西国街道(近畿)その14 西宮~芦屋
京都から中国地方を通って太宰府へと向かう西国街道の近畿部分を歩いたレポートの「その14」です。
京都から大阪湾に向かって南西の方角へと進んできた街道が、廣田神社の社前辺りで2本に分かれます。そのまま南西へと進むルートと左に曲がって真っすぐ南へ向かうルート。直進ルートは本街道、南進して海沿いに出る方は浜街道と呼ばれます。この後に一旦は合流してから、すぐ再び内陸側と海岸沿いの2本になります。
参勤交代などに使われたと言われる本街道は、直進とは言いながらも現代ではカクカクと曲がって住宅地を抜ける道で楽しい街道歩きにはならないので、今回は浜街道を歩きました。
国道171号線(イナイチ)の北側から、阪急神戸線・JR東海道本線・国道2号線・阪神本線を越え、国道43号線(ヨンサン)に出る1本手前を(西へ)右折します。ここから西宮神社までの間は、その風情は全く感じられませんが西宮宿のエリアです。

宿場を抜けた街道はそのまま西宮神社の赤門に吸い込まれます。神社が街道沿いに建つのではなくて、街道が神社に突き当たってそこにある門から境内に入って行くのは不思議な感じがします。 赤門こと表大門は豊臣秀頼が慶長9年(1604)に寄進したもので重要文化財に指定されています。

「本えびす」の1月10日の朝6時に、開門と同時に若者たちがダッシュをして、一番先に社殿に走り着いた者がその年の福男になるっという行事で有名な門です。 赤門の左右に連なる土塀も豊臣秀頼の寄進で重文です。この土塀は日本三大練塀の1つです。前回、越水城の西側の土を採取した為にニテコ池が出来たっと、その池は「火垂るの墓」に出てきたアノ池なのだっと書きましたが、その土で造られたのがこの土塀なのです。 ちなみに日本三大の残り2つは、織田信長が造った名古屋の熱田神宮の信長塀と豊臣秀吉が造った京都の三十三間堂の太閤塀です。

では西宮神社の境内に入って行きます。「えべっさん」こと西宮神社は全国に約3500社ある戎・蛭子・恵比須・恵比寿などの神社の総本社です。この神社は元々は前回に参拝した廣田神社の境外摂社、いわば子分でした。その子分が明治7年(1874)に廣田親分から独立したのです。ご利益を卸売りする企業の中で、酒蔵や廻船問屋といった大きな顧客を担当している営業課長が、大口の顧客を抱えたまま独立したみたいな感じでしょうか。廣田親分としては戎社に(その氏子の豪商たちに)去られると大幅な減収となるので争いましたが、その離反を止めることは出来なかったのでした。
西宮神社の境内には多くの摂社・末社があって、その中には「この大国主西神社は式内社です」とか「この南宮神社は廣田神社の摂社です」とかの説明はあるのに、自身が元は廣田神社の摂社であった歴史については由緒書にも全く触れられていません。個人事務所を立ち上げた人気俳優が、かつて所属していた事務所でアイドル的な芸能活動をしていた経歴は語りたくない、みたいな感じなのかもしれません。




西宮神社の境内には大きなガラスケースが設置されていて、全国の酒造会社から奉納された酒樽が並んでいます。その中には個別の銘柄ではなく「日本遺産 伊丹諸白と灘の生一本」と書かれた樽もありました。その11~13で伊丹の酒蔵、清酒発祥の地、今津郷と西宮郷の酒蔵を訪れ、この後に灘五郷の残り3郷も巡ります。それらの日本遺産を表しているものです。

西宮神社の南東角には常夜燈型道標という珍しいものがあります。寛政11年(1799)西宮の商人による寄進。街道を歩いていると多くの常夜燈や道標に出会いますが、こんなミックスを見るのは初めてだと思います。

何度も参拝している西宮神社とはウラハラに、今まで訪れたことのなかったお隣りさんがありました。西宮成田山こと圓満寺。初めて門の中に入ってみました。成田山なので本堂の奥にはもちろんお不動さんがおられますが、国道沿いの大きな看板の割には、特に見所のあるようには思えないお寺さんでした。 いや、そもそも信仰の場である寺社に、文化財や景観を期待するのが間違っているのかもしれません。少し反省。
えべっさんの常夜燈型道標の向かいにある中華料理屋さんに入りました。ひるねさん。西宮では有名なお店です。チャーシューがこのお店のウリ。で、半チャンチャーシューメンセットを注文しました。「西宮名物」を名乗るチャーシューはトロトロなタイプではなく、しっかりとした肉肉しいもの。分厚いのが3枚も乗ったチャーシューメンは食べ応えがあって、小エビが入った半チャーハンも十分な量がありました。もう、満腹です!


