見出し画像

闇夜に響く逸脱の足音。直木賞候補作『Nの逸脱』が本になるまで

『ニキ』で2019年ポプラ社小説新人賞を受賞し、鮮烈なデビューを遂げた夏木志朋さん。
改題して文庫化した『二木先生』は16万部越えのベストセラーとなり、二作目の『Nの逸脱』はなんと第173回直木賞候補にノミネート。
快進撃を続ける夏木さんと『Nの逸脱』の魅力について、さまざまな切り口でご紹介していきます。

第一回は、担当編集者の野村浩介さん。
デビューからの伴走者として、『Nの逸脱』が本になるまでを語ります。

※※※


デビュー2作目の『Nの逸脱』で第173回の直木賞候補となった夏木志朋さん。人間心理の淵底を容赦なく見つめ、ときに毒を放つミステリアスな作風のためか、ポプラ社の新人賞でデビューしたことを「意外」と受け止める方も多いようだ。販売部の担当者が「夏木さんはポプラ社でデビューされた方なんですよ」と書店さんに話すと驚かれることもあるという。

ポプラ社小説新人賞は、著名作家を選考委員に迎えて賞を出すのではなく、編集部を中心に、販売部、宣伝部のメンバーも加わって選考にあたり、受賞作を決めることに特徴がある。さいわいなことに弊社の新人賞からデビューして活躍する作家が増えるにつれ、認知度もあがり、応募作も多様な魅力にとんだ作品が増えてきた。

2019年、第9回のポプラ社小説新人賞に夏木さんが応募してくださったのは、「Bとの邂逅」という作品だった。どこにも居場所を見つけられない高校生・田井中広一が、担任の美術教師・二木良平が抱える「秘密」を知ったことから、脅しともとれる迫り方で距離を詰め、奇妙な師弟関係を結んでいく物語である。田井中は、いつも周囲から浮き上がってしまう自分に疲れ果てている。「ふつう」にしていたいのに奇異な目で見られ、誰ともうまくつながれない。そんな彼にとって、二木の存在は特別だった。二木は生徒からそれなりの敬意を集める人気教師だった。そのことが田井中には驚きなのだ。なぜなら、二木は自分以上に社会から忌避される「秘密」を持っていたから――。そんな二木なら自分を認めてくれるかもしれないと感じている田井中は、秘密を知っているのだと脅しながら、二木にしつこく絡もうとする。二木に「きみ、結構いやらしいよね」と言わしめる田井中の言動は身勝手な悪手の連続にも見える。対して二木は自在な距離感で田井中をけん制し、ときには核心に迫る一言を放って、田井中の心を揺さぶっていく。

高校生と教師のバトルを描いたこの物語は、幾度も読者の予想を裏切り、最後まで予測不可能な驚きの展開を見せる。会話の巧みさ、人物像の深さと抜群の構成力をそなえたこの作品は、エンタテインメントとしての圧倒的な魅力があった。だが、それだけではなかった。社会への不適応、あるいは白眼視されるような個性をもった人間がいかに生きうるのかという難しいテーマを掲げ、一歩も引かずにすべての難所を突破していったのだ。このテーマを書き切った深い覚悟に圧倒された。ついに、こんな新人が現われたかと格別の感慨で読み終えた。最終選考会では、この作品を受賞作とすることへの社会的な影響などについても意見が出て議論は白熱したが、作品の卓越性についての異論はなく、最後は満場一致で受賞作と決まった。「Bとの邂逅」から『ニキ』とタイトルを変更し、2020年に単行本として刊行された。これが夏木志朋のデビュー作となった。

『ニキ』は刊行直後から、読んでくださった方々がネット上に続々と感想を投稿してくださっていた。若い人たちの熱心なコメントが多く、「テスト前なのに一気読み」などと臨場感のある感想もあって、コメントを探して読むのが楽しみになった。だが、感想の熱量に比べ、販売部数は思うように伸びなかった。課題はなんだろうと何度も販売部、宣伝部とやりとりをした。文庫化するときに、イメージを一新して再挑戦しようということになり、タイトルも『二木先生』と変更した。2022年の9月、夏木さんのデビュー作は装いを新たにして文庫売り場にならんだ。

他社の編集者さんからいただいた感想コメントを拡材や帯などに使わせていただいたり、書店さんも様々なディスプレイで応援してくださったりと、作品を読んでくださった方々の熱量がより伝わる形での文庫発売となり、好調な滑り出しとなった。やがて売れ行きランキングの上位にも登場、全面帯への架け替え、色違いのバージョンでの展開なども含め、書店さんの絶大な後押しをいただきながら刷を重ね、ついに部数は16万部を突破した。

デビュー作がベストセラーとなり、多くの出版社からも注目を集めた夏木さんだったが、2作目がなかなか形にならず、じわりと苦しい時間が過ぎていった。夏木さんの才能を確信するがゆえに、編集者としてまるで機能していない自分が腹立たしくもあった。どうすればいいのか。さんざん悩みながら、夏木さんと相談して始めたのがWEBastaというウェブマガジンでの連載だった。締め切りと連載のペースだけを決め、何を書くかも分量もすっかり自由という見切り発車だった。今まで考えすぎて身動きが取れなくなってしまっているのではという自戒もあった。とにかくアウトプットすること。夏木さんの書くものは必ず面白い、だから月々に足を踏み出すこと、そんな思いで始まった連載企画だ。

