西国街道(近畿)その16 芦屋~青木
京都から中国地方を通って太宰府へと向かう西国街道の近畿部分を歩いたレポートの「その16」です。
芦屋市東端の打出にて海沿いに打ち出でた西国街道は、西宮神社から海沿いに進んできた浜街道と合流して、すぐに再び本街道と浜街道の2本になります。ほぼほぼ本街道は国道2号線、浜街道は43号線ですが、国道の脇に昔の道が残っている部分もあります。
本街道の脇に残る旧道にその名も西国橋っという橋があって、宮川に架かるその橋の袂には白露地蔵尊が祀られています。延享2年(1745)作のお地蔵様。高級住宅地のイメージしかない芦屋に旧街道と江戸時代のお地蔵様が残っているのは、なんだか不思議な感じもします。


お地蔵さんに手を合わせてから西へ進むと茶屋之町。昔この辺りに茶屋があったのでしょう。恐らく。
旧街道が国道2号線に合流する茶屋之町から北へ上がった、JR芦屋駅の北ロータリーのところにはローゲンマイヤーの本店があります。1991年に創業して兵庫・大阪を中心に14店舗ほどを展開されている、無添加にこだわったパン屋さんです。店名はドイツ語で「麦に携わる人」っという意味なんだそうです。 メロンパンとクリームパンを購入。一番人気のクリームパンは他のパンとは違って袋に入れられた状態で並んでいます。クリームたっぷりで底の生地が薄っいので、裸で並べてトングで持ち上げられると底が抜けてしまう危険性が高い為なのでしょう。

国道2号線沿いにも有名なパン屋さんがあります。「ビゴの店」です。芦屋のほか、神戸・西宮・宝塚に10店舗ほどを展開されていますが、東京にも1店舗だけ(東京ドームシティに)出店されています。フランスパンの製法を伝えるために来日したというフィリップ・ビゴさんが1972年に創業したパン屋さん。創業者のフィリップさんは生前よくこのお店におられました。今はフィリップさんの息子さんが社長になられています。

カンパーニュ・フロマージュとクロワッサンを購入。クロワッサンの生地はサックサク、バターたっぷりなので食べると手がベッタベタ(笑) 公園でビゴさんのパンを頂いて(ローゲンマイヤーさんの甘いパンはおやつに取っておいて)しっかりとウェットティッシュで指を拭ってから散策へと向かいました。

芦屋川の西の住宅街の中に津知日吉神社が鎮座しています。本殿の東に(水は無いのですが)弁天様の浮島があって、そこに祀られている小さな厳島神社の脇にかなり古い年代の石祠があります。戦国時代の永正17年(1520)に造られたもの。前回、永正13年に瓦林正頼が西宮に越水城を築いて、サブの城となった芦屋の鷹尾城には家臣の鈴木与次郎が入ったと書きました。この祠が造られた頃、この津知村の辺りは鈴木さんの管理する土地だったのかもしれません。

芦屋川に沿って海の方へ(南へ)歩いて行きます。 前回に掘り返しそうになったヌエさんのお墓の前にある鵺塚橋を渡って芦屋川の西側へ。川の対岸もまだ芦屋市です。 全国的に川が市町村の境になっていることが多いように思うのですが、芦屋市の境界線はそのパターンではありません。東の西宮市から入ってきた時にも夙川を過ぎて少ししてから芦屋市になって、西側も芦屋川が境なのではなく2ブロックほど芦屋市のままで、そこから西が神戸市になります。ちょっと不思議です。
ぎりぎり芦屋市のエリアに虚子記念文学館があります。松山に生まれた高浜虚子は正岡子規に俳句を教わりました。虚子という号も子規が名付けたもの。清という本名が由来です。そのまんま東さんみたいな名付けられ方ですよね(笑) 俳人の高浜虚子のお孫さんの稲畑汀子さん(故人。この方も俳人)のお住まいに隣接して建てられた文学館には、虚子に関する資料や夏目漱石の「吾輩は猫である」の直筆原稿、正岡子規の手紙などが所蔵されています。が、外観を拝見しただけで館内には入りませんでした。正直に言うと、明治~昭和の文豪さんたちの書簡などにはサホドの興味を持っていない私。前回に谷崎潤一郎記念館に入館したのも熟考の末でした。


虚子記念館から西へ向かうとすぐに神戸市東灘区に入ります。 この辺りには大正から昭和初期にかけて、ロシア革命の際に亡命したピアニストや指揮者たちが移り住んで、その方々を慕って門下生が集まり、その交流から朝比奈隆、服部良一、貴志康一、大澤壽人ら多くの日本人音楽家が育ちました。そんなことから「深江文化村」と呼ばれるようになって、ヴォーリズの弟子の吉村清太郎が設計した13軒の洋館が芝生の中庭を取り囲むように建てられたのでした。っということが書かれた説明板が小さな公園の脇に設置されています。
その洋館たちの生き残りが北東角と南西角の対角線に残っていたのですが、最近になって北東のお宅は取り壊されてしまいました。とんがり屋根のカッコいい洋館でしたが、今では無機質な四角い建物になっています。 生き残りが1軒だけになってしまって、相当に古びた看板の表記も「2軒が現存するのみ」にシールが貼られて「1軒が現存するのみ」になっています。

