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西国街道(近畿)その25 新開地、兵庫津

 京都から中国地方を通って太宰府へと向かう西国街道の近畿部分を歩いたレポートの「その25」です。

 まずは新開地にて早めのランチ。グリル一平さんへ向かいました。神戸の(やや現在の中心地からは離れてはいながらも)有名洋食店です。
 開店の15分前に到着すると既に12人のウェイティング。私の後ろに更に10人が並んでからお店が開きました。 

シブい看板

 カウンター席に座って注文したのは名物のオムライス。若干の苦みすら覚えるコクのあるデミグラスソース。鼻から抜ける息がスガスガしく感じられます。そして、この玉子の薄さが美しい。こんなに薄く焼いておいてクルッと包むなんてことは、なかなか出来ることではありません。私などケチャップライスとは別に玉子を焼いて「後乗せ」をしてしまうテイタラクです。
 関西ローカルのテレビ番組で知ったのですが、このオムライスを作れることがグリル一平さんの一種の資格試験で、これが作れない為に辞めていった人もいるんだそうです。

キレイにクルッと丸まっています
なかなか出来ないですよね

 有名店の名物を堪能してから、新開地本通を南東へと歩きます。 今ではやや閑散としている新開地ですが、かつては「東の浅草 西の新開地」と称されるほどの娯楽のメッカだった場所。その名残が感じられる小さな映画館や大衆演劇の劇場もあります。

新開地本通のゲート
スクリーンが2つのシネマ神戸
大衆演劇の新開地劇場

 小さな空き地を挟んで建つ2軒のお店でおやつを買いました。
福進堂さんは昭和8年(1933)創業の和菓子屋さんです。瓦せんべいとロールカステラを買いました。瓦せんべいには(西国街道その23で)元町の亀井堂さんで買ったのと同じように菊水紋と楠木正成の焼き印が施されています。
 すぐ横にある大和屋ベーカリーさんも創業80年になる老舗なんだとか。サンライズと白あんフライを購入。サンライズとは(その19の六甲のところでも書きました)いわゆるメロンパンです。白あんフライは神戸のメロンパンの進化形とでも言えるものでしょうか?
 トングで自らピックするスタイルではなくて、ショーケースの向こう側でお店のおばあちゃんが取ってくれます。このおばあちゃんが、とっても可愛らしい。私のお会計に「えーっと、なんぼやったかなぁ」っとゆっくり考えられていて奥から息子さんが合計金額を言ってくれました。 また、別のお客さんが「ベーコンフランス」っと注文されて、トレーに載った2つのベーコンフランスを見せて「どちらにしましょ?」って(笑) とってもほっこりしました。
 どうぞいつまでもお元気で。また来ます。

2軒の老舗

 この5軒隣りに建つホテルに驚きました。1人1泊1100円、テレビ付きなら1550円なんだとか。なんという安さでしょう。今どき大阪の西成でも無いお値段ではないでしょうか。

儲ける気なんてないのでしょう

 
 南東へと歩いて国道2号線も過ぎ、港町線という道路の一角に変わった形のモニュメントがありました。近付いて説明を読んでみると、横溝正史生誕地の碑でした。「八つ墓村」や「犬神家の一族」などの探偵小説で有名な作家さんです。 実際にはもう少し海側の、現在は川崎重工の工場になっている辺りで生まれたんだそうです。 岡山の真備町に横溝正史が疎開していた家っというのがあって「金田一耕助の故郷」っとの看板があったことも思い出しました。

複雑に絡み合った難事件を名探偵が解決するイメージ

 そしてその本当の生誕地が含まれる大きな川崎重工の工場があります。神戸と東京の両本社体制とのことですが、神戸の川崎財閥が由来で、ここ東川崎町に本社工場がある川崎の一致は全くの偶然なんだそうです。

東川崎町にある川崎重工の本社

 川崎重工のすぐ西側の住宅密集地には、小さくて異常に安いホルモン焼やお好み焼のお店が点在していました。
 ダイエー創業の地っというものもある事をGoogleマップさんが教えてくれましたが、特に碑や説明板のようなものはありませんでした。

住宅地にあるレンガ造りの蔵

 そんな住宅地の中に松尾稲荷神社が鎮座しています。手水ではお狐さんの口から水が出ていました。 この神社には日本最古のビリケン像といわれるものがあります。1908年にアメリカの芸術家フローレンス・プレッツによって生み出されて、アメリカだけでなくロシアやドイツや日本でも人気になりました。手が短い彼の代わりに足の裏を撫でてあげるとお礼に願いを叶えてくれるっと言われますが、ここのヒトは服を着ていたので足の裏を触ることは出来ませんでした。

