【短編小説】さよならの空に、桜はあまりにも無責任に咲いている【恋愛小説】
プロローグ:欠席届のいらない朝
「ねえ、大和。 恐竜が絶滅したとき、彼らは最後に何を考えていたんだろうね」
葵(あおい)は、誰もいない教室の窓際で、陽に透けるカーテンの裾を指先でいじりながら言った。彼女の着ているセーラー服の白い襟が、春の光を反射して眩しい。
「さあね。案外、『今日の晩飯、シダ植物かよ、最悪だな』なんて、いつも通りの不満を抱えたまま光に包まれたんじゃないかな。恐竜にだって、食べ物の好き嫌いの一つや二つ、あったはずだよ」
僕――大和(やまと)は、自分の席に深く腰掛け、誰もいない教壇を眺めていた。
黒板には、昨日の放課後に誰かが書いた「世界、閉校!」という殴り書きの文字が残っている。
今日は火曜日。本来なら、2時間目の「数学1」で二次関数のグラフと格闘し、先生の単調な声に睡魔を誘われている時間だ。けれど、この広い校舎にいるのは僕と葵の二人だけ。
出席名簿にあるはずの他の38名は、もう来ない。
掃除用具入れに隠れてスマホをいじり倒していた高橋くんも、いつも教科書の隅に精密な戦車の絵を描いていた佐藤くんも。
先生たちも、きっと今頃は家族と「最後の晩餐」の献立を相談しているか、あるいは自暴自棄になって高いワインでも開けているはずだ。
なぜなら、空には巨大な「おまけ」がついているからだ。
窓の外を見上げると、吸い込まれるような青空の真ん中に、不釣り合いなほど巨大な岩の塊が鎮座している。
数ヶ月前から、ニュース番組のキャスターが血眼になって「来るぞ、来るぞ」と騒ぎ立てていた隕石。
最初は高性能の天体望遠鏡でしか見えなかったその「終焉の使者」は、今や肉眼で、しかも月より二回りも大きく、禍々しく見えた。科学者たちがテレビで「人類の賞味期限」を宣告してから、世界は驚くほど静かになった。
最初の1週間は、世界中で暴動や略奪が起きたらしいけれど、それもすぐに飽きられた。結局のところ、あと数日で全員消えてしまうのなら、誰かのバッグを盗んでも、誰かを殴っても、虚しいだけだと気づいたのだろう。
あとの時間は、みんな「大切な人と過ごす」ことを選んだ。実に人間らしい、合理的な諦めだ。
「葵はさ、どうして学校に来たの? 最後の日くらい、家で豪華なものでも食べればよかったのに」
僕は、セーラー服の背中を向けている彼女に尋ねた。彼女のポニーテールが、窓から吹き込む風に揺れる。
「大和が来ると思ったから」
彼女はくるりと振り返り、いたずらっぽく笑った。その笑顔は、世界が数時間後に粉々になるなんて冗談みたいに、いつも通り可愛かった。
「大和こそ。お父さんに『今日くらいは家にいろ』って言われなかった?」
「言われたよ。でも、うちは父さんも母さんも、なんだかんだ仕事熱心だったから。最後は二人きりで過ごしたいってオーラが出てたんだ。僕は、空気を読んで席を外してあげたのさ」
僕は嘘をついた。本当の理由は、ポケットの中で冷たく重なっている「それ」にある。けれど、今はまだそれを教える時じゃない。
二人だけの特別授業
僕たちは、いつも通りのふりをして過ごすことにした。
隕石が落ちてくるのは、今日の夕方らしい。スマホの時計を見れば、分単位のカウントダウンが表示されるけれど、そんな野暮なものは電源を切ってカバンに放り込んだ。
僕たちの時計は、僕たちの会話だけで動いている。
それがこの世界で一番贅沢な時間の使い方だ。
「ねえ、大和。せっかくだから出席を取ってよ。先生がいないと、今日が始まった気がしないもの」
葵が僕の前の席に座り、身を乗り出した。机に置かれた彼女の白い手首が、春の陽気で少し赤らんでいる。
