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『Resolve -リゾルブ- 探偵事務所』 Chapter 1|喪失と停滞

【作品紹介】

【キャッチコピー】

「失ったものを数えるな。残されたもので、何ができるかだけを考えろ」 ――横浜・馬車道。過去を焼かれた男が、泥の中から再び歩み出すまでのハードボイルド・サスペンス。

【あらすじ】

アメリカでの爆破テロ。警護対象を守り抜きながらも、最愛の妹のような存在、三枝柚希(さえぐさ・ゆずき)を失った元CIA工作員・東雲豪(しののめ・ごう)。

傷が癒え、日本に戻った彼を待っていたのは、癒えることのない自責の念だった。「自分が死ねばよかったのではないか」――その問いに焼かれ、豪は酒に溺れ、横浜の片隅で自暴自棄な日々を過ごす。

ある雨の夜。公園で意識を失っていた豪を救ったのは、一軒のカフェ『LemonGlow』の店主・成瀬佳乃(なるせ・よしの)だった。彼女が差し出したコーヒーと、店内に漂うレモンの香りが、死んでいた豪の感覚を僅かに呼び覚ます。

そんな豪の元へ、親友であり柚希の兄でもある三枝悠真(さえぐさ・ゆうま)が現れる。「無職を楽しんでいる暇はない。仕事を手伝え」――。半ば強引に誘われたのは、馬車道にある探偵事務所『Resolve(リゾルブ)』。

そこには、悠真が新たに雇ったという、若き女性プロファイラー・橘日葵(たちばな・ひまり)が待っていた。

失った過去を背負ったまま、他人の事件に踏み込んでいく豪。 だが、解決したはずの事件の背後には、かつてアメリカで柚希の命を奪った爆破犯の影が、再び蠢き始めていた。

これは、すべてを失った男が、新たな「相棒」と共に、自身の内なる決着へと向かう再生の物語。

【登場人物紹介】

東雲 豪 (Go Shinonome)

「……俺は、あんたの人生まで背負わない」 38歳。元CIA工作員。爆破事件で柚希を失ったトラウマから酒に溺れていたが、佳乃に救われ、悠真の事務所で探偵として復帰する。基本はハッキングや心理誘導を駆使する冷静な「技術屋」だが、危険が迫るとかつての暴力が覚醒する。実は甘いものに目がない。

三枝 悠真 (Yuma Saegusa)

「吹っ切れてないなら、仕事しろ。いい加減忘れろ」 38歳。『Resolve』所長。元警察庁キャリア。豪の親友であり柚希の兄。 冷静沈着で合理的なフィクサー。自暴自棄になっていた豪を立ち直らせるため、あえて厳しく事務所へ引き入れる。独自のコネクションを持ち、常に豪の先を読みながら事件の裏側をコントロールしている。

橘 日葵 (Himari Tachibana)

「豪さん。私、ただのお飾りじゃありませんから」 26歳。スタンフォード大学卒・心理学博士であるプロファイラー。悠真によって『Resolve』に雇用された。 明るく強引な性格で豪を振り回すが、その観察眼は鋭く、相手の「嘘」や「心理的な死角」を見抜く。豪を尊敬しつつも、彼の孤独に寄り添おうとする。

成瀬 佳乃 (Yoshino Naruse)

「いいんです。けが人からはいただけませんから」 32歳。ケーキカフェ『LemonGlow』店長。 公園で倒れていた豪を介抱し、店へと連れ帰った恩人。彼女の作る「レモンタルト」は、豪の記憶に深く刻まれた思い出の味。実は過去にアメリカで豪に救われたことがあるが、その事実は隠したまま彼を見守っている。

藤堂 亘一 (Koichi Todo)

「……まあ、よかったな。少しはマシな顔になった」 48歳。神奈川県警のベテラン刑事。豪の刑事時代の先輩。 かつて豪を庇って負った傷により、今も右足に後遺症をかかえる。ぶっきらぼうだが義理堅く、現場の情報を『Resolve』に融通する、悠真と豪の良き理解者。

(謎の男:通称”S”)

豪の過去を知り、執拗にその周辺を狙う爆破事件の関与者。

◆エンディング曲『Heart of ice』文末にあります。

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ブルー(対象者)の右後方、三メートル。

警護配置におけるセオリー通りのポジションだ。 退路の確保は容易、射線も切りやすい。

観光客で賑わう午後の通りは、表向きには平和そのものに見えた。

だが、俺の視神経は別の情報を拾っていた。
すれ違う歩行者の歩幅、ポケットの膨らみ、視線の停留時間。
どれも事前の脅威レベルグリーン。エリア・クリア。

俺は無線に指を触れず、警戒レベルをわずかに下げようとした。

その瞬間だった。

通りの向かい、ガラス張りのカフェの扉が開く。
初秋の日差しの中に、客が一人、こぼれ落ちるように出てきた。

世界から音が消えた。

あり得ない。 脳がその情報を拒絶し、プロとしての理性が警鐘を鳴らす。
それでも、視線を引き剥がすことができなかった。

三枝柚希(さえぐさ ゆずき)

