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子どもを責めたいわけじゃないのに、なぜか「反省会」になってしまう—子どもが自分で考え始める「問い」の力

例えば、子どもが試合に負けた帰り道。

親として、先生として、コーチとして、つい言ってしまう。

「なんであそこでパスしなかったの?」
「もっと走れたんじゃない?」
「次はちゃんとやってね」

また、テストが返ってきた日なら、こうかもしれない。

「テストどうだった?」
「何点だった?」
「平均点は?」
「どこを間違えたの?」

もちろん、どの質問にも悪意など微塵もない。

いやむしろ、<子どものため>を思って発している。

正直に言えば、私自身、教員時代も親としても、何度この「反省会」をやってきたかわかりません。しかもリアルタイムでやる時すらあります。

子ども責めたいわけじゃないのに、気づくとプチ反省会になっている・・・

でもこの間Xに流れてきた、サッカー日本代表の久保建英選手を小学5年生の頃から見てきた中西哲生さんの記事を読んで、少し考え込んでしまったんですよね。

詳しい内容のことはぜひ記事を読んでいただきたいのですが特に私がハッと気付かされたのは、問いについて。

久保家で起きていたことは、反省会ではなかった。

そこにあったのは、説教でも答え合わせでもなく、さまざまな問いでした。

久保家の帰り道

記事によると、久保家のご両親は練習をすべて録画し、帰りの車内で本人に繰り返し聞いていたそうです。

「どう感じたか」
「疑問点はどこか」

点数の確認でも、ミスの指摘でもなく、まず本人の内側の感覚を聞く。

そして中西氏は今も、試合直後に映像を切り出して送り、本人がピッチで感じた「内側の感覚」と「外側の映像」をつなぐ翻訳作業をしているといいます。

やってみる。

そして、どう感じたかを言葉にする。

事実と照らす。

ズレを考える。

次を試す。

非常にシンプルなプロセスです。

教育学の言葉で言えば、これはGibbsが唱える有名な「経験を学びに変える振り返り」の型に近いのですが、もちろん、この問いだけで久保選手の力が生まれたとは言えません。

本人の才能も、小さい時から環境、バルセロナでの経験も、膨大な練習量ももちろん、重要な成長ファクターです。

ただ、こうは言えそうです。

問いを浴び続けた子は、やがて大人がいなくても、自分で自分に問えるようになる。

これが今回めちゃくちゃ私が深掘りしたいポイント。

問いの違いは、言葉の違いではない

大事なのは、「魔法の質問」を覚えることではないんです。

同じ「どうだった?」でも、文脈や言い方によっては詰問にもなるし、子どもの感覚を開く問いにもなる。

「何点だった?」が悪いわけでもありません。ピュアに点数の確認も必要でしょう。

ただ、その質問をいきなりド直球で会話の最初に置くと、子どもは「評価される時間が始まった」と感じやすい。

なので、「自分ではどんな手応えだった?」と聞かれると、子どもは一度、自分の内側を見にいくことになる。「自分的にどうよ」って質問ですね。

つまり問いの違いは、言葉の違いというより、子どもにどこに注目してほしいかの違いなのだと思います。

冒頭の試合後の会話をもう一度見てみましょう。
問いの目的はまったく違いますね。

ただ、大人がどの問いを最初に置くかで、子どもが最初に向ける視線が変わる、というわけなんです。

  • 「何点だった?」「勝った?」 =【結果】を見る問い

  • 「どこを間違えた?」 =【ミス】を見る問い

  • 「どう感じた?」 =【感覚】を見る問い

  • 「どうしてそうしたの?」 =【意図】を見る問い

  • 「次はどうする?」 =【未来】を見る問い

どれが正解という話ではありません。

だから問いは、単なる言葉がけではなく、子どもの注意の向け先をデザインする行為なのだと思います。

大人の質問には、必ず意図が出ます。

だからこそ、「何を聞くか」だけでなく、「何のために聞くか」を少しだけ意識した方がいいわけです。(聞いているか、自分よ)

目的別・帰り道の問いかけバリエーション

その上で、目的別のバリエーションをいくつか。

この通りに言う必要はまったくありません!