浜街道を西へと進みます。2駅しか無い阪急甲陽線と並んで流れていた夙川が北から流れてきています。その川の真上に阪神香櫨園駅があります。 香櫨園というのは明治40年(1907)に大阪商人の香野さんと櫨山さんが造った遊園地の名前で、2人の苗字の1文字ずつを取ったもの。でもその遊園地は大正2年に閉園になりました。っという説明文が駅の壁にはめ込まれていました。僅か5~6年しか存在しなかったのですね。

夙川を越えて少し歩くと芦屋市に入ります。 浜街道沿いに建っているのは親王寺。山号は阿保山です。在原業平のパパ阿保親王(あぼしんのう)がこの地に住み、承和11年(884)その館跡にお寺が建てられて親王の菩提寺となったという伝承があります。
大同5年(810)薬子の変が起こりました。退位した平城天皇の寵愛を受けていた藤原薬子(くすこ)と兄の藤原仲成が平城上皇の復位を画策した事件といわれますが、その事後処理で平城上皇の第一皇子であった阿保親王は太宰府に左遷されたのでした。後に京に戻ることが出来た親王ですが、その子供たちには在原の姓が与えられて皇族から外されることになったのでした。(この措置を臣籍降下といいます)
三十六歌仙の1人に選出されていて「伊勢物語」の主人公のモデルであると言われる在原業平は阿保親王の五男なのです。

毛利氏の本姓は大江氏で、その先祖である大江音人は阿保親王の御落胤だっという説があって、毛利氏は阿保親王の子孫を名乗っています。その為、江戸時代の参勤交代の途中などに毛利の殿様がこのお寺に立ち寄って、様々な寄進をしたんだとか。その名残で境内には毛利の家紋「一文字三星」の瓦などがあります。

館の跡地に建てられた菩提寺っという話ですが、本当にここに阿保親王が住んだかどうかは定かではありません。太宰府へと流された際に、また帰京を許された際に立ち寄って1泊しただけなのかもしれません。 また、ここから山側へ歩いて阪神本線・国道2号線・JRも越えたところに阿保親王塚と呼ばれる古墳もあるのですが、年代としては親王がいた頃よりも500年ほども古い時代の古墳なんだそうです。

薬子の変も最近では違う呼ばれ方をされてきているようです。首謀者は欲張り寵姫の薬子ではないのでは?っと。
クーデターの首謀者、阿保親王の居住伝説、古墳の本当の被葬者、大江音人の実の父親、全て真実は闇の中。間違いないのは、江戸時代に毛利の殿様が立ち寄ったことぐらいでしょうか。。。
阿保親王塚から南へ戻ります。2号線沿いには大楠公戦跡っと彫られた大きな石碑があります。
後醍醐天皇の建武の新政に不満を持った足利尊氏は天皇に反旗を翻しました。楠木正成は、新田義貞や北畠顕家らとともに尊氏を京都から追い出し、さらに建武3年(1336)2月この地で足利勢を撃ち破って九州へと敗走させたのでした。その僅か3ヶ月半の後には九州から舞い戻ってきた足利勢に敗れて討死を遂げるのですが。

大楠公の碑のすぐ南には打出天神社が鎮座しています。打出の小槌の伝説があって、その碑っというかモニュメントのような物があります。クルクル回転するようになっている小槌の真ん中部分を回すと願いが叶うっという仕組みのようです。とりあえずグルグルグルグル!
小槌の伝説はさておき、打出っという地名。これは京都から歩いてきた西国街道が、ようやくこの地で海岸沿いに打ち出でたことに由来します。まだ「えべっさん」こと西宮神社とその社前が栄えて浜街道が整備される前の古い時代の話です。

天神社の向かいにシブい建物があります。芦屋市立図書館の打出分室です。初めは銀行として建てられたものを、後に実業家が買い取って美術品の収蔵庫として利用しました。更に後に市が買い取って図書館にしたもの。 ツタの絡まる重厚な花崗岩の建物には、東洋っぽいデザインの玄関ドアも残されていて国の有形文化財に指定されています。
芦屋で中学生時代を過ごした作家の村上春樹さんも、よくここに通っていたんだそうです。「海辺のカフカ」に出てくる図書館は(いや、ほぼその図書館を中心にストーリーは展開するのですが)ここがモデルになっているのでは?っと「ハルキスト」の間では有名な聖地となっています。村上春樹さん自身はその説を認めてはいないようなのですが。