数メートルの喧騒を挟んで、彼女が足を止める。 目が合った。
雑踏の中で、そこだけピントが合ったように、彼女の輪郭が焼き付く。
俺の存在に気づいた彼女が、驚いたように目を見開き、そしてふわりと表情を緩めた。

彼女は何かを言いかけ、すぐに俺の「仕事中」の空気を察したのだろう。
口を噤み、代わりに右手の親指と小指を立てて、耳元に当てて見せた。

『あとで電話する』

俺の足が、無意識に一歩前へ出る。 ブルーから目を離すことなど、許されるはずがないのに。

「——東雲(しののめ)! 11時方向!」

イヤーピースが怒号を叩きつけた。
弾かれたように我に返る。視界の隅で、不審な影が動いたのが見えた。

俺は柚希から視線を切り、ブルーの背中へと肉薄する。 だが、遅かった。

音よりも先に、圧倒的な「圧力」が来た。

世界が裏返るような衝撃。 熱波が背中を殴りつけ、俺の体は枯葉のように吹き飛ばされた。 アスファルトに叩きつけられた直後、遅れて鼓膜をつんざく轟音が世界を塗り潰す。

「ぐっ……!」

視界が粉塵と黒い渦で埋め尽くされている。 喉が焼けつくようだ。
俺は霞む視界の中で、這うようにして顔を上げた。

ブルーは。敵は。いや、違う!

「……ゆ、ずき」

俺はカフェがあった場所へと手を伸ばす。 だが、そこにはもう、見慣れた店も、彼女の姿もなかった。 あるのは、半壊した壁と、赤黒い炎。
そして、逃げ惑う人々の悲鳴だけだった。

「ゆっ……」

指先が虚空を掻く。 意識のブレーカーが落ちる寸前、網膜に焼き付いていたのは、最後に彼女が浮かべた微笑みだけだった。

   ***

消毒液と、無機質な電子音。 覚醒した瞬間、俺は自分が病院のベッドにいることを悟った。

まぶたが鉛のように重い。 全身を拘束されたかのような倦怠感と、呼吸をするたびに肺を刺す鈍い痛み。 俺は天井の白い蛍光灯を睨みつけたまま、数秒かけて記憶の断片を繋ぎ合わせた。 爆発。粉塵。そして——。

「っ……!」

反射的に体を起こそうとして、激痛に呻く。 心電図モニターのアラームが激しく鳴り響き、すぐに看護師が駆け込んできた。

「東雲さん! 動かないで!」

「……カフェに……いた、女性は」

喉が張り付き、声は擦り切れたレコードのように掠れていた。
看護師が動きを止める。 その一瞬の躊躇いを、俺は見逃さなかった。
彼女は視線を俺から外し、モニターの数値を確認するふりをした。

