ブルベリバタパン(朝食)
2026年5月28日
日々、時間がなくて感想がしっかり書けない。ロロ『ウルトラソウルメイト』も新国立劇場『エンドゲーム』もおもしろかった。ロロは芸劇で見るたびに姿を変えながら、でもロロでしかありえない作劇をしていてすばらしい。特に今回の作品は多くの人に届いて、染み渡る作品だった。初めてロロを見て、その世界観にすっかり引き込まれてファンになった時を思い出した。そんなに昔じゃないんだけど。大場さんの声や佇まいはロロのあのメンバーの中にいると”いる!”という感じがする。キラキラと。亀ちゃんは太い串となって作品を支えていた。あの太い心が劇場に満ちるとき、観客も心を重ねて奪われるんだ。
『エンドゲーム』は第一声の「おしまい」でしびれた。言い切ってから徐々にその糸口を緩めていく。ベケットの意識をたどりながら目の前のどん詰まりの世界を見ているのは最高にクールだった。終末の世界を描いているというが、美術含めて、より収容所が連想されて、可笑しいのに後味はとびきり苦い。そういえばソルジェニーツィン『イワン・デニーソヴィチの一日』は、ソビエト連邦の強制収容所ラーゲリの一日を描いたものだが、主人公のイワン・デニーソヴィチが活き活きと過ごしている姿や、環境のナンセンスさが通じている。
客席の話だけど、開演から30分くらいしてのそのそ入ってきた男女二人組が開演から60分くらいして、のそのそ出ていった。何だったんだ。
演劇を見ること。特に、劇場で演劇を見ることは、観客の反応、笑い声や鼻を啜る音などを聞く、場の空気の変化を感じる、というところが、演劇の良さの重要な要素じゃないか。社会運動として60年代に天井桟敷や状況劇場、早稲田小劇場、黒テントに押しかけた人々、70年代の清水邦夫と蜷川幸雄が作り出した劇場空間。作品に共感すると共に、共感する同士を実際に隣で、近くで、感じられるという言外のコミュニケーションの場でもあった。社会運動と書きはするけれど、結局劇場に集まった人々が何か舞台上で生み出されているものに対して徐々に同心円状の心の集まりとなるということが、社会とつかなくとも運動と言い表していいものになるんじゃないか。そういう作品を生み出していくことが、簡単ではないけど、劇場に足を運ぶ理由になる。みたいなことを考えていたんだと、今、書きながら感じた。劇場にいて、目の前の作品に集中することや、舞台上に自分の心を置いていくその一連こそ”運動”なのではないか。
遊園地再生事業団の上村さんが、ミニマルにだけど、動き続けていてついつい目で追ってしまう。動くこと。本当に大切に動いていくこと。その先の答えを誰が持っているものでもない。間違いを修正しながら進むこと、と勇気づけられる。きっとほかのみんなも動き続けているんだろう。
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ほそかわようへい/演劇カンパニー ほろびて 主宰/劇作、演出/俳優/アニメライター