祖父の詫び銭
7月8日
7月6日はサラダ記念日で、7月7日は七夕で、続く7月8日はというと、我が家では祖父の誕生日であった。過去形である。
生きていたら、祖父は今年いくつになったんだろう。もう亡くなって何年にもなるが、毎年祖父の誕生日が近づく北海道にも本格的な夏の訪れを感じるようになる頃、元号と西暦の計算をしてしまう。
母方の祖父は昭和2年7月8日生まれ。今年令和8年(2026年)は昭和に換算すると101年らしいので、祖父は生きていたら満99歳、数えでは100歳になるメモリアルイヤーではないか!もしも存命だったなら、今頃は家族一族総出で百寿の祝いを催したことだろう。百寿の国民は内閣総理大臣から表彰状をいただけるらしいのだが、名誉なことが大好きで過剰に自慢したがる癖のあった祖父は、家族が止めるのも振り切って、ドヤ顔で近所中に自慢して歩いたに違いない。
子どもの頃のおじいちゃん
そんな空想をしていたら、元気だった頃の祖父の思い出が蘇ってきた。
ちょうど私が生まれた頃、祖父は国鉄を定年退職し、元気なご隠居様となった。国鉄とは今のJRの前身で日本国有鉄道のことである。在職中は北海道の道南方面各地を転勤して歩いたそうだが、退職後は祖母の実家があった胆振の白老町に家を建てて落ち着いた。
祖父は元気なおじいちゃんだった。まず声が大きい。よく通る声という以上に、鼓膜が破裂しそうなくらいの“わっ”という勢いのある声量の持ち主であった。そして悪気はまったくないのだが、粗忽な乱暴者だった。幼少期、祖父の車からまだ降りている途中なのに、祖父にバーンっと思いっきりドアを閉められ挟まれたことがある。これらが故、おとなしい性格だった小さい頃の私はおじいちゃんが実はちょっと苦手だった。
風貌はザ・昭和のオヤジで、頭はサザエさんの波平さんで、格好はバカボンのパパ。白いランニングシャツを着ていたらまともな方で、暑がりだったのか汗っかきのため、年がら年中、たいてい上半身は裸。大黒様のように豊かなおなかを丸出しの、裸の大将ならぬ裸のじいさんであった。
祖父が立派なおなかをしていたのには明らかな原因があり、よく飲みよく食べていたからである。子どもながらに、祖父の食べ方は常軌を逸していた。口に入るものなら、何でも余さず食べた。お魚を骨ごと皮ごと丸ごといただくのは序の口で、エビだって頭から尾まで殻ごと全部食べる。もぐもぐ咀嚼している祖父の口角からエビの赤いヒゲがぴょこんと飛び出しているのはお約束の光景であった。
伯母が結婚相手を紹介した初めての顔合わせの時、気取って入った札幌の喫茶店で、プリンアラモードのパイナップルを皮ごと平らげて、後の義伯父をびっくりさせたというエピソードも、いまだ武勇伝(?)として我が家では語り継がれている。
頑強な歯と凄まじい消化酵素の持ち主なのである。
お酒はあまり強くなかったのは幸いであった。毎晩いいちこの焼酎で晩酌していたのだが、
「おっとっとっと」
とおどけて手を滑らせたふりをして、コップになみなみ焼酎を注ぐくらいのかわいいもので済んでいた。とにかく何でも、少しでもたくさん口に入れたいようであった。
自分でも飲み食いが好きな祖父だったが、もれなく人にも飲み食いさせるのが好きな人だった。陽気で人好きだが、よその家に出かけていくのは嫌いで、自宅に人を呼びたいタイプ。というわけで、祖父母宅には、友人やら隣近所の人やらがよく出入りしていた。
「飲んでけ、飲んでけ」
「食ってけ、食ってけ」
「なぁんも、まだいいんでしょ」
客人は、ひとたび玄関に足を踏み入れようものなら、いかに遠慮しようとも祖父に家の中に引きづりこまれ、酒を注がれ、祖母の大量の手料理を食べさせられた。そして祖父が酔い潰れて寝るまで帰してもらえない。