お稲荷さん
口から水が
大正初期の像なんだそうです

 「高田屋嘉兵衛 本店の地」と書かれた碑がありました。淡路島で生まれた嘉兵衛は兵庫津で船乗りになって、後に函館に進出して廻船業で巨額の財を築いたのでした。
 文化8年(1811)国後島でゴローニン事件が勃発しました。ロシアの軍艦ディアナ号の艦長ゴローニンが松前藩によって捕縛されて2年以上も抑留されたのです。翌年に嘉兵衛の船がロシアによって拿捕されて、嘉兵衛と乗組員がカムチャッカへと連行されました。元ディアナ号の副艦長で後にカムチャッカの長官となったリコルドと嘉兵衛の尽力によって、幕府とロシアの間で交渉が行われて、ゴローニンは無事にロシアに帰ることが出来て、事件は解決したのでした。

色々と大変なこともあったでしょう

 ゴローニンはロシアに帰った後、松前藩での捕囚生活や日本人についての様々なことを書き記した「日本幽囚記」という本を出版しました。この本は欧米で広く読まれたんだそうで、黒船のペリー提督も英語版を読み、詩人のハイネもドイツ語版を読んで、日本にもオランダ経由で入ってきて、隠居後の嘉兵衛も故郷淡路島にて日本語版を読んだんだそうです。どんな顔をして嘉兵衛はそれを読んだのでしょうね。
 また、司馬遼太郎の「菜の花の沖」はその日本幽囚記を題材にしたものっというのは有名なエピソードです。

 国道2号線の北側に西出稲荷神社があります。ここの鳥居の脇には高田屋嘉兵衛が奉納した石灯籠があります。

「兵庫津 髙田屋」の文字がクッキリ

 また、この神社には平経俊のお墓もあります。一ノ谷の戦いで従兄の平知盛(清盛四男)に従って戦い、この地にて従弟の清房・清貞と三騎で敵陣に突入して源氏方の名和太郎に討ち取られました。18歳だったんだそうです。若くして亡くなった経俊は、子供の守護神として祀られるようになったんだとか。同じ一ノ谷で討死した弟の敦盛の方が若いんですけどねぇ。 

子供の守護だけでなく海上安全もお願いされてます

 西出稲荷神社の斜め向かには七宮神社が鎮座しています。その22で三宮に、その24で八宮に参拝しました、生田神社の裔神(子分)の7番目です。 現在は生田神社の裔神となっていますが、元々は神功皇后が三韓征伐からの帰国の際に7番目に巡拝したという説もある、とっても歴史のある神社です。平家一門からも兵庫津の鎮守として崇敬され、社殿の前には「兵庫大神宮」との標柱もあります。
 七宮神社の境内にて、福進堂さんの瓦せんべいとロールカステラ、大和屋ベーカリーさんのサンライズと白あんフライのおやつタイムにしました。 菊水紋と違う方の瓦せんべいは「桜井の別れ」の場面でしょうね。西国街道その4で島本町にて時代的にキツい意味合いの石像を見ました。

兵庫大神宮であるぞ
白あんフライ、めっちゃ美味しい!

 七宮神社でまったりした後、再び海側を散策。 南西へと歩くと兵庫城跡の碑があります。この場所の開発の時に出土した石垣が少しだけ積みなおされています。
 謀反を起こした荒木村重を討ち破って、有岡城・尼崎城・花隈城を落とした後、織田信長の近臣で乳母子でもある池田恒興がこの地に領地を与えられて、花隈城には入らずに昔からの交易港である兵庫津に新たに城を築きました。 徳川家康・秀忠が豊臣家を滅亡させると、元和3年(1617)兵庫城跡には尼崎藩の陣屋が設置され、明和6年(1769)に幕府直轄となってからは大坂町奉行所の所属となりました。明治維新の際には慶応4年(1868)兵庫鎮台が設けられ、ここが最初の兵庫県庁になったのでした。

昔はこの碑しかありませんでしたが
発掘調査の写真や説明
野面積みの石垣には転用石も見られます

 運河に架かる橋の上に清盛くんがいました。奈良時代から天然の良港として知られていた大輪田泊に、平清盛は経ヶ島という人工島を建設して大改修工事を行って日宋貿易の拠点とし、後には明との勘合貿易の中心舞台となった兵庫津は、現在の神戸の発展の基礎となったのでした。その功績を讃えるものです。

