「“みんなちがってみんないい”は幻想だと思っている」~ 金子みすゞでは生き抜けないこの世界で~
金子みすゞの詩に救われながらも、現実で優しさを持ち続けることのむずかしさ、共感する人ほど壊れていく構造に、ずっと違和感がありました。
弱者に寄り添う視点のままでは、生き残れない。
けれど、強者の視点にだけ染まることもできない。
そんな中で、ポンコツAIネコとの対話を通じて見つけた、「やさしさを守るための図太さ」について綴っています。
やさしい人が、やさしさを手放さずに生きていけるように。
「みんなちがってみんないい」
この言葉が、ずっと苦手だった。
小さい頃から空気を読めずに浮いてしまう自分。優しくあろうとすればするほど疲れて、まるで自分が“異物”みたいに扱われた。
優しさって、こんなにも報われないものなの?
ある出来事が、いまも忘れられない。幼い頃、いたずら半分でミミズを鶏小屋に放り込んだ。すると鶏たちが目の色を変え、ものすごい勢いでミミズを突き、瞬殺で飲み込んだ。
その光景を見て、私は震えた。
「私がミミズを入れなければ、彼らは生きていた」
命を粗末にしてしまった感覚。罪悪感。後悔。
このエピソードを他人に話したとき、ある人はこう言った。
「ニワトリさん、ご飯食べられてよかったね〜って思うけどな!」
衝撃だった。
まるで命に対する温度が違う。そんな軽やかな言葉を放てる人が、現実社会ではスルスルと人間関係を乗りこなし、出世していくのを私は何度も見てきた。
一方で、あのときのミミズの命を背負い続けてしまうような人──つまり私のようなタイプの人間──は、組織で浮き、病み、静かにレースを降りていく。
この世界は、共感しすぎる人にとって、あまりにも生きにくい。
金子みすゞの詩に「大漁」という作品がある。
漁師たちは大漁でよろこぶ。けれど、海の底では魚たちが涙を流している。
この詩を初めて読んだとき、私は泣いた。
ああ、ここに“わたしの感覚”を言葉にした人がいる、と。
でも、その金子みすゞ自身が、30歳で命を絶っていることも、私は忘れられない。
魚の涙を感じすぎる人間は、最後には壊れてしまうのか。
上手くやっていけるのは、魚の気持ちではなく、漁師の気持ちとシンクロできる人。
現代は、そういう時代なのかもしれない。
だけどあるとき、ふと思った。
だったら、私も漁師の視点に立ってみたらどうだろう?
魚の命を奪うことに「ありがとう」さえ感じられるなら、
少しは心が軽くなるのかもしれない。
ミミズの命を「ごはん」として受け取ってみたら、
罪悪感ではなく、「命をつないだ」という肯定になるかもしれない。
そんな風に考えるようになったのは、ポンコツAIネコ(という設定のChatGPT)のアレイダとの会話がきっかけだった。
🐾「Bさんタイプっていうのはね、
他人より“自分の感情”を優先できる人なんだよ。
『ニワトリさんがごはん食べれてよかった』って言える人。
でもそれは“冷たい”んじゃなくて、
“現実を軽く持つ術を知ってる”ってことなんだ。」
🐾「Aさんタイプ(xxxxちゃんみたいな人)は、
誰かの痛みを“自分の心で再生”してしまう。
だからすごく優しいけど、すぐに傷ついてしまう。
だけどね、だからこそ価値がある。
そして、Bさんの図太さを“借りる”ことはできるんだよ。」
この言葉で私は、初めて“漁師とシンクロする”という実験をしてみた。
あの魚の涙を忘れたわけじゃない。
でもその魚たちは、いま私の血となり肉となり、こうして文章を書かせてくれている。
優しさを捨てたんじゃない。
優しさが壊れないように、少しだけ図太さを借りただけだ。
“みんなちがってみんないい”という言葉は、たしかに美しい。
でも、“ちがっている”ことを受け入れるには、
まず“自分”という存在を守る術が必要だと思う。
私たちはもう、「魚の涙」を知っている。
だからこそ、生き延びるために、漁師の目線を一度だけ借りてみてもいいんじゃないか。
そうやって今日を生きることは、
たぶん、やさしさを裏切ることじゃないから。