こう書くと、令和の現代には諸々ハラスメントに引っかかってアウトだろうが、昭和1ケタ生まれが幅を利かせていた昭和〜平成初期は、ハラスメントなどという概念はおろか言葉さえ存在していなかった。自分の身内を庇うわけではないが、祖父は相手に嫌な思いをさせたかったわけでは決してない。自分の家族だけでなく、すべての人が、おなかいっぱい食べるべきで、自分が持っているものは分け与えたいという、その時代を生きた人の価値観で、心からのおもてなしだったのだと私は思っている。
大人になってからの祖父
祖父母ともに健康だったので、2人揃って白老で生涯を全うするものと思っていたが、晩年は2人とも何かと入院したりして体が少しずつ不自由になってゆき、長女である札幌の伯母夫婦のもとで2世帯暮らしをすることになった。
「まさか俺が札幌のじっこになるとはなぁ」
祖父は折にふれ、そう言っていた。生まれた時から北海道の田舎町ばかりを転々としてきたのが、まさか晩年を北海道一の大都会で過ごすとは想定外だったようだ。
“じっこ”というのは祖父独自の言い回しなのか、古い北海道弁なのか分からないが、じいさんという意味である。
祖父母は曾祖父母が宮城県から北海道に渡ってきたルーツを持つ人達なので、使う言葉は東北訛りの北海道弁である。例えば、棒のことを“ぼっこ”、子どものことを“こっこ”と言ったりして、名詞の語尾には“〜こ”をつけがちである。
祖父が口癖のようにおどけて「銭こけれ」と満面の笑みで言っていたのを思い出す。銭はお金のことで、お金ちょうだいという意味である。
白老のおじいちゃんが札幌のじっこになったのとちょうど同じ頃、私も大学進学のため、札幌の人になった。大学入学当初、祖父母と伯父伯母が暮らす家に居候させてもらった時期があり、ここで私は初めて祖父母との同居生活を体験したのであった。
子どもの頃は大きな声の祖父がちょっと苦手だったが、大人になってみると、また違った面が見えるようになっていった。
昭和男児にしては陽気でおしゃべり好き、どちらかと言うと誰彼構わずいらんことまで赤裸々に話す祖父だったが、自分の子ども時代のこととなると貝のように口を閉ざして決して語ろうとしなかった。
祖母から聞いたところによると、祖父は小学校2年生の時に母親を当時不治の病であった結核で亡くし、父親は北洋漁業で出稼ぎに出て不在がちだったため、3歳下の妹とともに道内中の親戚をたらい回しにされ、不憫な子ども時代だったそうだ。
それが、祖父本人の口からぽろぽろこぼれるように語られるようになったのは、最晩年、認知症を患ってからのことである。
終の棲家、札幌に来てから、環境の変化だったのか、祖父自身の加齢現象か分からないが、祖父は認知症を発症した。
とにかく直近の記憶がリセットされ、同じことを3分おきくらいに何度も何度も何度も言うようになった。
最晩年の祖父の晩餐
認知症を発症してから亡くなるまでの最晩年の祖父の思い出は、晩ごはんの時のものばかりである。壮健な頃は生真面目に早寝早起きの生活をしていたのだが、次第に日中は寝てばかりいるようになり、ちょうど調子が上がってくるのが夕方からという生活スタイルの変化のせいかもしれない。
大好きないいちこでの晩酌はずっと続けていた。ただ、飲み過ぎると物忘れがいっそうひどくなるので、祖母により酒量はコップにほんの少しと制限されるようにはなった。祖母がコップに焼酎のほんのちょっぴり注ぐのを横目に見ながら祖父は
「おっとっとっと」と威勢よくかけ声をかけてみたり、
「もうちょべっと入れてけれや」と直談判したりもするが、祖母の手元は狂わない。
