30代女ひとり、初めてバーへ行った話 in神保町
恥ずかしながら、私は、そこそこ酒に強い女である。
33歳、私がこの人生で少なからず学んだことと言えば、「酒を強いと自称したらあまりいいことはない」ということ。
酒に強い一族に生まれ、19歳の高校卒業祝いでビールを与えた我が母からは「社会に出てもね、酒が強いなんて言わない方がいいよ」ときつく言い含められてきた。
いや、ほんとにそうだね、お母さん。
私は「酒に強い」んじゃない。
「酒を少し飲んでも酔わない人間」なだけなんだ。だって、ハイボール10杯飲んで平然としてられないもん。
20歳の時、お酒激強な年上のお姉さんと一緒に飲んで、私は心に刻んだ。
「お酒に強いなんて、樽一杯飲める人じゃないと言っちゃいけない言葉だわ」
以来、私はお酒と程よい関係を築いてきた。
だけど、だけど! 一つだけどうしてもチャレンジしたいことがある。
バーに行くこと!
33歳になっても、私はバーに行ったことがない。
まず、カクテルの種類を知らない。
そんなお洒落なものを飲むような人生歩いてこなかった。
せいぜい、弟君がなぜかネットで学んで、作るようになってしまったカクテルを飲むぐらいしかしたことがない。
次に、私はコミュ障。
一対一でしゃべるなんてもってのほか。座席数の少ない店になんて行ってごらんなさい。
緊張と恐怖で悪酔いするのが目の前に見えるじゃないの。
口酸っぱい心の中のおばさんがいう……。
何より何より、一人で見知らぬバーに入るなんて、恥ずかしいじゃないの!
素敵なお姉さまだったらばいいかもしれない。
だがお前、自分を真正面から見てみろよ。
お洒落なんて気にしない服のずぼらさ。へとへとで普段から化粧っ気もない(というか真面目に化粧をしていない)顔。
そんな奴が、お洒落の殿堂に君臨するバーという世界に一人で行く?
正気の沙汰じゃあないね!(なんでこんなに言動が古いんだろうこのおばさん)
しかし、心の中の子供が駄々をこねる……。
やだやだ! 一回でいいから、おしゃれなバーに行ってみたい!
実は私、先輩にバーを自慢されていた過去がある。
「俺の隠れ家だからな、絶対教えてやんねぇよ」
……な、なんて心の狭い先輩だ。そういう時は後輩を連れまわすぐらいの度量はないのか。
いやしかし、この先輩、普段はよく飲み会で一緒になるし、挙句の果てには隙あらば奢ってくれてしまう気の良い先輩なのである。
この先輩がそこまで言うということは、本当に心休まる隠れ家として素敵なバーがあるのだろう……。
そう思うと、心休まる場所が家以外にあること、それがとても素敵なことで、それを持っている先輩が心底羨ましくなった。
以来、おしゃれなカクテルを紹介する動画で学んだ。バーに行くときは気軽でいいと、(私より年下のくせに)場の先達となる弟も言っていた……。
何より。
私の大好きな神保町には、バーがある!
心の中での戦争は一晩ほど続いた。
だが翌日、私は神保町の駅前に仁王立ちしていた。
時間は夕方。
神保町で大好きな、スマトラカレー共栄堂でスパイシーなカレーを食し、お腹の準備は万全だ。
(要注意事項:空腹でアルコールは絶対いけません。酔います)
いざ、『洋酒 街路』へ!
暗さが増してきた道。完全な冬ではないが、肌寒さでコートの裾をぎゅっと寄せる空気の中、その店の窓からは、ほんわりとオレンジ色の明かりが漏れている。
店の前に立つだけで、心拍数が上がる。
「本当に、私がこの店に入っていいのか……? 場違いじゃない?」
ちょっとだけ、足がプルプルした。
それでもドアを開く。
たぶん開店したばかりであろう店内は小さく、カウンターの後ろにはずらりとお酒の瓶が並んでいた。
そんな素敵な光景を背景にして、女性のバーテンダーさんと、さらにその奥にいる年配のマスターが、にこりと優しく微笑んだ。
「いらっしゃいませ」
気の弱い奴だと思ってもらって構わない。
ここまできて、私の心はとうとう完全に震えあがっていた。もう戻れないのだ。私はこれから、あのカウンターの椅子に座らなきゃいけないのだ。
この時、私は笑っているのか、むすっとしているのかわからない顔をしていただろう。
「コートはそちらにどうぞ」
店の扉の横には小さなコート掛けがあり、そこにダッフルコートをかける。
椅子に座った。カウンター席なんてほとんど座ることがないから、ちょっとつんのめった。
カウンターの上には、もちろん何もない。私が注文するまでは。
メニューだってない。当たり前である。
ただ、店の前には「今日のおすすめ」という看板があり、そこに季節にふさわしいドリンクが名を連ねていた。
私は動画の中で見た謎知識を引っ張り出す……。
「サイドカーをください」
