西国街道(近畿)その6 高槻~茨木
京都から中国地方を通って太宰府へと向かう西国街道の近畿部分を歩いたレポートの「その6」です。
阪急高槻市駅を下車し、北東500mほどのところにあるJR高槻駅に向かって高槻センター街を歩きました。そのアーケード商店街の出口にある和菓子屋さんへ。井づつ。創業は終戦の年の昭和20年(1945)とのこと。物資も無いそんな時期によく和菓子屋を開業できたものだと思います。「高槻城」という和菓子がありました。高槻城主であったキリシタン大名として有名な高山右近の家紋「七星紋」があしらわれています。高槻の城主として入江氏・和田氏・永井氏などは高槻市民にとってもマイナーな存在なのでしょう。城主としては右近一択です。このお店の代表的な商品「高槻城」は第20回全菓博金賞を受賞したとのこと。この賞の受賞って全国の老舗和菓子屋さんでよく見かけるような気がします。受賞するのは難しい賞なのでしょうか?モンドセレクションにも同じような疑問を抱いてしまいますが。 また「西国街道」っという和菓子もありました。その街道を歩いている私には看過できないネーミングです。珈琲と抹茶の2種類がありました。どちらもその香りは抑えめで上品な味わい。中にはお餅が入っていました。ホームページによると、カステラ生地の凸凹で地道を、白いお餅でその行程を表現しているんだとか。街道歩きの行程をお餅で表現っというのは街道ウォーカーの私にもちょっと意味不明(笑) ですが、美味しいのは間違いのないところでした。

JR高槻駅の北東辺りの町名は芥川町です。この町を東西に通る芥川商店街周辺は西国街道の芥川宿。 かつて宿場町の北側には芥川城がありました。鎌倉期から南北朝期にかけてこの辺りに幅を利かせていた芥川氏の城ですが、戦国期には北方4kmほどの所に築かれた城も「芥川の城」と呼ばれたので古文書に記されているのがどちらの事なのか分かりにくい状態となっています。現在では宿場北の方を芥川城跡と呼んで、山の上にあって後に三好長慶が居城とした城は芥川山城跡と呼ばれています。そしてその山は三好山っという名前になっています。
個人宅に碑があるだけで遺構は何も無い芥川城跡を離れ、芥川を渡って西へ1kmほど進み、女瀬川(にょぜがわ)を300mほど北へと歩くと今城塚古墳が現れます。ここから西に1.5kmほどのところに継体天皇陵があるのですが、実はこの今城塚古墳が継体天皇の陵墓なのでは?っとも考えられています。古墳の名前に「城」っと付いているのは、織田信長が上洛した際に三好勢を攻める為の陣地として、この古墳を城塞化した事に由来します。古墳の周りには築造当時のように埴輪が並べられています。聖域である古墳に邪悪な霊などが入らないようにする為の結界です。コーナーの1つだけ形が違うものは朝顔形埴輪っと呼ぶんだそうです。もちろんレプリカですが、街灯の柱をここから生えさせるのには、教育委員会でかなり議論がなされたのではないかっと思います。


今城塚古代歴史館では本物の埴輪を見ることが出来ます。パッとイメージする丸い頭をした円筒形の人型タイプ以外にも色んな形の埴輪があります。
この日はとっても暑かったこともあって素晴らしい無料施設でした(笑)






街道に戻って西へ進むと巡礼橋っという橋がありました。どうやらコレは2kmほど南西にある総持寺への参拝からのネーミングのようです。 巡礼橋交差点の近くには宮田春日神社が鎮座しています。落ち着いた町の氏神様っという雰囲気で、境内には享保12年(1727)や弘化2年(1845)に寄進された石灯籠がありました。

巡礼橋を渡って街道から外れ、総持寺に参拝しました。ここは西国三十三所観音霊場の第22番札所です。このお寺を開基した藤原山蔭が四条流庖丁道の作法を定めたことから、料理人の参拝も多いんだとか。包丁の流儀とかって四条流しか聞いたことが無いように思いますが、検索してみると様々な流派があるようです。が、全ては四条流から派生したものなんだとか。漫画「鬼滅の刃」の呼吸における「日の呼吸」のようなものですね。


