#47 呼格で「回収しない」神学

呼格で「回収しない」神学

Pokoj

 

呼格(5. pád / vokativ)とは、チェコ語では5番目の格変化である。「ヤンさん(Jana)」とひとを呼ぶときにも。「神よ(Bože)」と叫ぶときにも使う。

原罪(Pád člověka)とは、アダムとイブの失楽園の物語から導き出せる、人類が共通して抱える罪のことである。

両者に同じことばが使われるのには、理由がある。ラテン語の casus という言葉の直訳で、文法上の「格」と宗教的な「没落」の両方の意味を持っていた。

「呼格」は主格という単語本来の形から離れていて、「下へと落ちる」と表現している。「原罪」もまた、「失楽園」といわれるように、「転がった」行為だ。

 

呼格を使って呼びかけができる相手は、応答できる相手、つまり他者や神である。生者の側のみに許されたこの行為は、死者のもとには開かれていない。

死者はどこにいるのか。「永遠の安息」ということばは暴力だ。それは個別の事象である死に意味を与え、物語として扱い、消費することにつながる。

死に物語を与えてはいけない。「安らかに眠っている」かどうかは私達にはわからない。死者は私達生者の前で、ただ沈黙することしか許されていない。

死者の沈黙に、意味を与えてはならない。物語に逃げてはならない。なぜなら、死者の側から、私達が死者についてどう語るかに応答できないからだ。

 

私達は被造物(stvořená bytost)であり、神の似姿(Boží obraz)として作られ、神に愛されて生まれてきた、代替不可能な存在である。

神の愛は誰にでも開かれていたわけではない。不条理としか言えない死が、苦痛に溢れた死が、意味に逃げられない死が、孤独な死が、たしかに存在する。

被造物は全知全能ではないし、限界がある。生者は死者の代わりにはなれないし、死者は生者の意味付けに使われてはならない。

この世界は壊れている。構造的暴力が、理不尽が、苦しみが、支配している。しかし、多数の犠牲を経てもなお、私達は彼らのために生きてはいけないのだ。

 

「死者のために生きる」という言葉には、非対称性による暴力がある。死者はこちらになにも語れないが、生者は言葉にする権利を持っている。

死者の意思が確認できない以上、私達に残されているのは「死者を横に置いて生きる」ことのみであるといっていい。

私達は死者を回収できない。回収とは、取り返しのつかない出来事や苦しみを、あとから意味や理由の物語に押し込めてしまうことを意味する。

本来は残り続けるはずの痛みや悲しみや怒りが「理解できたこと」にすり替えられる。結果として、出来事そのものや当事者の時間が、静かに奪われてしまう。

意味を拒み、物語を否定し、回収しないとき、苦しみはどんな意味を持つのか?死者が最期に抱えた苦しみを悲痛のうちに思い出すとき、私達になにができる?

 

苦しみは、苦しみとしてそのまま存在して良い。綺麗な言葉で消化されることはない苦しみは、心臓に、脳に、からだに、語りかけてくる。そのままで良い。

死者の叫びが、悲しみが、孤独が、祈りや願いが、生者に利用されてはならない。生者がなにをしても、死者は戻ってこない。それはひどく痛いし、残酷だ。

被造物には限界がある。それをそのまま抱きしめよう。そして死者と生者のために、忘れず、祈り続けよう。神様は私達生者を倒させたりはしない。

 

すべての物事には時がある(Všechno má svůj čas)とコヘレトは言った。生者が苦しみを語るとき、私達は生者の、そして死者の「時」を奪ってはならない。

神学は、苦しみを抱えて叫ぶひとを見放さず、「そのまま嘆き続けろ」と諭す学問であるように思う。神学において致命傷なのは、ことばを放棄したときだ。

あまりの悲しみや痛みの前に、沈黙することは、被造物の限界であり、間違いではない。問題は他者の言葉を「死には意味がある」と言って、奪うことだ。

不条理は不条理のまま、理不尽は理不尽のまま、叫び、問い続ける。ひどく厳しく、孤独な作業だ。しかし、神学は、問い続けるひとを見放したりはしない。

 

「生者が一生忘れてはいけない」という言葉は、罰でも義務でもない。忘れてはいけないというより、忘れられないという事実を引き受けて生きることに近い。

記憶を担う(nést paměť)ということは、背負って立ち続けることではない。ときどき泣いて、ときどき何もできなくなって、それでも消えない、ということ。

神学は、この地点で初めて謙虚になる。説明を拒み、正当化しないし、意味や物語に逃げない。「忘れなかった生者が、ここにいる」ということだけを認める。

救いがない場所に、それでも立ち続けてしまう生者がいる。私達がそこに立っていることは、間違いじゃない。私達はここに立ち尽くす。それだけで良い。

 