もしも私が大金持ちだったら、あの洋館を買い取って住んだのになぁっと思ったりもします。神戸市にとっても大きな損失だと思います。他人事ですが。 南西角に唯一残る住宅に住まわれている方には、古いだけに不便なこともあるかもしれませんが、なんとかこの建物を維持していただけたらなぁっと思います。全く他人事なのですが。

旧「深江文化村」のすぐ西側に太田酒造の「千代田蔵」と名付けられた工場があります。太田酒造は滋賀県草津市の酒造会社です。
徳川家康が幕府を開く前に江戸の元を作ったのは太田道灌っというのは有名な話ですが(東京に住んでいる又は働いている方々は知っておくべき事だと思いますが)その道灌の6代目の子孫である太田正長が、江戸初期に近江草津の代官になりました。東海道と中山道が分岐する、恐らく当時としては最重要な土地の代官です。太田氏は明治7年(1874)に草津にて酒造業を始めました。で、その酒蔵「太田酒造」が1962年に灘エリアにも工場を建設したのでした。
琵琶湖疏水の蹴上インクラインは明治24年(1891)から昭和23年(1948)まで利用されました。大津に集積された物資を京都へ運び込む為に、疎水の水路の補完として鉄道が敷かれて、それに船がそのまま乗せられて京都まで運ばれ、疎水を通って入京したのです。高瀬川を上り下りした高瀬舟に乗せられて南下し、淀川に出て大阪へと、また更に西国へと運ばれた物資も多かったことでしょう。その輸送路が廃止された事と、酒造りに適した宮水で醸造したいっという気持ちが重なって、太田酒造は滋賀から灘に進出したのかもしれません。


太田酒造の千代田蔵の敷地内には1軒の洋館があります。これは元は紡績会社の社長の別荘として昭和10年(1935)頃に建てられたもの。ヴォーリズ建築だと言われていますが、そのことを示す確かな資料は無いようです。ひょっとすると深江文化村の住宅たちを建てた、ヴォーリズの弟子の吉村清太郎が設計したものなのかもしれません。

東灘区深江浜町の埋め立て地には神戸市中央卸売市場の東市場があります。ビゴの店のパンを食べたのでさほど空腹ではなかったのですが、市場の中にあるラーメン店に向かいました。プリンス亭。創業は昭和44年(1969)とのこと。(上町筋谷町筋その2で書きました)UCCの缶コーヒー、(西国街道その14に書きました)アンリシャルパンティエとともに私の同級生です。それぞれクラスは別だと思いますが。いや校区さえ違うだろうっと思いますが(笑)
実はこの辺りでの仕事の関係もあって、プリンス亭さんにはよくお昼を食べに行くのです。いつものお昼とは違って休日に伺ったこの日は(初めて)ビールも注文しました。白ラーメン、ネギ増しで。卓上に置かれている辛子高菜も美味しい!
独身の頃、よく車でフェリーに乗り込んで九州1人旅をしていた私。もちろん博多や久留米でラーメンもよく食べましたが、初めてこのお店のラーメンを食べた時に「あ、あの頃に食べたラーメンに似てる」っと思ったのでした。かん水?の香りなのでしょうか?よくは分かりませんが。


辛子高菜をつまんでネギと豚骨スープをすくいながら九州の1人旅を述懐します。 昔の長浜はラーメン350円で替玉50円だったよなぁ、博多の博物館で見たアノ金印の小ささには驚いたよなぁ、呼子で食べたのがきっかけでイカのお造りを食べれるようになったよなぁ、壱岐の天手長男神社で御朱印をもらうのにメチャクチャ待たされたよなぁ、久留米で缶ビールを飲みながら走っていて対向車線で飲酒検問があって冷や汗をかいたよなぁ、大分の長岩城跡で巨大なイノシシと鉢合わせしてビビッたよなぁ、鹿児島で入った居酒屋のさつま揚げには感動したよなぁ、別府のホテルの混浴露天風呂に日帰り入浴した時に「さっきまで女子大生のグループが入ってたんですよ~」って女将に言われたよなぁ、阪九フェリーのサバの塩焼は苦いぐらい塩が効いてたよなぁ、所持金も時間も体力もギリギリの状態で武雄温泉から大阪まで夜通し走ったよなぁ、その時に佐賀の交番で「必ず返すので1万円貸してもらえませんか」とお願いしたらアコムを紹介されたよなぁ、
またいつの日かあんな車中泊の旅ができるかなぁ。。。
深江浜の埋め立て地には工場が建ち並んでいますが、その中に剣菱酒造の工場もあります。剣菱は灘五郷の中の(もう少し西の)御影郷の酒蔵ですが、ここにも大きな工場があるのです。
今津郷・西宮郷・魚崎郷・御影郷・西郷の5つで灘五郷と総称されます。この剣菱酒造の工場や太田酒造の千代田蔵も魚崎郷に含まれますが、神戸の人は「深江は魚崎には含まれへんやろ」っと思っていることでしょう。