総持寺から東に戻って摂津富田(とんだ)の町を散策しました。 文明7年(1475)蓮如上人は北陸から丹波を経由して富田に入り、翌年に富田道場を開いて教行寺を建てました。明応7年(1498)に蓮如8男の蓮芸が北摂における布教の拠点としたことで、寺院を中心に周囲に堀を巡らして自治を行う寺内町が形成されました。が、天文元年(1532)に一向宗が弾圧されて焼討ちに遭い、天正8年(1580)にも織田信長によって焼き払われました。その後、奈良に退避した教行寺は奈良に落ち着いて箸尾御坊と呼ばれるようになって、富田の旧地に再び建てられた教行寺は奈良の箸尾教行寺の支院となっています。



教行寺の近くにある本照寺は、応永34年(1427)に本願寺第7世の存如が建てた光照寺が前身とのこと。正保3年(1646)に本願寺第13世の良如の弟である円従がこの寺に入り「富田御坊」と呼ばれるようになりました。

普門寺は富田にありますが浄土真宗ではなく臨済宗のお寺です。ここは歴史好きには有名なお寺。永禄11年(1568)足利義栄(よしひで)がこのお寺にて第14代将軍の宣下(せんげ)を受けたのです。 義栄は「堺公方」と称された足利義維の子として阿波国で生まれました。義維パパは足利義晴や細川晴元に敗れた為に阿波に退避していたのでした。第13代将軍足利義輝が三好勢によって弑逆されると、阿波に逼塞していた義栄にマサカの将軍の地位が回ってきました。三好勢に推戴されて海を渡り、京へと向かいましたが、三好三人衆のバックがあっても上洛することは叶わず、勅使として公家の山科言継(ときつぐ)の方から摂津に下向して将軍宣下が行われました。山科言継は細かく日記(言継卿記)を残しているので、この辺りの事情が詳しく伝わっています。将軍宣下を受けた義栄でしたが、三好三人衆が織田信長に敗れた為、遂に京の土を踏むことなく、信長が推戴する足利義昭が15代将軍となったのでした。
方丈が重文に、枯山水の庭が名勝に指定されている普門寺ですが、前日までに予約をしておかないと拝観できないので、この日も門をくぐる事は出来なかったのでした。残念。

普門寺の近くに鎮座する三輪神社は、奈良の三輪明神から御分霊を勧請されたもので、普門寺の鎮守社と伝えられています。酒造りの神様として知られる三輪明神なので、かつて酒造が盛んであった富田の三輪神社も当時は大いに栄えました。

清蓮寺には江戸中期の文人入江若水のお墓があります。この地にあって入江氏っという苗字という事は、かつて高槻の地を領していた入江氏の一族なのでしょう。たぶん。



三輪神社に酒樽が奉納されていた酒蔵を訪ねました。富田には最盛期には24軒もの酒蔵がありましたが、伊丹や灘に酒造りの中心が移ってしまい、幕末には6軒に、今では2軒の酒蔵だけが酒造りを続けています。
清鶴酒造は安政3年(1856)の創業です。ガラッと戸を開けましたが人がいません。呼び鈴を押すと道の向かいから蔵の方が出てこられました。

「國乃長」の醸造元である壽酒造は文政5年(1822)創業。開いていなかったので肩を落としながら建物の左側に回ってみると営業をしていました。それもお酒を購入できるだけではなく「國乃長クラノミ」っという角打ちスタイルの営業もされていました。この酒蔵はビールも醸造しているんだとか。暑かったので「蔵ケルシュ」をクイッと頂きました。




JR摂津富田駅に戻りました。改札の前には高槻市のキャラクター「はにたん」が立っていました。

駅からすぐ近くのラーメン店に入りました。商人ラーメン。アキンドっと読むんだそうです。白とんこつに味玉をトッピングしました。私が入店した時にはお客さんが誰もおらず少し不安になりましたが、アッという間にカウンターは満席に。地元の人気店のようでした。

がっつり寄り道をした後、ようやく巡礼橋に戻って街道を西へと進みました。1kmほど歩くと継体天皇陵があります。正式には太田茶臼山古墳っという名称なんだそうです。全国で21番目に大きな前方後円墳なんだとか。本当に継体天皇が葬られているのかどうかは(実は今城塚古墳がその陵墓なのかどうかは)今のところ不明です。