「ええと……、1番、葵さん」
「はい、元気です! 好きな食べ物は、昨日お母さんが作ってくれた焦げたハンバーグです。あ、隠し味に味噌を入れたって言ってたけど、絶対に入れすぎだったと思う」
「それは……、まあ、愛ある家庭の味だね」
「じゃあ、2番、大和」
「はい。好きな食べ物は、葵がいつか作ってくれるはずだった、得体の知れない創作菓子です」
「ひどいな。私、クッキーくらい焼けるよ。……たぶん、レシピ通りにやれば」
僕たちは声をあげて笑った。誰もいない校舎に、僕たちの笑い声だけがピンボールみたいに跳ね返る。
「少し、歩こうか。せっかく最後の制服なんだし。校内探検といこうよ」
葵が立ち上がり、カバンを肩にかけた。僕たちは、まるで夏休み前の登校日みたいな軽い足取りで教室を出た。
まず向かったのは図書室だ。
いつもは小うるさい司書の先生が目を光らせているけれど、今は自由の国。僕は、以前から気になっていたけれど、重すぎて借りるのを躊躇していた10,000ページ近くある「世界歴史大百科」を棚から引き出した。
「見てよこれ、葵。エジプトのピラミッドから、月面着陸まで。人間ってさ、結構頑張って生きてきたんだな」
「本当だね。でも、この最後の1ページには、何て書かれるんだろう。『隕石が来ました。みんな消えました。おしまい』かな?」
「それじゃあ、あまりに文学的じゃないな。伊豆倉伊織(いずくらいおり)の小説みたいに、もっと洒落た伏線回収があればいいんだけど」
葵は、百科事典の隣にあった詩集を手に取り、適当なページを開いた。
「『悲しみは、空から降ってくる雪のように、いつか解けて川になる』……だって。今は雪じゃなくて、大きな岩が降ってくるけどね」
次に僕たちは音楽室へ行った。 ベートーベンやモーツァルトの肖像画が、神妙な顔をして僕たちを見下ろしている。葵はピアノの前に座ると、鍵盤の埃を優しく払った。
「何か弾いてよ、葵」
「無理だよ。私、ピアノなんて習ってないもん。でも、これくらいなら」
葵がたどたどしい指つきで「ねこふんじゃった」を弾き始めた。ところどころ音が外れているけれど、誰もいない音楽室で聞くその音色は、どんなクラシックの名曲よりも僕の胸を締め付けた。
「……ねえ、大和。本当は、文化祭で大和がギター弾くの、楽しみにしてたんだよ」
「ああ、あのバンド計画か。ベースの高橋が、練習よりゲームを優先するから自然消滅しちゃったんだ」
「残念。来世では、ちゃんと練習させてよね」
理科室では、隅っこで埃をかぶっていた骨格模型の標本に「お疲れ様です。一足お先に行きますね」と丁寧に挨拶をした。棚に並んだホルマリン漬けの標本たちは、変わらない無機質な表情で僕たちを見つめ返していた。
「不思議だね、葵。世界が終わるってわかると、あんなに嫌いだった数学の公式も、なんだか愛おしく見えるよ。ほら、このグラフの曲線とか、完璧な美しさだと思わない?」
葵が黒板に残っていたチョークを拾い、大きな円を描いた。
「それはきっと、もう解かなくていいからだよ。テストも、順位も、将来の不安も、全部この円の中に閉じ込めて、もう考えなくていい。だからきれいに見えるの」
「正解かもしれない。葵はたまに、僕よりずっと鋭いよ。数学の先生になればよかったのに」
僕たちは、屋上へと続く階段を登り始めた。
一段、一段、自分たちの人生の残り時間を踏みしめるように。
そこには、僕たちがこの場所を選んだ最大の理由が待っていた。
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