剣菱の工場から少しだけ山側に歩いたところにある食料品店の店先には大きな「うどん・そば」の自販機が置かれています。コレ、懐かしいっ!中高生の頃、自転車で(野池にブラックバスを)釣りに行った時など、よくこのテの自販機にお世話になりました。ちゃんと店内に人がいて、ゆで麺とか具材をセットしないといけないタイプの半手動の自販機。この食料品店の店内では卵も販売されていて月見うどんへのグレードアップも出来ます。サスガにこの日はラーメンを食べた直後だったので300円を投入することは無かったのですが、またいつか食べてみたいと思います。

山側に移動して国道43号線の北へ。浜街道の旧道沿いには大日霊女神社が鎮座しています。大日霊女でオオヒルメと読みます。もちろん大日如来の大日です。社名が既にかつての神仏習合(神様と仏様をどっちも祀ること)を表しています。
神社の西100mのところに高橋川が流れています。江戸中期、深江の漁師であった喜治郎は不漁続きで困り果てて別の土地に移ろうと思いました。西国浜街道を歩き始めてすぐ、この川に架かる高橋のところで浜の方が賑わっているのに気付きました。にわかに大漁となって漁師たちが騒いでいたのです。そこで移住を考え直して仕事に精を出し、その後は大漁が続いて財をなした喜治郎は正徳2年(1712)に木製だった高橋を立派な石橋に造り替えたのでした。っという説明板とともに喜治郎が造った高橋の基礎石が境内に残されています。
境内の南西角には浜街道の碑があって、そこから北へ向かう道沿いには魚屋道(ととやみち)の碑と説明板があります。かつて深江の浜で上がった魚を担いで有馬温泉方面へと運んだ道です。以前この道を歩いて有馬温泉まで行ったことがあります。今度また歩いてみようと思います。




深江から西へ向かうと青木。阪神の駅の並びもそうなっています。青木はアオキではなくオオギと読みます。青木の地名の由来は青い亀です。 ここから北へと向かって六甲山へ登る途中に、平安時代のリスト延喜式神名帳にも載る式内社の保久良神社が鎮座しています。そこの御祭神の椎根津彦命が青亀(おうぎ)の背中に乗ってこの浜に現れたっという伝承があるのです。
浜街道沿いには延命地蔵尊のお堂があります。古くから「青木の東の地蔵尊」と呼ばれていて、どんな願いでも聞いてくれると言われていたんだそうです。

子供たちがサッカーをしているグラウンドの脇に板碑が並んでいました。大八幡大神、小松原大神、薬堂大神、大松大神、大蔵大神、松髙大神。近隣にあった社や祠の記しが集められたものでしょうか?グラウンドを向いている板碑たちは、まるでサッカーチームの補欠選手のように見えました(笑)

東側に戻ってきました。 阪神深江駅の北西に阪神ソースという会社があります。大企業とは言えない会社だと思いますが、実は現存する日本最古のソース会社なのです。
仙台藩の藩医の家に生まれた安井敬七郎が、東京に出てドイツ人の教授に師事して勉強をしました。神戸で食事をした時「神戸には美味しいお肉があるのに、どうして日本には美味しいソースがないのでしょう」と教授が言った言葉が元になって安井はソース造りを研究して、明治18年(1885)に遂に日本初の国産ソースが誕生したのでした!っという逸話がこの会社のホームページに載っています。

国道2号線沿いに赤い鳥居が立っています。ここから北に鎮座する森稲荷神社参道の鳥居で、昭和2年に建てられたものです。昭和20年の空襲の際には、この赤鳥居が米軍爆撃機からの空爆の目印にされました。戦闘機を製造していた川西航空機甲南製作所(現在の新明和工業)の工場がこの近くにあった為です。

上り坂はシンドイので保久良神社にも森稲荷神社にも参拝せず、ラーメンを食べに行きました。
やまとラーメン香雲堂は元は奈良の天理の彩華ラーメン芦屋店でした。独立後も変わらず美味しい天理ラーメンを頂けるのですが、コレを食べてしまうと翌日まで体からニンニク臭が抜けないので、今回は天理ではなく博多に向かいました。お昼にも食べたのですが。
博多ラーメンげんこつ。豊中市の本店のほか大阪・兵庫で13店舗ほどを展開されているローカルチェーンです。スペシャルラーメンを注文。甘辛く煮込んだチャーシューが刻まれた真ん中の肉味噌が美味しい!それを残さず頂けるように穴の開いたレンゲ(っと呼ぶのでしょうか?)が添えられているのも嬉しい。コーンが入った札幌ラーメンにはコレを添えなければならないっという法律を制定してほしいものです(笑)

今回もなかなか街道を進まずに食べてばかりでした。これから神戸。さらに食べて飲んでっという事になって行くことでしょう。
そして今回も芦屋のbaR伊藤に寄って、夜中の帰宅となったのでした。
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