継体天皇陵かもしれない古墳の南の雲見坂を下る途中には新旧の道標が立っています。この道標の北側には太田神社が鎮座しています。地元の方以外は訪れないと思われる、ひっそりとした神社ですが平安時代のリスト延喜式神名帳に記載されている式内社です。


坂を下ったところには安威川が流れています。この川に沿って少し南へ歩くと「城の前町」という町名になります。その辺りにはかつてお城がありました。っと言っても天守のある高槻城のようなお城があった訳ではありません。 平安時代末期、この地を領した太田太郎頼基という人の城館があったのです。 兄の頼朝に疎まれた源義経が京を脱出して、文治元年(1185)11月3日の早朝にここを通りました。太田頼基は「我が門の前を通しながら、矢ひとつ射かけてあるべきか」っと言い放って義経に攻めかかりましたが敗れてしまいました。っという話が書かれた説明板が頼基さんのお墓だと伝わる墓石の前にありました。



安威川を越えて1kmほど歩くと茨木川が流れています。ちなみに大阪府茨木市はイバラキです。茨城県と同様、イバラギではありません。この茨木川の河原では戦国期に摂津の歴史を大きく動かす(ほぼほぼイコール天下の動きを大きく左右する)大合戦がありました。
織田信長に推戴されて上洛した足利義昭が15代将軍に就任した後、池田勝正は伊丹親興・和田惟政とともに(1国を3人で分担して)摂津3守護に任じられました。しかし勝正は荒木村重に家を乗っ取られ、元亀2年(1571)村重は中川清秀や三好三人衆とともに和田惟政・茨木重朝・郡正信らの義昭・信長陣営と戦いました。白井河原合戦と呼ばれるこの戦いで惟政・重朝・正信は揃って討死してしまい、2年後には惟政の子の和田惟長が、村重と結託した高山飛騨守・右近の親子によって高槻城から追放され、また信長に才覚を見込まれた荒木村重は織田陣営に入って摂津一国を任されることになるのでした。 幕府に任命された守護職が家臣に追放され、その下克上の当人が足利将軍ではなくその後ろ盾の織田信長に認められて摂津国の領有を認められたのです。地方での出来事ならともかく、首都圏における幕府の(将軍の)権威の失墜は、その頃の村重の行動と出世に顕著に見てとることができます。村重は時代の移り変わりの象徴的な人物だと言うことができるのです。


白井河原古戦場跡の近くの街道沿いには「中川清秀由緒地」っと彫られた碑があります。清秀は白井河原合戦にて敵の主将である和田惟政を討ち取る武勲をあげて、後には茨木城主に、そして子孫は大分県で明治維新まで大名として存続したのでした。

古戦場跡から1kmほど進んだところの南側は郡山という町名で、そこにある少年院の場所一帯は郡山城跡です。白井河原で和田惟政・茨木重朝とともに討死した(和田惟政に仕えていた)郡兵太夫正信の居城跡です。

郡山城跡の近くには郡神社が鎮座しています。とっても静かな、落ち着かせていただける神社です。この辺りの産土神で、かつては牛頭天王社と呼ばれていたそうですが、式内社っという訳ではありません。

街道に戻るとそこは郡山宿です。その宿場には本陣の建物が現存しています。京と西宮の中間にあって重要な中継地であったので、享保3年(1718)に火事で焼けてしまった3年後に、西国の諸大名などの寄付によって再建されたんだそうです。諸大名も懐に余裕は無かったはずですが、さすがにこの場所に泊まる所が無いと困ったのでしょう。


郡山宿の「椿の本陣」から北へ歩くと「川端康成先生旧跡」という史跡があります。両親を病気で亡くした川端康成は、3歳からこの地で祖父母とともに暮らしたのでした。この地の旧家であった川端家は大地主であったそうなのですが、康成の祖父が様々の事業に手を出して失敗してしまい、康成が引き取られた頃には、そんなに裕福な家ではなかったんだそうです。

日が暮れました。国道171号線を阪急茨木市駅へと向かう途中、ラーメン店に入りました。てっぺい茨木総本店。高槻でも「てっぺい」を食べましたが、ここのトンコツは絶品です。トロトロのチャーシューも最高! 餃子も食べたくなって、こんなに注文してしまいました(笑)

トンコツを究めるとそこは「てっぺい」でした。
っと川端康成も言ったとか言わんとか。 いや、言わんか(笑)
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