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【短編小説】ゾンビの街のパン屋さん。100円のレシートと、鉄パイプの天使【ヒューマンドラマ小説】 #レシートに

【焼きたての絶望】

レシートに、まさかゾンビが群がる日が来るとは思わなかった。

しかも、手書きで「パン 100円」と書かれた、ただのメモ帳の切れ端だ。

もしも世界が平穏だったなら、税務署の職員が「これは経費として認められませんね」と眉をひそめるような、そんなお粗末な代物である。

けれど、目の前の女性はそれを宝物のように受け取った。

「また来るわ、パン屋さん」

彼女はそう言うと、右手に持った鉄パイプを一閃させた。

鈍い音とともに、店になだれ込んでいたゾンビの頭が、熟れすぎたスイカみたいに弾ける。彼女は鼻歌でも歌い出しそうな軽やかさで、地獄のような外の世界へと消えていった。



僕は、カウンターの奥で呆然と立ち尽くしていた。

手元には、彼女が置いていった100円玉が1枚。

令和の時代にはどこにでもあった、銀色の、ありふれた硬貨。でも、今のこの世界では、ダイヤモンドよりも価値がないはずの、ただの金属の塊だ。




【終わった世界の、終わらないオーブン】

僕の名前は笹倉。29歳。
職業はパン職人。

……だった、と言うべきかもしれない。

世界がこんなふうになったのは、ちょうど1年前のことだ。

「ゾンビウイルス」なんていう、B級映画の中でしかお目にかかれないようなものが、現実に流行してしまった。


政府は機能停止。テレビは砂嵐。インターネットは「お腹が空いた」と「助けて」という叫びで埋め尽くされたあと、静かに息を引き取った。



僕は、都会から少し離れたこの「ほどよい田舎」で、父から継いだ小さなパン屋「SASAKURAベーカリー」を営んでいた。

友人たちは逃げ出し、家族もゾンビに喰われ、いなくなった。


それでも僕はパンを焼くのをやめなかった。

なぜかって?

それは、僕がパンを焼くこと以外に、ゾンビから逃げる方法を知らなかったからだ。 小麦粉をこね、酵母を育て、オーブンの前で生地が膨らむのを眺める。その間だけは、外を徘徊する「元・人間」たちのうめき声を忘れられた。



けれど、ついに限界が来た。
小麦粉の袋の底が見えたのだ。

「これで最後か」
僕は独り言をつぶやいた。


最後だと思ったら、不思議と気合が入った。 残った粉をすべて使い、最高に贅沢なバゲットを5つだけ焼いた。 外はカリッと、中はモチッとしていて、噛めば噛むほど甘みが出る、僕の人生の集大成だ。

香ばしい、幸せな香りが店内に広がる。その香りは、腐敗した街の空気に真っ向から喧嘩を売っているようだった。

看板はボロボロ。窓ガラスは割れ、ガムテープで補強されている。


そんな死にかけの店に、その人はやってきた。



「コンコン」

ドアを叩く音がした。

ゾンビはドアを叩かない。彼らはドアを突き破るか、頭をぶつけ続ける。 礼儀正しくノックをするのは、人間か、あるいはよほど育ちの良い幽霊くらいだ。

「……はい?」

僕は震える声で返事をした。

扉を開けると、そこには30代くらいの女性が立っていた。

泥に汚れたジーンズに、返り血を浴びた白いシャツ。 そして背中には、血まみれの鉄パイプ。 でも、彼女の目は驚くほど澄んでいた。

「いい匂い。パン、売ってくれる?」




【世界一高い100円パン】

「これは大事な食糧なんです。もう材料もない。これが最後なんです」

僕は必死に抵抗した。 この5つのバゲットがあれば、僕はあと数日は生き延びられる。

「それに、お金なんて持っていても、もう意味がないでしょう?」

女性はくすっと笑った。

「意味がないから、払うのよ」

彼女はポケットから財布を取り出した。 中には、もうどこの店でも使えない千円札や小銭が入っている。


「私はね、お客さんになりたいの。略奪者じゃなくてね。あなたは、パンを焼く人でしょ? パンを焼く人は、パンを売らなきゃ、ただの『パンを持ってる人』になっちゃうわよ」

その言葉は、僕の胸にすとんと落ちた。そうだ。僕はパンを持っている人になりたいんじゃない。 パンを売って、誰かを喜ばせる「パン屋」でありたかったんだ。

「……わかりました。1個だけなら」

僕は一番出来の良いバゲットを、茶色の紙袋に入れた。

「おいくらですか?」

彼女が尋ねる。

僕は考えた。この状況で、焼き立てのパンの価値はいくらだろう。 1万円? 10万円? それとも、命そのもの? 気の利いたセリフを言いたかったけれど、僕の口から出たのは、慣れ親しんだこの数字だった。


