”そこ”でないことも大切
これを先に上げたいと思う。
なぜ、わざわざこんな前置きをするかというと、日曜に下書きした「13日用」の記事が、どんどん置き去りになっていく様子を見ているから。
それはとにかく、”優先順位が低い”ということがまず言えて、それよりも先に上げたいと”思う”ものが来てしまうから冒頭の前置きが付いている―――、無自覚で”順序通りに上げていきたい”という「思い」があり、だけど実際に動き出すと、もっとそれより生きた”思い”があることが判る。
「」の思いは記憶、””の思いは今の衝動(的)な様子。そもそもこのこと自体をその記事で触れているのだけども、私の中で「今」にフォーカスする状態があることで、どんどんそれは流されて行っている…、その様子をこうして後のものが先に上がることを日々観ることで感じている。
”過去”が優先されることは、何もなければ「通常はない」ということだ。そうだ、当然「今」が一番新しいのだから。
認識、見て覚える
”部分”という本当に部分というパート
その全体の一部を覚えるということがよーーく分かった。
T‐ARAの動画を本当に結構見ている(流している)。一日の中のそれでなく、少し前に書いた、「言葉も意味もまったく分からない動画(音楽)」としたのがいわゆる”K-POP”といわれる音楽だった。今は殆ど騒がれない10年以上も前のものばかりだけども、かわいくて見ていてダンスも楽しくて気を引きつけられる―――
え?よせばいいのに?
良いのよ、頭の中では”そこ”の動きは完璧に出来てるんだからん♬ 洗面に行った時にやってみたことがある…、え?”よせばいいのに~♬”じゃないのよ、ハッピー&ブルーじゃないんだから…
その”そこ”が異様に気に入っていて、色々聞く(見る)中で”そこ”をやったところを鏡は私に見せてくれたんだけど、、まぁ笑えるよね。その全く全体に連携していない”そこ”だけの動作に「これじゃ、しなやかになるわけがない」と、内心で大笑いしてしまった。
(夢に出るから、私のダンスは想像しないで、視界を広げていこう)
「”何か”をしよう」という何かの部分に気(意識)は当然行ってしまい、”そこ”しか動いていないことがよーーく分かった…、他(全体)が全く動いていない”不自然である”こと。
それは当然のことで、「覚えた」という意識を向けたところは「そこ」だけでしかなく、全体との連続性は断たれた、”その部分だけ”の切り取りだから。狭い範囲では「その通り」に完璧であり”正解”であるけども、ひとたび全体と合わせて見た時、まったくそれは連なりを持たない(繋がれていない)部分のそれだということが判った。私の殆どの部分である身体は不動で、動いているのは気に入ったそれだけだったから。
人は意識を向けたものがまず捕らえられ、それを習得する。そこをどれだけ繰り返しても、”完璧”しか見えない。散々くり返したら必ずその周辺部分と繋げてみることが必要―――すると、部分の修正は自ずと生まれることが判る。部分はそれだけでは範囲を留め、全体と連携させることでその動きの精度は上がる。
繋がりを以って部分は活きる。
「動いてみる」というのは、”全体”を知る機会だと鏡は映しだした。
・・・
メモからだったのだけども、鏡はそのことを本当にそのまま映してくれたと思った。いや、私のそれは”部分”さえ完璧になっていなくて笑えるのだけども、何度か鏡の前でその姿を見ていると、まったく”全体”と連携していないことを感じた。感じたも何も他の部分は動いていないんだもの、未接続の”部分”がしなやかに動かせるわけないじゃん、と笑えた。
この事から、まぁどちらからにしても接続・連携という形で繋げなければダメなんだと感じた。メモ内容にあったように、人は何か気になった部分、「そこ」という狭いところに焦点が合ってしまうので、その事に気を引き付けられ、そしてその中に入ってしまい、”部分を直接どうこう”しようとするのだけども、「いや…、違うかもな」ということはよく体験してきた。
この事は、例えば「一旦意識に上げたものを無意識に戻す」ということもそうだし、昨年から今年の春ころまで、更年期症状や腰などに痛みがあり、その”部分”に散々引き付けられた時なども、「そもそもホルモンバランス・自律神経状態」という具体から離れた元の方へ一旦意識を置く(向けて見る)ということと同様に見ている。
これは現在でも同じことが拾えていて、少し前に書いているけども、久々に腰や背中・肩などを「気にする」状態があり、少しゆっくり目に動いている状態が10日程続いていて、結構長いな…と感じていた。だけどその中でも、何とも言いようが難しい、以前のように完全に引っ込んではいなくて、辛うじて何かがそこにあるから”大丈夫だなぁ”というものが拾える状態でもあって。痛みはそんなに強くはないのだけど、日々あちこちが軽く痛い=気にするような状態の中にあった。
寝返り時や、以前腰をおかしくした姿勢などには特に注意を払い続けたのだけども、昨朝は何となく「ん?」という感触にあった。
いつものようにベッドの上での軽い運動に始まり、起きた時(動かしだした時)の感触がきっと”軽い”と感じられた―――、実際に昨日は10日ほどこれまで感じ続けていたそれはやっと殆どなくなった。
数日前に腰に注意を払っているために”そこ”に注目していたところ、腰に気を引かれる時には肚の方に意識を向け直すようにした。その部分をどうこうしようとしている状態ではなく、他へ意識を移すこと。
部分に拘らなければいけないこともあるけども、そこから離れなければ解消されないことがあることは、色んなシチュエ―ションで言えると思っている。身体の「痛み」というのは、やはり肉体直接ばかりでなく、神経の働きがあることをまた確かめられた。
大元や反対側など、別のところに意識を向けることで”部分”が弱まる。普段は問題なくても、別部分との連携によってしなやかに部分が活きることを感じた。
(念の為、私のできないのに笑顔で楽しそうに踊る姿は、間違っても寝る前に想像しないように―――。きっといい夢を見てしまうだろうから)
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