「……この病院には、そのような方は搬送されていません」

「他の病院は」

「現在、確認中です。現場は混乱していて……」

嘘ではない。だが、真実でもない。
医療従事者が患者にショックを与えないために使う、典型的な「保留」のトーンだ。

数日後、担当医がベッドサイドに立った時も、答えは同じだった。

「身元不明の負傷者が多数いる」
「DNA鑑定待ちだ」——

そんな言葉で濁されるたび、俺の中で冷たい確信が澱のように積もっていく。

爆心地は、俺たちの後ろに止まった車だった。カフェの斜め前。
プロの俺が吹き飛ばされたのだ。
あの距離にいた彼女が、無事で済むはずがない。

夜、病室の消灯時間が過ぎると、闇が俺を押し潰しに来る。
目を閉じれば、フラッシュバックが始まる。

目が合ったときの驚いた表情。 電話のジェスチャー。
俺に向けられた、屈託のない笑顔。

もし、あの一瞬、俺が彼女に気づかなければ。

もし、俺がもっと早く異常に気づいていれば。

もし、俺があの場にいなければ。

『あとで電話する』

指先の仕草だけが、永遠にループする。
約束された「あとで」は、もう永遠に来ない。

俺は天井を見上げたまま、乾いた唇を噛み締めた。 涙は出なかった。
ただ、喉の奥にこびりついた火薬と埃の匂いだけが、俺の罪を責め立てるように消えてはくれなかった。

俺は、守れなかったのだ。

***

ーーあれから3か月。

俺は過去の居場所、横浜に戻っていた。
カラダの傷だけはすっかり癒えている。

午前二時。 冷蔵庫のモーター音だけが、部屋の沈黙を強調している。

俺はソファに沈み込み、膝上のノートPCを開いたまま硬直していた。 液晶の光が、散らかった床の空き缶を青白く照らす。

画面には『"resignation letter"(辞職の手紙)』。
宛先はラングレー人事局。 本文はない。添付ファイル一つだけだ。

カーソルが「送信」ボタンの上で点滅を繰り返す。
その明滅のリズムが、不整脈のように視神経を逆撫でする。

指を動かす。 その微かな筋肉の収縮だけで、脳裏に記憶がフラッシュバックした。

爆風の熱。
鼓膜を突き破る轟音。

そして、鼻腔にへばりついた焦げたタンパク質の臭い。

「……ッ」

奥歯を噛み締め、呼吸を止める。
これは過去だ。ただの電気信号の再生エラーだ。
俺は息を吐き出し、乱暴にエンターキーを叩いた。

『送信完了』

画面の文字が変わる。
東雲 豪という工作員が、ただのデータ上のゴミになった瞬間だった。

PCを閉じる。 部屋は再び闇に沈んだ。

テーブルにある金属の四角いキーホルダー。それを強く握りしめた。
痛みが、今の俺が生きているという唯一の証拠だった。

***

公園のベンチは、冷え切った鉄の塊だった。

俺は身体を丸め、ウィスキーの空き瓶を足元に転がした。 カラン、と乾いた音が響き、闇に吸い込まれる。

アルコールが脳を麻痺させ、平衡感覚を奪っていく。

立ち上がろうとして、足がもつれた。 アスファルトが目前に迫る。
受け身も取れず、無防備に顔面を打ち付けた。

鈍い音。 遅れて、額に熱い液体が流れる感触。 痛みは遠い。
ただ、地面の冷たさだけが心地よかった。

このまま泥のように眠ってしまえば、もう夢を見ることもない。

「……大丈夫ですか……」

頭上から声が落ちてきた。 場違いに透明な、鈴を転がしたような声。
無視して目を閉じる。

「怪我してる。血が……」

気配が近づく。 誰かの手が、俺の肩に触れた。

「……触るな」

反射的に手を払いのける。
身体は鉛のように重いが、拒絶の意思だけは明確だった。

「放っておいてくれ」

「放っておけません。こんなに血がでてるのに」

彼女は引かなかった。 俺の剣幕に怯むどころか、ハンカチを取り出し、迷わず俺の額に押し当ててくる。

「っ……」

距離が縮まる。 泥と鉄の臭いに混じって、鼻先を微かな香りが掠めた。

レモン。 人工的な香料ではない。
果実を絞った直後のような、鋭く、それでいて甘い香り。

その匂いが、俺の思考を一瞬だけ停止させた。

「近くに私の店があります。止血だけでもさせてください」

「店……」

「すぐそこです。肩、つかまってください」

彼女は俺の返事を待たず、華奢な身体を俺の腕の下に潜り込ませた。 強引に。
だが、その体温と香りが、強張った俺の神経を不思議と弛緩させた。

抵抗する理由を見失い、俺は彼女に体重を預けた。

夜風が、熱を持った頬を撫でていく。

***

カラン、とドアベルが鳴った。

閉店後の店内は薄暗く、ワックスの掛かった木の床と、古いコーヒー豆の匂いがした。

「そこに座っててください」

カウンターの端席。
彼女は俺を座らせると、奥から救急箱を持って戻ってきた。

手際よくガーゼと消毒液を取り出す。

消毒液のボトルには、英語のラベルが貼られていた。
『Antiseptic』 日本のドラッグストアで売られているものではない。
業務用、あるいは海外からの直輸入品だ。

彼女はキャップを開け、ガーゼに浸す。 俺の額に触れようとして、その手が不自然に空中で止まった。

視線が、俺の傷口から、眼そのものへと落ちる。

「……」
「あ、ごめんなさい。少し沁みますよ」

彼女はすぐに視線を逸らし、処置を再開した。 手つきは慣れている。
ためらいのない指先が、傷口の汚れを拭い、止血していく。 俺はされるがままになりながら、店内の棚を眺めた。

古びたコーヒーミル。 壁に飾られた、色褪せたサンタモニカのポストカード。 ここは、どこかの風景に似ている。

「はい、終わりです」

額に絆創膏が貼られる。 彼女はカウンターの中に入り、コーヒーサーバーのスイッチを入れた。 コポコポという音と共に、香ばしい香りが漂い始める。

置かれたマグカップからは、湯気と共に濃厚な甘い匂いが立ち上っていた。

「砂糖、多めにしておきました。頭を打った時は糖分がいいから」

「……ああ」

一口、含む。 舌を焼く熱さ。
その直後に広がる、暴力的なまでの甘さと、バターのコク。
そして、鼻に抜ける爽やかなレモンの酸味。

――『ねえ豪、これ美味しい!』

脳裏で、笑顔が弾けた。 乾いた風。西陽が差し込むカフェのテラス。
誰かの笑顔。

既視感(デジャヴ)。 だが、その映像は焦点が結ばれる前に霧散した。
俺は眉間の皺を深め、残りのコーヒーを喉に流し込んだ。

「……いくらだ」

「いいんです。けが人からはもらえませんから」

彼女は微笑んだ。 営業用の愛想笑いではない。どこか懐かしい、柔らかい笑みだった。

俺は無言で席を立った。 礼を言う言葉すら、今の俺には見つからない。

店を出る。 夜気が、熱くなった身体を冷ましていく。
数歩歩いて、ふと足を止めた。振り返る。

月明かりに照らされた木製の看板。

『LemmonGlow』

視線で文字をなぞる。 口の中には、まだコーヒーの苦さと、微かなレモンの酸味が残っていた。

その味が舌にある間だけ、俺は呼吸の仕方を思い出していた。

俺はコートの襟を立て、再び夜の底へと歩き出した。

—— つづく

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