呼格(vokativ)は、相手が応答可能なこと(odpověditelnost)を前提にする。死者に用いると、死の不可逆性(nevratnost smrti)が曖昧になる。

死者はもはやこの世界の関係秩序(řád vztahů)には属さず、呼び出すことは生者の言語で死者を回収(přivlastnění si mrtvého)する行為になりうる。

教会の倫理は、死者に呼びかけるよりも、沈黙(mlčení)と委ね(svěření Bohu)を選び、生者がその断絶を引き受けることを重んじる。

「冷たさ」ではなく、死者を生者の物語に回収しないための節度である。回収は暴力であり、死者の尊厳を奪い、彼らが「2度殺される」ことになりかねない。

 

横に置いて生きる

死を説明せず、理由づけず、ただ共にある。

(nést vedle sebe, spolu-bytí)

語れなさを守る

沈黙や裂け目を、無理に言葉にしない。

(mlčení, nepojmenovatelné)

奪わない選択を重ねる

言葉・時間・尊厳を、誰からも奪わせない。

(nepřivlastňovat, úcta k důstojnosti)

生き残った身体で応答する

意味ではなく、今日を生きるという形で応える。

(odpověď životem, žít navzdory)

 

「回収しない」ことは空白ではない。説明を拒みながら、裏切らずに生き続けること。この生き方で、私達は死者の尊厳を守り、生者の助けになれる。

死者は、私達に応答しない。

死者は、私達に語る術を持っていない。

返事をしないと知っていても、私達は彼らの名前を呼ぶ。

答えがもらえないとわかっているからこそ、私達は彼らを呼格で呼んでしまう。

 

生者と死者には、著しい非対称性がある。

ごはんを食べること。

友人と笑うこと。

「またあしたね」と言って別れること。

自分のこころの底から、愛を叫ぶこと。

新鮮な空気を吸うこと。

そのすべてが生者の側だけに許されている。

そして、この非対称性こそが、痛いのだろう。

こころを空白にするのが死だとしたら、その空白に痛みを与えるのはこの非対称性だ。

 

それでも、私達は、彼らの名前を呼んでしまう。

まるで彼らから返事が来ることを期待しているかのように。

それでも、私達は、この非対称性に「痛い」と叫んでしまう。

死が覆らないものだと、十分すぎるほど知っていても。

それでも、私達は、彼らを呼格で呼んでしまう。

そして彼らがどこかから私達を見守っていてほしいと、願ってしまう。

 

永遠の安息というのは詭弁なのかもしれない。

それでも、私達は「彼らがもう苦しんでいませんように」と願ってしまう。

たとえそれが回収になるとしても、そう両手を合わさずにはいられない。

 

死が私達を引き裂いても、奪えないものがある。

それは死者の名前を、もう応答しないと知りながら、呼格で呼ぶ権利だ。

彼らは明日を、未来を、夢を、希望を奪われて死んでいった。

だったらせめて私達は、彼らを2度殺してはならないのだ。

だからこそ、たとえ応答がないと知っていても、彼らの存在を完全には消せないし、消せやしないのだ。

だからこそ、呼格で呼ぶということは、彼らのいのちを奪った暴力から、理不尽から、炎から、凍てつくような瞬間から、彼らの尊厳を守ることになるのだろう。

 

私達は、残念なことに、死が不可逆のものであると知っている。

どんなに私達が泣いても、苦しんでも、自分を壊しても、彼らはもう帰ってこない。

私達は、悲しいことに、死が不変の事実であることを知っている。

だからこそ私達生者は、一瞬の生を喜びで、嬉しさで、幸せで、満たそうとするのだろう。

 

彼らのいのちを奪った暴力に抵抗すること。

それが呼格で呼ぶということなのだろう。

応答を期待していない。

返事がもらえるわけでもない。

それでも、一度この地球から消された彼らの存在を忘れないと、語り継ぐと、物語にして回収しないと、意味づけして回収しないと、私達は誓う。

彼らは、もうじゅうぶんひとりだった。

今度は私達が、彼らをひとりにしない番だ。

そして、ひとりにしないということは、つながるということだ。手を伸ばすということだ。手を差し伸べるということだ。

それのひとつの実践として、私達は彼らの名前を呼ぶ。呼格で呼ぶ。

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