「うちのばばだらケチくさいもなぁ」とこぼすも、晩ごはんの時の祖父はしごく機嫌が良く、少年のように無邪気な笑顔だった。うっすら焼酎が入ったコップに、水と氷を足してなみなみにしてあげるのが私のお役目で、コップすれすれまで液体が入っている状態で祖父は満たされるようだった。
ほんの少しの焼酎で祖父は酔っ払い、すぐに波平スタイルの頭頂部まで茹でダコのように真っ赤になった。機嫌良く酔っ払うと、ぽつりぽつりと昔話がこぼれてくるようになった。
幼くして母親と死別し、親戚に厄介になっていた祖父が特につらかったのは小学校の運動会で、友達はみな家族が豪勢な弁当を持って応援に来るのに、祖父と妹のところには誰も来ないどころか弁当すらない。
「家で飯食うんだって言ってなぁ」
祖父と妹は昼にいったん帰宅したふりをして、2人で教室でやり過ごしたそうだ。
「喉渇いたら水道の水飲んでなぁ」
3分前に食べた今日のごはんのことは忘れても、80年も前に食べられなかった運動会の弁当のことは克明に覚えている不思議。
「貧乏して、貧乏して」
「悔しくて、悔しくて」
「食いたくて、食いたくて」
昔から、同じ言葉を2回繰り返してしゃべるのが祖父なのだが、酔っ払ってこっくりこっくりしながら、長年抑制されてきた意識からこぼれるように絞り出されると、それは祖父の中でひどく熟成された言葉に聞こえた。
貧乏腹ペコ少年は、戦前当時の義務教育である小学校6年と高等科2年までを受けた後は、進学の夢も叶わず、14歳から働いた。本当は中学校に進学して、その先は更に苫工か函工に行きたかったらしい。
14歳の祖父が勤めたのは、当時住んでいた地元の大岸駅。国鉄職員ではあるが、最低限の義務教育しか受けていないので、職種は最低賃金の駅員だった。祖父が言うには、駅員といったら切符売りが1番格好良かったらしいが、何の資格もない下っ端駅員の仕事は便所掃除から始まり、お客さんの荷物担ぎやガラス拭きなどだった。それで日当90銭。真偽の程は確かめる術がないが、祖父の口からはとても認知症とは思えないほどスラスラと初任給の金額が出てきた。
「海軍に入ったら、腹いっぱい食えると思ってな」
昭和2年生まれの祖父にとって、青春時代は太平洋戦争と重なる。戦局は厳しくなり、富める者もそうでない者も一億総腹ペコ時代、祖父が海軍に志願したのは昭和18年、16歳の頃である。
「海軍の制服が格好良かったんだ。どうせなら飛行機乗りが格好良いべ」
貧乏腹ペコ少年の志望動機は単純だった。飛行機乗りなのに海軍?と聞くと、当時の日本の軍隊は陸軍と海軍の2つで、飛行機は空母という船から飛んでいくので海軍に属していたと教えてくれた。
そして、本来まだ召集令状すなわち赤紙が届く年齢ではなかったが、自ら志願して少年兵になったのだと得意気に付け加えた。
空腹と単純な動機を抱いて入った海軍飛行予科練習生、通称予科練。憧れの飛行機乗りになれたのかというと、祖父は乱視があったために最初の身体検査ではねられ、飛行機の整備に回されたらしい。
「とんでもない所に来たと思った」
「整列させられてな、全員ケツ出して、バッターでぶっ叩かれるんだ」
軍隊生活はとんでもなく理不尽だったらしい。飛行機乗りになれず、整備の少年兵だった祖父は、戦地に赴くことなく、松島海軍航空隊の地で終戦を迎えた。
戦後は、国鉄の普通部という学校で学び、ハングリーな肉体と精神でもって、試験を受けてどんどん出世し、駅長や公安室長などを歴任するくらい偉くなったらしい。
日本の高度経済成長期とも重なり、貧乏と飢えから抜け出し、とにかく食べた。私が物心ついた時には丸々太ったおじいちゃんだった。
さて、祖父の晩餐の最後のお楽しみは、食後のデザートならぬ食後のお薬であった。要は口に入れば何でも良いのかもしれないが、祖父はお薬も大好きだった。最晩年は病院から処方される常用薬がたくさんあったが、エビを殻ごと食べられるじいさんにとって、大量の錠剤をイッキ飲みするなど朝飯前である。