「100円です」


彼女は満足そうに頷き、100円玉をカウンターに置いた。

「領収書……じゃなくて、レシート、もらえる?」
「え、レシートですか?」

変な人だ。

もうレジは動かない。電気だってとっくに止まっている。僕はレジの下にあった、なんてことはないメモ帳を破り、ボールペンでさらさらと書いた。

『SASAKURAベーカリー パン ¥100』


その時だった。




【狂騒曲は、裏口から】

「パァン!」

乾いた音が響いた。
店の裏側、少し離れた通りで、誰かが銃を撃ったらしい。

外の空気が一変した。

「あうぅぅ……」
「おおぉぉ……」

街中に潜んでいたゾンビたちが、一斉に反応した。

彼らは音のする方へ、つまりこの店の裏側へと向かい始めたのだ。


しかし知性のない彼らにとって、「店の横の路地を通って裏側へ行く」なんて発想はない。音のする方へ一直線に、つまりは、店の中へとなだれ込んできた。


「うわあああ!」

店の中に、ゾンビがなだれ込んでくる。窓の隙間から、腐った手のひらが入り込む。ドアが激しく揺れる。僕は腰が抜けて、カウンターの中に座り込んでしまった。


「笹倉! レシート!」

この状況にもかかわらず、女はレシートを求めた。

「そんなの、もういいでしょう! 逃げてください!」

「ダメよ。証拠がないと、私は明日、お腹が空いた理由もわからなくなっちゃうわ!」

僕は言葉の意味も分からず、半泣きで、手書きのレシートを彼女に突き出した。 彼女はそれをひったくるように受け取ると、パッと顔を輝かせた。

「完璧。ありがとう!」

彼女は右手の鉄パイプを握り直すと、店のドアを蹴り開けた。


「さて、お会計は済ませたし、邪魔者は掃除しなきゃね」

彼女は、まるでダンスを踊るようにゾンビの群れの中へ飛び込んでいった。

「オラ! 100円の価値を邪魔するんじゃないわよ!」


バキッ。ボコッ。
鉄パイプが空を切るたびに、ゾンビがバタバタと倒れていく。


彼女は驚くべき強さだった。 まるで、最初からこうなることを楽しんでいたかのように。



彼女が道を作ってくれたおかげで、ゾンビの波は店の入り口を避けて、裏の方へと流れていった。

彼女は最後に一度だけ振り返り、紙袋を高く掲げた。

「ありがとね!」


僕は、嵐が過ぎ去った後の店内で、ぽつんと取り残された。 目の前には4つのパン。 そして、さっきまでの恐怖が嘘のように、静寂が戻っていた。

僕は、不思議と今の状況が怖くなくなっている自分に気づいた。

まだパンはある。
僕を「パン屋」にしてくれる誰かが、また来るかもしれない。




【彼女がレシートを眺めた理由】

街の反対側。

廃墟となった公園のベンチで、彼女は焼き立てのバゲットを贅沢に頬張っていた。

「んー、おいしい。最高」

彼女は、ボロボロになった1冊の手帳を開いた。


その手帳には、彼女が忘れてはいけない「世界のルール」がびっしりと書き込まれている。


『世界はゾンビであふれている。あいつらは人間じゃない。』

『ゾンビは頭をつぶせ。躊躇するな。』

『私は一日しか記憶が持たない。』

『起きたらまず、この手帳を全部読め。』


彼女は、さっき受け取ったばかりの「SASAKURAベーカリー」のレシートを、その手帳の最新のページに、セロハンテープで丁寧に貼り付けた。

明日、彼女が目覚める時、彼女は自分がどこで何をしていたのか、自分の名前さえも覚えていないだろう。

けれど、手帳を開けば、そこには動かぬ証拠がある。

「100円を払って、最高に美味しいパンを買って食べた私」の記録が。


「また、このパン屋さんに辿り着けるといいな」

彼女は満足そうにレシートを眺め、そっとつぶやいた。

夕闇が迫る中、彼女はバゲットの最後の一片を口に放り込む。

鉄パイプを肩に担ぎ、彼女はまた、地図にない明日へと歩き出した。



カバンの中で、1冊の手帳が、小さな勲章のように揺れていた。




小牧幸助さんの企画に参加させていただきました。
「レシートに」から書き始める作品になっております。

素敵な企画をありがとうございました。



【あとがき】

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。

今回の物語、いかがでしたでしょうか。

わたしはゾンビ映画が大好きなんです。

ゾンビ、という題材が好きで、許されるならばゾンビ作品ばかり書いてもいいくらい。



そんな中で、企画に参加させていただきました。

「レシートに」からはじまる作品を作ろう、という小牧幸助さんの企画です。

私の頭に浮かんだのは、ゾンビの群れの中で必死にレシートを渡そうとする男性。そんな想像からこのお話は生まれました。



明日世界がゾンビだらけになっても。

笹倉がパンを焼き続けたように。
彼女がレシートという「記憶のしおり」を大切に集めたように。

たとえ大きな絶望が目の前にあったとしても、私たちは「今日、美味しいパンを食べた」という小さな幸せを、自分の手で守り抜くことができるのだと信じています。

この物語が、忙しない日常の中で少しだけ息が詰まってしまっているあなたの、小さな「息継ぎの場所」になれたなら、これほど嬉しいことはありません。

1枚の「レシート」が、あなたにとって優しい記憶のしおりになりますように。

この物語が、あなたの心の奥にある静かな場所に、
そっと寄り添えるようなものになりますように。


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