なんだかニヤけています

 運河沿いは遊歩道が整備されていて、その歴史についての説明板も設置されていました。

兵庫運河の歴史とユリカモメたち

 少し内陸側には清盛塚があります。県の文化財に指定されている石造十三重塔があって、清盛の墳墓の上に北条貞時が建立したものだと昔から言われていたのですが、塚は清盛の墳墓ではなかった事が調査で確認されてしまいました。
 北条貞時が建立したと言われる石塔の隣りには、清盛の銅像と琵琶塚が新しく出来ていました。

弘安9年(1286)の建立です
清盛公っていつも僧形ですよね

 近くに能福寺があります。延暦24年(805)最澄によって開山されたと伝わる能福寺は平家一門から崇敬され、このお寺において清盛は出家したのでした。平清盛の没後には廟所が造営されました。が、平家滅亡後に能福寺は清盛の廟所もろとも破壊されて灰燼に帰してしまいました。 弘安9年(1286)になって平家一門の栄枯盛衰を哀れんだ鎌倉幕府執権の北条貞時が清盛を弔うため(先ほどの)石塔を建てました。 現在の廟所は清盛の八百回忌に際して昭和56年(1981)に再建されたものです。

平相国廟
揚羽蝶の家紋

 能福寺には兵庫大仏があります。明治24年(1891)に造立されましたが戦時中の金属供出の為に解体されてしまいました。 平成3年(1991)になって再建されたこの大仏は、奈良の東大寺・鎌倉の高徳院からも公認された「日本三大仏」の1つなんだそうです。

蓮台と台座を含めると18mもあります

 能福寺の境内には滝善三郎の供養塔もあります。(その22で書きました)神戸事件の際にフランス水兵を負傷させて、切腹となった岡山藩の砲兵隊長さんです。

神戸事件の犠牲者

 このエリアには多くの寺社があります。 真光寺には一遍上人のお墓があります。鎌倉中期に「踊り念仏」を行った時宗の開祖です。自身の所有物を徹底的に失くす方針で「捨て聖」と呼ばれた一遍は、死に際しても所持していた経典などを全て焼き捨て「我が亡骸は野に捨ててけだものなどに施せ」っと言いましたが、サスガに弟子や信者たちもその遺言だけは聞くことが出来ず(命令に背いて)手厚く供養されたのでした。

こんな立派なお墓はいらぬのに

 真光寺の隣りに須佐野公園があって、和田の笠松の碑があります。昔から入江の目印として有名な松があって、鎌倉初期の歌人藤原為家によって「秋風の 吹き来る峯の 村雨に さして宿かる 和田の笠松」と歌われたりしました。 江戸期以降には枯れては植えかえられ、現在も何代目かの松が立っています。

笠松っという感じの枝ぶりではありませんが

 柳原蛭子神社が鎮座している脇の道は兵庫津の柳原惣門跡です。

柳原蛭子神社
兵庫津の西の惣門がありました

 また湊八幡神社の脇には湊口惣門がありました。 池田恒興が兵庫城を築いた時には、城の周りに6ヶ所もの門を設置して、城下町にも何ヶ所も門や番所を設けましたが、江戸期に尼崎藩主となった青山氏は(兵庫城は本格的な城ではなくて陣屋の扱いになったこともあって)柳原惣門・湊口惣門の2つに集約したのでした。

番所付きのしっかりとした門がありました

 湊八幡神社の境内には「迷い子のしるべ建て石」というものがあります。江戸期にはこの石が神社の塀の外に建てられていて、迷い子さがしの方法として利用されていたんだそうです。戦災で破損しましたが、同じ物が造られて並んで建てられています。

迷子になったらあの石に行くんだよ

 岡方惣会所跡の碑がありました。 江戸期に大坂町奉行所の管轄となった兵庫津は岡方・南濱・北濱の3つのエリアに分けられて、それぞれの行政機関として会所が設けられました。その岡方惣会所の跡地です。その地に建つカッコいい建物は、昭和2年(1927)に高橋吉三郎の設計によって建てられた岡方倶楽部です。(紀州街道その1で訪れました)大阪の綿業倶楽部などと同じような社交場です。その建物を活用して、現在は神戸市歴史公文書館となっています。

名主が惣代や年寄などを指図しました
社交場としての再利用は難しかったのでしょうね


 再び運河の端にやって来ました。古代大輪田泊で使われていた石がモニュメントになって残っています。

日本遺産です
夕暮れの運河
ヒドリガモが整列していました

 この後は大阪で飲みに行く予定があったので、この日の〆はラーメンではなく温泉にしました。JRの車窓から見ていて昔から気になっていた温泉銭湯の朝日温泉さんです。昭和16年(1941)創業という老舗ですが、なぜか今まで伺ったことがありませんでした。

源泉かけ流し、サウナもあって最高でした

 歩き回って疲れた足をほぐして、すっかり整ってから夜の街へと向かったのでした。

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