市の図書館は別に大きなものが出来ていてここは分室となっているので、利用者もそこそこで落ち着いた雰囲気です。 建物の中に入ってみました。「海辺のカフカ」に出てきたような男性か女性か分かりにくい感じの上品な受付係が出迎えてくれて、って事はありません(笑)上品な受付係さんではありましたが。もっとも図書館の受付には、大抵は上品な方が座っておられるように思いますが。 ナチュラルレトロなシブい外観ですが、中は近代的に改装されています。日本庭園に面した和室まであります。予約が入っていなければ、この和室で読書をすることも出来ます。

村上春樹さんは京都で生まれて、西宮・芦屋で育ちました。生粋の関西人です。 関西と関東ではスコップとシャベルって認識が逆なのは有名なハナシですよね。関西では子供が手に持って砂場で遊ぶのはスコップ、作業員が足をかけてグサッと地面を掘るのはシャベルです。村上春樹さんは関西人なので、作中で古井戸を掘り起こしたり、大きな木に立てかけたりするのはシャベル。関東のハルキストは「春樹さんは関西人だから」っと周知しているので大丈夫でしょうが、薦められてタマタマ読んだ関東人は違和感を覚えるのではないでしょうか。まぁどうでもエエことなんですけど。
図書館の隣りには公園があります。「おさる公園」とも呼ばれるこの打出公園には、かつて猿が飼われていたオリがあって村上春樹さんのデビュー作「風の歌を聴け」の中でもこの公園が登場するんだとか。その作品は読んだことがありません。っというか図書館に並んでいるのを見たこともありませんが。いつか読んでみたいと思います。

阪神に乗って打出駅から芦屋駅に移動しました。この駅の北側にも重厚な建物があります。ツタは絡まっていませんが。これは警察署の建物です。昭和2年(1927)に置塩章(おきしおあきら)の設計で建てられた庁舎の玄関部分を残しているんだとか。裏側に回ると(いや表側か)普通の警察署の入口になっています。


芦屋警察署の向かいには、アンリシャルパンティエさんの芦屋本店があります。その9でミスタードーナツさん、その13で上島珈琲店さんを訪れたのに続いての全国チェーンの創業店訪問です。 フィナンシェの販売数世界一で有名な、百貨店にも多く出店しているこの洋菓子店は、昭和44年(1969)にこの場所で喫茶店として創業したのです。


今回も歩き旅の〆はラーメンへ。昼にも食べたのですが(笑) 兵庫県の西宮・芦屋・神戸辺りの2号線沿いは「ラーメン街道」っと呼ばれるほど多くのラーメン店があります。
芦屋ラーメン庵さん。イオリではなくアンっと読みます。昭和62年(1987)の創業ですが、最近になって大将が代わりました。体調の問題とのこと。心配です。 スープは丸鶏と豚骨を弱火で長時間煮込んだものなんだとか。大将が代わってもソコは変わっていません。たぶん。 古潭(コタン)という大阪市を中心に店舗を展開するローカルチェーンがありますが、ここのラーメンを初めて食べた時には「古潭と似てるのかな?ひょっとしたら大将は古潭で修行された方なのかな?」っと思いました。いつか聞いてみようっと思っている間に勇退されてしまったのですが。

阪神芦屋駅の方に戻って、〆の〆に向かいました。baR伊藤さん。実は仕事の関係もあって、芦屋界隈は馴染みの私。このバーもよく伺うお店なのです。 屋外にある階段を上がった2階にあるお店。「一見さん」のお客さんの来店時には「よくこの階段を上がって来ましたねぇ」って思います。

カウンター8席とテーブル席も14席あります。程よい大きさ?なのでしょうか? 芦屋という土地で四半世紀も営業しているっという事だけでも想像できますが、とっても良いお店です。ちゃんとした雰囲気のいいbarですが(私がよく行くくらいなので)決してお高いお店ではありません。
この日もカウンターに座って伊藤さんと楽しくお話をしながら美味しいお酒を頂いて、気分良く家路についたのでした。

フィナンシェを買ったアンリシャルパンティエさんは昭和44年(1969)の創業。実は私と同い年です。 気付けば私も骨髄バンクから「そんな古い骨髄は頂けません」っと言われる年齢になってしまいました。 ドナー登録をしていて「協力してください」という連絡が届いたら?っと常にうっすらと身構えていましたが「今まで登録ありがとう」っというハガキ1枚だけで、その関係性は解消となりました。 って、献血をしても色々と飲んだり食べたりできるのに、もうちょっと何かあってもエエんちゃう?って考えるのはガメツい大阪人だけなのでしょうか(笑)
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