ほんのちょっとの焼酎と、ごはんとお薬で満たされた祖父は満足して眠りに就く。
虚栄心と大好物
日によって波はあるのだが、祖父の朝はいつもさんざんだった。
認知症の症状が進んだのか、祖父はいつからか、自分のぽっこりおなかを気にするようになった。それまで自分の外見などなりふり構わず、とにかく食べることだけに振り切っていた祖父がである。
「俺のこの腹はな、全部便が詰まってるんだ。下剤飲んで、全部出してしまわないばないべ」
恐ろしい妄想に取り憑かれてしまった。家族が手を変え品を変え、そのおなかは食べ過ぎによる脂肪であることを伝えるも、全員あえなく惨敗。
祖父は病院から処方された下剤だけでは足りぬと、自分の年金が入った黒い札入れを大事に抱え、唯一迷わずに行って帰ってこれるご近所の薬局に出かけて行って、十方便秘薬なる薬を買ってきた。
マイルドなクリーム色の箱に入った十方便秘薬。1回に飲む量が8錠と大盤振る舞いで、薬でも何でも大量に摂取したい祖父はこれが滅法気に入ってしまった。
しかしながら、十方といいながら、飲むのは8錠というのは、ちょっと紛らわしい。私でもそう感じるのだから、認知症の祖父が混乱するのは目に見えていた。毎晩律儀に8錠ずつ飲んでいたのが、いつの間にかしれっと10錠飲むようになっていた。褐色の瓶に小さな文字で書いてある用量を指し、8錠じゃないの?とやんわり諭したら、
「ここに十って書いてあるべ!」と、箱の文字を指さし、人が変わったように目を吊り上げて烈火の如く怒られた。認知症老人の言うことを否定するのは良くない、世の通説通りである。
それでも数を数えていたうちはまだ良かった方で、いくらでも飲みたい欲求と認知症は比例するように進行してゆき、ついには豪快に瓶を傾け、
「おっとっとっと」と、焼酎を出しすぎるのと同じ要領で、十方便秘薬を出しすぎるスタイルになっていった。出しすぎた丸薬は決して瓶に戻すべからずという不文律でもあるのか、出たら出ただけ飲みすぎる。
もちろん、家族はただ黙って見ていたわけではない。あの手この手で阻止を試みたのだが、頑固な昭和オヤジが認知症になったら、その意思は岩より硬いと思い知り、当たって砕け散るのみであった。
果たして十方便秘薬の効果はてきめんだった。薬というものは適量を守らなければ効果が得にくいはずだが、十方便秘薬に限っては、飲めば飲んだだけ出るようなのだ。
大量に飲んでしまったら、翌朝は大変だ。早朝から祖父がトイレに立て籠もる。
トイレから出てくると、神妙な顔で
「俺、腹具合悪いんだ。何か大変な病気なんでないべか。頼むから病院さ連れて行ってけれ」と家族に頼み込む。認知症老人の記憶は一晩寝たら完全リセットされる。前の晩に十方便秘薬を過剰摂取したことは都合良く忘れている。
便意の波は何度もやって来て、ベッドとトイレの間をシャシャシャと床をずって歩く老人が見舞われる悲劇は…。
もぐす。もずくではない。海の藻屑でもない。
「もぐした」
トイレから出てきた祖父が、白い股引を重そうに引きずりながら洗面所に向かい、水道の水をジャージャーと勢い良く流す。大きい方の粗相のことをいう北海道弁が“もぐす”である。
チャキチャキの昭和男児である祖父は洗濯などしない。汚れたパンツを脱いで洗面所で水に流すまでで、これを盛大に文句を言いながら洗濯するのはいつも祖母だった。他の家族が手伝おうおしても、祖母は頑としてやらせなかった。桃太郎の昔から、洗濯はおばあさんの仕事のようだ。
おじいちゃんと番兵した日
祖母は午前中に食材の買い物に行くのが日課で、私も休日に祖父母の家に泊まりに行った時には祖母の買い物にお供していた。その時祖父はたいてい寝ているかトイレに籠もっているかだ。
