒めてくださったこと」
K医師の目が微笑んでいた。
「憶えていますよ。あの絵は今でもきちんと保管されています」
―― 診察の日、
一枚の画用紙とクレヨンを用意されていた。私は絵を描く余裕なんてないと思いながらも渋々、K医師の指示に従った。
まず、道を描いてください。次は川を描いてください。太陽を、人物を、人物の隣に動物を、言われるがまま画用紙に描き入れた。最後に「なんでもいいので、何かをひとつ付け加えてください」と言われ、時間をかけて考えた末、自分で描いた川の中に、泳ぐ魚を付け加えた。すると何故だかクレヨンをほとんど総動員させるほど夢中になってその魚に色付けをした。
完成した絵を見てK医師はとても感心していた。患者にはあまり負の感想を言わない決まりになっていたのかも知れないが、K医師は描き入れた魚に対して、非常に良い方向に偏った反応だったのを記憶している。
「素晴らしいですね! まるでたった今泳いでいるかのように生気に満ちています」
K医師は興奮して画用紙の魚が動くはずはないのに、魚が泳ぐ進行方向に沿って斜めにしてみたり角度を変えてみたりしたので私は少しだけ笑った。とても嬉しかった。心理テストだったので描いた絵にはすべて解釈があり、最後に描き込んだものは、そのまま『未来の自分自身と希望の尺度』を表していた。
私はそれから絵をがんばり、仕事にすることができた。だから今回の学会に参加できたこと、力になれたことが本当に嬉しかった。
しばらく話をして、体の調子も良くなり、帰るためにタクシーを呼んだ。K医師はタクシーが来るとドアの前まで一緒に来て送り出してくれた。タクシーに乗り込む前に会釈をした。
「先生、お元気で。どうもありがとうございました」
「こちらこそありがとうございます。美琴さんもお元気で。体に気をつけて」
互いに微笑み合い、挨拶を交わした。タクシーはすぐに発車し、私がK医師の方を振り返るとすぐに角を曲がり、それきりになった。
それから私たちは特別に連絡を取ることもなく、また私はいつもの日常へと戻った。それでもあの時味わった不思議な『創造』という見えないものに対する情熱を様々な人から感じたこと、そしてK医師の詩的な言葉での励ましを受けたことも含め、私自身をもっと成長させたいという欲求に彩りを加えてもらったようだ。
ある日、買い物を終えて帰宅する途中、秋が深まる頃だと言うのに季節はずれの酷暑にぶつかり、気が遠くなりそうだった。アパートの玄関ドアを開けると、部屋の中が暖房を入れたように暑くなっていた。すぐに部屋中の窓を開け、上着を脱いだ。片づけようと思って片隅に置いていた扇風機を再び引っぱり出した。扇風機のスイッチを入れると羽は緩やかに回転し始め、柔らかな風が水のように頬にかかる。充分に部屋の空気を循環させてからそのまま床に横たわった。硬い板張りの床はひんやりして心地良い。あの日の長椅子のようだ。ああ、こんな所で寝転んだら頬や肩に床の跡がついてしまうのに。
窓を見るとカーテンの隙間から、昼間のすり硝子のような月が目に入る。十三夜の月。まだ陽も暮れていないのに眩しいほどくっきりと目に映る。風を浴びながら月を見ていると眠くなってきた。けれど暑さが眠りの邪魔をする。私は手を伸ばし、傍らに投げ出していたバッグの中から携帯電話を取り出して耳にあてた。あの日録音したK医師の歌が流れる。水分を帯びた若々しく涼やかな声。閉じた目蓋の奥の仄かな残像の月の中で色鮮やかな魚になった私が泳いでいた。私は声に向かってまっすぐに泳ぐ。声はすべての音を遠ざけて私をまどろみへと導く。
< 了 >
2017年11月7日
推敲 2026年5月1日
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【 あとがき 】
フィクションではありますが、当初書いた時(えっ、もう9年前?)のお題が「ストーリーの中にひとつだけ自分のことを埋め込む」というものだったので、当時携わっていた会とポスターを描いたエピソードから物語を膨らませました。
結果、断片の寄せ集めとなり、支離滅裂のようにも思えますが当時集った場所での空気や風の暖かさなどを思い出して書くことはとても懐かしく、エピソードの数々を思い出として残せて良かったと思います。
ここに登場するK医師は実在する人物で私の恩人のような人でもあります。彼はその後、市内を離れて病院を開業しました。会の手伝いをしてくれた若い医師も違う病院へと移りました。けれど、もしもあの会がまた開かれるのなら、もういちど参加してみたいなと思います。
最後に、物語が全然ドラマティックではなく淡々としている理由として、現実ってそれほど事件は起きないよね、ということで。はい。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
幸坂かゆり
※ トップ画像は「Pixabay」より
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