なぜサイドカー。それもこれもすべて動画のせいだ。「これを頼んだら、おっ、こいつわかると思われますよ」とか言っていたせいだ。
にこり、と、女性が微笑む。
「わかりました」
この時のことは、本当に緊張していたらしくてよく覚えていない。ただ、本当に手早くドリンクはシェイクされ、おしゃれなコースターが引かれ、背の高いカクテルグラスになみなみに綺麗な泡を内包したサイドカーが注がれた。
サイドカーとは、一般的にブランデーベース、ホワイトキュラソーとレモン果汁を使用した爽やかな味わいをしたショートカクテルである。
基本的には食後酒とされており―――度数は高い。
口に含んだ瞬間、爽やかなレモンと、甘みを感じるブランデーが歌い合うように広がった。
あぁ、おいしいなぁ。
弟が家で作ってくれるドリンクもおいしい。けれど、やはりプロのドリンクは、口の中に残るお酒の軽やかさや、まろみが違う。
どうせなら、家で一度飲んだことのあるドリンクを飲んでみたかったのだ。
私は時間の使い方なんてわからないし、会話の仕方もわからない。
しばらくは無言で飲んでいる。心の緊張を、この一杯がほぐしてくれるといいのだけれど。
だが、ゆっくりと、いつのまにかカウンター越しの二人と話をしている私がいた。
だって、ここは神保町。古本が集まり、知識が集まる昔ながらの街。
学生街だからこそあるスポーツ用品店の話。
最近は中華がおいしい話。
山の上ホテルの話。
これから残っていってほしい物の話。
小さくふわふわとしたボールのように、ぽんぽんと弾むように話が盛り上がる。
アルコールがもたらす優しい酩酊感と、会話の上手なマスターと、にこにことしながら、私が会話の最中に追加したカクテルを作ってくれるバーテンダーさん。
静かな店内。音楽は会話だけ。
食べ物はちょっとしたドライフルーツを注文し、神保町に詳しいマスターの話に頷いていた私は、すでに3杯目のグラスを傾けていた。
途中、私以外の人が店に入ってきて、バーテンダーさんはそちらの注文を取りに行った。
その人も、女の人だった。
彼女はスツールに腰を下ろすと、鞄から一冊の文庫本を取り出した。
あまり見すぎるのも失礼だ。すっごく気になったけれど、本の表紙を見ないようにする。
本好きというのは面倒な生き物で、電車などで本を開いている人がいたら、その題名を気にしてしまう。
へぇ、ほう、それを読んでいらっしゃるんですね。なんてセンスがいいんでしょう。
だけどここは電車ではない。そして私は繰り返すがコミュ障である。ここまで会話が盛り上がっていて信じられないだろうが、コミュ障である。
その人は、一杯のお酒を注文した。
目はすでに文庫本にあり、彼女は私と違って、店の人と会話をすることなく、本の世界へと吸い込まれていった。
私は、最後にウイスキーを一杯(銘柄は忘れたがアイリッシュウイスキーだったと思う。なぜなら、村上春樹さんの本を私が家で読んでいたためだ)。
マスターは、その瓶についても詳しい話をしてくれた。
だけど4杯目ともなると、さすがに私の意識は、ほわほわと気持ちよく酔っ払っていたので、その話はもう記憶にない。
本当は胡椒や柚子を使ったウォッカとか、そういうのもストレートで飲んでみたかったのだけれど、普通に限界。
悲惨なことになる前、この一番気持ちよく酔えているタイミングで会計をする。
……値段? 聞かないでほしい。勉強料だよ。
店から出る。肌寒かった秋の空気は、闇夜に支配されて、完全に冬の空気に変わっている。
でも、店の人との会話で得た充足感や、すべてがおいしいお酒のおかげで得た酔いは、そんなささやかな冷えでは拭えなかった。
あぁ! 幸せ!
最初はあんなに緊張していたのに、幸せゲージMaxになっている私は、なんてちょろいんだろう。
確かに最初こそ会話もぎぐしゃぐしていたけれど、私の得意技はお酒を飲んで少し調子に乗ることだ。
相手は人当たりに対してのプロである。そういうお客にも優しく接してくれて、大変、気分が良くなった。
気持ちのいい会話と、格別においしいお酒。
何より、深く沈んでも、まだまだ懐の深い神保町の夜。
これが味わえたなら、緊張した甲斐もあったというものである。
最初は、女一人でバーに行くなんて恥ずかしいと思っていた。
けれど今は違う。
私にとってのバーは、非日常にゆったりと入る場になった。
そこには年齢も性別も関係なく、お酒に強いとか弱いとかも関係なく、ただ「幸せ」を味わうためだけにある。
それに加え、神保町の古本の香りをかぎながら、夕暮れ時のみんなが家に帰る時間、自分だけの隠れ家を見つけるために探検することは、きっといくつになってもやめられない冒険になるだろう。
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