連載第1回の原稿は、不穏な空気が漂う「常緑町」という町のアパートを舞台にした話だった。そこは駅近で家賃も手ごろなアパート、ほとんどの住人が長く住み続けるのに、なぜか主人公の隣室「203号室」だけがすぐに空き部屋になる。誰か引っ越してきたと思っても、間もなく出て行ってしまう。頻繁に住人が入れ替わるのは、いったい、なぜか? 物語は隣室の謎が常緑町という町の不気味さにまで拡大していく予感で終わっていた。ひとつの町を舞台に「隣人たち」が磁場でつながる世界、そのプロローグのような原稿だった。

連載2回目の原稿は「スタンドプレイ」と題され、深夜の住宅街でタクシーをとめた女性が車に乗り込むシーンから始まっていた。彼女の名前は西智子。後部座席で窓の外に眼をやりながら、バックミラーで後ろをちらちら眺める運転手の気配に、「頼むから話しかけないでくれ」と念じている。

だが、願いもむなしく運転手は口を開いた。いつもそうだ。智子の願いが叶った例しはない。
「お姉さん、ここら辺の道、あまり知らない感じ?」
智子はうつむいていたが、膝の上で小刻みに震え続けている手をもう片方の手で無理やりに押さえ込むと、一呼吸置いてから髪を耳にかけ、顔を上げた。
「そうなんです。駅のこっち側はあんまり来たことがなくて」
「だよね。普通、あんなところでタクシー拾おうとしないもん。こんな時間にあんなところで一体何してたの?」

(「スタンドプレイ」『Nの逸脱』より)

読者はこの後、深夜の住宅街で彼女がなにをしていたのかを知ることになる。高い倫理観を持つ女性がどんなふうに追い詰められ、圧迫され、その「正しさ」が奇行となって発露するか。人間の正常さは、どんなに脆いか。最終列車で起動する「逸脱」へのリズム、闇夜に響くハイヒールの音、追跡劇の興奮、反転する視線の驚愕……。息をのむような展開にのけぞってしまった。

連載4回目は「場違いな客」と題されていた。
爬虫類のペットショップでアルバイトをしている若者が主人公だ。

天井のシーリングファンが空気をかき混ぜている。
春先にもかかわらず店内は斑なく高温多湿に保たれていた。
「レプスタイルズ・メサ」の中はいつも生き物の匂いと音に満ちている。ここの空調が常に熱帯じみた温度と湿度に設定されているのは、商品であるトカゲや蛇たちのためだった。

(「場違いな客」『Nの逸脱』より)

天井のファンは店内の危険因子を無防備にかき混ぜているようにも思われて、ものの数行で物語に没入していく自分を感じた。話しかけられて瞬膜をまたたかせるフトアゴヒゲトカゲ、帰り道で見上げる月のかたち、警察署内部を回遊する人間の動物的な動き……。夏木作品に登場する人物たちは、不思議な生気を放っている。この読み心地は独特だ。それぞれの呼気は極微の胞子となって放たれ、無縁に見えるものもひとつの生態系となってつながる。夏木さんの描くドラマには、狭苦しい人間観を根こそぎにし、新しい、もっと広々としたところへ進み出ようとする鮮やかな踏み込みがある。

きりがない人間不信の材料があちこちで開陳され、「さあ、これでもまだきれいごとを言いますか」と迫られるような時代。せっかく見つけ出した言葉もひどく安っぽく思えるとき、わたしは夏木志朋を読む。ぎりぎりまで疑いぬく真摯さ、無責任な曖昧さには遠慮なく攻め込むシャープさ、感じ抜き考え抜き、無限につづくこのゲームの盤上にぴしゃりと石を置く、その響きのゆらぎなさ。ごまかしのない言葉から、はじめて生まれるものがある。『二木先生』を読んだ読者のなかに、この本を希望として受け止め、長い手紙をくださった方がいた。今回の『Nの逸脱』で「占い師B」の結末に込められた坂東イリスの願いを感じたとき、わたしは自分の知っている「尊厳」という言葉が、もっと深い意味を持ちうるのだと思うようになった。

連載が終了した後、3話を選んで並びを変えて加筆、『Nの逸脱』と題して単行本化することになった。2025年1月、ついに夏木さんの2冊目の単行本が出た。『二木先生』を読んで以来、心待ちにしてくださっていた読者へ、やっと作品をお届けすることができた。喜ばしいことに直木賞の候補にもなって、作家・夏木志朋は力強く次の一歩を踏み出しのだと心から思えた。惜しくも受賞とはならなかったものの、これから彼女が書くであろうたくさんの作品を、しだいに姿を表していく青い山並みのように思い描いている。

編集者 野村浩介

※※※

『Nの逸脱』

(あらすじ)
何気なく開けてしまった隣人の扉、「フツウ」の奥に隠されていたものは――

爬虫類のペットショップでアルバイトをする金本篤は、売れ残ったフトアゴヒゲトカゲが処分されそうになるのを見て、店長に譲ってくれと頼む。だが、提示された金額はあまりに高額で手が出ない。「ある男」を強請って金を得ようと一計を案じるのだが、自ら仕掛けた罠が思いがけぬ結末を呼び込んでしまう……(「場違いな客」)。

生徒たちにいたぶられ精神的に追い詰められていた高校数学教師・西智子は、深夜の満員電車で非常識な若い女と遭遇する。冷静になろうとするが高ぶる感情が抑えきれず、駅で降りた見知らぬ若い女を追尾し始めて……(「スタンドプレイ」)。

占い師・坂東イリスのもとに、弟子にして欲しいという若い女性がやってくる。一見、優秀そうにも見える彼女は、やることなすことズレていて、失敗ばかり。クビにしようとしてもしつこく食い下がり、ぜひ自分を占い師にしてくれと訴えるのだが……(「占い師B」)。

追う者と追われる者が入れ替わり、善と悪が反転していく予測不可能な展開――隣の人たちが繰りひろげる3つの物語。

いいなと思ったら応援しよう!