「問いには種類がある」と知っておくだけで、子どもへの声のかけ方は少し変わります。

感覚を聞きたいとき :本人の中にある手応えを取り出したいとき。

「今日、自分として(or 的に)どうだった?」
「やっているとき、どんな感じだった?」
「うまくいった感覚はあった?」

意図を聞きたいとき: 失敗を責める前に、その子なりの狙いを知りたいとき。

「あの時、どうしてそうしようと思ったの?」
「そのとき、何が見えてた?」
「何を狙っていた?」

選択肢を広げたいとき :ひとつの正解や失敗に固まらず、別の可能性を考えてほしいとき。

「他にどんな手があったと思う?」
「もう一回やるなら、何を変える?」
「別のやり方をするとしたら?」

次につなげたいとき :反省で終わらせず、次の行動に変えたいとき。

「もし次、同じ場面が来たらどうする?」
「今度試してみたいことはある?」
「一個だけ変えるなら何にする?」

ちなみに、聞いても「別に」「普通」で終わる日もあります。というか、むしろそっちの方が多いのではないでしょうか。

でも、それで失敗ではありません。

むしろ、最初はそれくらいで普通なのだと思います。

「別に」と言いながら、子どもの頭の中では一瞬、自分の感覚を探す検索がかかっている。言葉として外に出てこなくても、脳内ではちゃんと「自分への問いかけ」が始まっているんです。

感覚を言葉にする。

これは、そう簡単にできるものではないからこそ、その一瞬の積み重ねが大切。

久保家だって、小学5年生から10年かかってますよね・・・。

余裕がない日の、一拍

もちろん、私たち大人にも余裕がないときがあります。

ぶっちゃけ、私なんて毎朝余裕なく発狂しそうです。

時間がない朝に「早くしなさい」と言ってしまう。これ毎日。

同じ失敗が続くと「だから言ったでしょ」と言いたくなります。

つい「普通、こうするでしょ」と、自分の経験から答えを渡してしまう。

この「フツー、〜でしょ」というマウント発言は呼吸をするように出てしまう。何とかしたいと日々格闘しています。

親も先生もコーチも、聖人でないし、毎日そんなに理想的にはいられない。

ただ、もし少し余裕があるなら、その言葉の前に一拍置いてみたい。

「今、自分はこの子に何をさせたいんだろう」

動かしたいのか。 考えさせたいのか。 正解を教えたいのか。 自分の感覚を見つけてほしいのか。

この一拍があるだけで、出てくる言葉は少し変わってくる、そう考えさせられたんですよね。

大人の最初の一問を変える

なので、難しいことは何一つなく、変えるのは、たったひとつ。

「結果」を聞く前に、「感覚」を聞いてみるようにする。

「テスト何点だった?」の前に、「自分では、どんな手応えだった?」

「試合勝った?」の前に、「今日、一番よかった場面はどこだった?」

それだけで、子どもは少しだけ自分の内側に注意を向けます。

もちろん、毎回うまくいくわけではありません!

だって、人間だもん。

「別に」で終わる日もある。

こちらに余裕がなくて、いつもの反省会になってしまう日もある。

それでも、次の一回でまた問いに戻ればいい。

子どもを変える前に、大人が発する最初の一問を変える。

私も、明日の帰り道で意識してみたいと思います。


参考欄:理屈をちゃんと知りたい人向け

Gibbsのリフレクション・サイクル

https://thoughtsmostlyaboutlearning.wordpress.com/wp-content/uploads/2015/12/learning-by-doing-graham-gibbs.pdf

経験を「記述、感情、評価、分析、結論、行動計画」の6ステップで振り返る鉄板モデルです。今、巷にあふれる看護教育や教員養成でも非常によく使われる考え方です。久保家の実践は、録画、車内での「どう感じた?」、映像との突き合わせ、次のトレーニングへの接続という点で、このリフレクションの流れに近いものがあります。

行為の中の省察

実は、問いの発し方は確かに上記のGibbsのフレームワークに沿っています。しかし、振り返りには、あとから考える省察だけでなく、行為の最中に判断を修正する省察もあります。久保選手の「キャンセル」は、プレーの最中に選択肢を持ち直す熟達者的な思考として読むことができます。

メタ認知のキャリブレーション

https://journals.sagepub.com/doi/abs/10.3102/003465430298487
学習直後の「できた」「わかった」という主観的な判断は、実際の成績とズレることがあります。試合直後の映像フィードバックは、本人の感覚と実際の出来事のズレを補正する装置として機能します。Hattie & Timperley(2007)は、効果的なフィードバックには「どこへ向かうか」「いまどこか」「次にどうするか」が含まれると整理しています。

足場かけと自己調整学習
泣く子も黙るVygotskyの足場かけ、Zimmermanの自己調整学習モデルもお忘れなく。子どもは最初から一人で振り返りのループを回せるわけではありません。大人が問いの形で外側から支え、やがてその問いが子どもの内側に移っていく。「別に」としか返ってこない時期も、その途中にあるのかもしれません。


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