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Vol.10:整えることが、いちばんの表現だったのかもしれない〜AIを道具で終わらせないために〜

AIが出してくるものは、よく整っています。
ぱっと見では申し分ないし、構成も流れも破綻がありません。
しかし、それだけでは“自分の言葉”にはならない。

整っているのに、どこか引っかかる。
そのままでは渡せない。
そう感じる理由を、ずっと探してきた気がする。

この連載の最後に、「整える」という作業を通じて見えてきたことを、いまの言葉でまとめておきたいと思います。



整っているけど、まだ自分ではない

AIで出力されたコピーや構成案、イラスト。
完成度は高いし、クライアントにそのまま出しても違和感はないかもしれない。

ただ、自分のなかでは「もう一歩足りない」と感じます。
それは、そこに“自分がどう考えたか”が反映されていないからなんだと思います。

そのままでは、まだ「他人の言葉」のままなんですよね。


整えることで、自分が引き受けられる表現になる

語尾を変える。
順番を入れ替える。
少しだけテンポを整える。

そのどれもが、たいした作業ではないように見えるけれど、整えていくうちに「これなら自分が届けられるかもしれない」と思える状態に近づいていく。

整えることは、「これは自分が引き受けた表現です」と言えるための手間、だったのかもしれませんね。


どこまでをAIに任せて、どこから自分が整えるか

AIを使えば、ある程度までは誰でもたどり着ける。
それが強みであり、逆にいえば“同じようなもの”が出やすくなる部分でもある。

だからこそ、どこで自分の判断を差し込むか、という意識が必要になってきます。

プロンプトの工夫やツールの使い方も大事だけれど、「なぜこれを出したのか」「どこを残して、どこを削ったのか」といった考えた跡があるかどうかが、仕事として成立するかどうかを左右しているのではないでしょうか。


整える作業は、責任の所在を明確にすることでもあった

「誰がこの表現を選んだのか」
「誰がこの順番を決めたのか」

整えるという行為は、そういった“責任の境界線”を、少しずつ自分の側に引き寄せることでもありました。

全部を自分で生み出したわけではない。
でも、「ここからは自分が考えた」と言えるようにする。
その姿勢が、今の表現には必要なんじゃないかと思います。


実際、「誰が関与したか」は、法的にも意味を持ちはじめている

ちなみに、こうした“整える”という作業は、いまの日本の法律においても、著作権と無関係ではありません。

AIが出したものをそのまま使うだけでは、著作物として認められないケースもあります。
でも、そこに自分なりの編集や構成、判断が加わっていれば、「これは人の創作的関与によるものだ」として保護対象になる場合があります。
(実際にはもう少し複雑ですが)

どれだけ考えたのか。
どこまで試行錯誤したのか。
それはただの“制作の過程”ではなく、「これは自分の表現です」と言えるための土台にもなっているんですよね。


自分がやってきたのは、整えることだったんじゃないか

この連載を通じて、何度も考えていたのは、自分は何をしているんだろう、という問いでした。

文章を“書く”というより、“整えている”時間の方が長い。
出てきたものを自分なりに受け止めて、判断して、直していく。

それを繰り返すことで、ようやく「これが自分の表現です」と言えるものになっていく。

もしかしたら、整えることこそが、自分にとっての“表現”だったのかもしれない。


おわりに

AIを使うようになってから、表現に対する考え方も、自分の立ち位置も、少しずつ変わってきたように思います。

スピードや効率が上がったことはもちろん、それと同じくらい、「整える」という作業に対しての意味づけも深くなりました。

誰でも似たようなものを出せる時代に、どこで自分の言葉になるか。どこで「これなら届けられる」と思えるか。
それを考え続けることが、これからの“仕事としての表現”には必要なんだろうと思っています。

この連載はひとまずここで一区切り。
でも、おそらくこの問いは、もうしばらく続きそうな気がしています。

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