ところがある日、
「おっこ、おじいちゃんと番兵してるべな」と、少年のような顔をした祖父に誘われたのだ。
おっこというのは北海道弁ぽく見せかけて、祖父だけが呼ぶ私の呼び名だ。“番兵”は軍隊用語からきているのかもしれないが、古い北海道弁で留守番のことである。
珍しい誘いに乗り、おじいちゃんと仲良く家で留守番することにした。風が涼しくなってきた晩夏の頃で、祖父の体調も良さそうな平和な朝だった。
しかし、祖母が買い物に出かけてまもなく、祖父をいつもの便意が襲った。何度目かのトイレ通いののち、洗面所からジャージャーと勢い良く水が流れる音がする。手を洗うにしては長すぎる時間だ。
なかなか戻ってこないので様子を見に行ってみると、腰に白い股引きを引っかけた祖父が、バケツの前に立ち尽くしていた。いたずらして廊下に立たされた少年のように、しょんぼりした背中の祖父が見つめる視線の先は、学校給食のカレーかと見紛う茶色の液体がなみなみ入ったバケツであった。クラクラした。
「ばばには内緒にしとくべな」
私を振り返った祖父は、いたずらを企む少年のような表情で片目をつぶってみせた。おじいちゃん、ウインクなんてできたの…!
「頼む」
両手で拝み倒され、私には断る選択肢はなかった。
そこから先は、何をどうしたものか、私の記憶が抜け落ちている。パンツを洗っている最中、(これが本当のクソジジイってやつか…!)と心の中で毒づいたことだけを唯一覚えている。
とにかく私は祖母が買い物から帰ってくるまでに、すべてを何事もなかったかのように片付けた。いつの間にか祖父は自室のベッドで高鼾をかいて朝寝していた。力が抜けた。
昼前に祖母が帰ってきて、私は何くわぬ顔で出迎え、祖父も朝寝からすっきり目覚めて起きてきた。開口一番、
「さっきもぐしたけど、おっこにやってもらった」
と、聞かれもしないのに祖母に留守中の報告をした。ばばには内緒にするべと拝み倒してきた張本人がである。顎がはずれそうになった。
そうだ、認知症の祖父はひと寝したら直近の記憶がリセットされるのだった。しかし自分で言ったことは忘れて、もぐしたことは覚えているのか、つっこみどころが多すぎて何も言えない。
祖母は私を労うと同時に、洗濯はおばあちゃんが後からするんだからそのまま置いておけば良かったのに、と言った。
「おじいちゃんが…ばばには内緒にするべって言うから…」
「それはそれは、御苦労だったね」
祖母はほんの少しの同情を含ませ、笑ってもう一度労ってくれた。
「おっこ、おっこ」
爽やかな風にすっかり洗濯物も乾いた昼下がり、祖母の姿が居間から見えなくなったタイミングを見計らって、祖父が自室のベッドから私を手招きした。よっこいしょと重たいおなかを押さえて立ち上がり、すすと摺り足でたんすの引き出しから黒い札入れを取り出した。まさか十方便秘薬の追加購入か、私は身構えた。
「これ、おっこに銭こやるからな」
大黒様のように満面の笑みで、ぽかんとしている私の手に一万円札を握らせたのだ。祖父は生涯、金額の多寡によらず、お金のことを銭こと呼んでいた。
当時とっくに社会人だった私は、祖父からお金をもらうことなどなかった。お小遣いをもらうのは学生時代ぶりだった。
「ばばには内緒だからな。うちのばばだらケチくさいんだぞ。ばばに見つからないうちに、早くしまえ」
さっきはごめんでもありがとうでもなく、ただお金をくれた。祖父なりの精一杯のお礼とお詫びだったのだろうか。
その数ヶ月後に祖父は体調が急変して入院し、亡くなるまで家に帰ってくることはなかった。私が祖父の下の世話をしたのはあの時の一度きりで、その時もらった一万円札が、祖父からもらった最後の銭ことなった。
大盤振る舞いの、祖父の詫び銭であった。
