「私」は行ったり来たりする
(書かれた)言葉って、ある意味全てだから、特に書かれているものは”ソレ”と限定、特定しやすい、そう受け取りやすい
そこに想像(力)という見方が入らなければ、空間の広がりは見えない
考えてる時って、”自分のアタマ”だから、カタチの中でのアレ・コレ。そこから離れた時、「何もそれについて考えていない時」に、ポンと出てくるカタチの外からの押し出し。
他者の、自分にはない思考を見るのと同様に、自分の頭の中でも自分のアタマの”カタチの外”で結ばれたものを観てみる。
とんでもない内容も、ある可能性はあるけども、吟味する価値も隠れている。長年のアタマの中のカタチの”外”の案は、本当に間違いかデタラメか?この自分のアタマのカタチ内しか見えなければ星形はいつも四角かもしれない。
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「内側と外側で創る”自分”」
シンクロを考える時、カタチというものが浮かんでくるのだけど、自分のカタチ、それ以外の外側を目にして、その一致に驚くシンクロ。その時「我」という枠を忘れ、”私”というカタチがある事を忘れ、外のコトと一体となってしまう。
その状態を後で”私”が認識する―――”私”が遠くに離された、我を忘れたその状態をあとで私が区別する。
・・・
ふたつともメモからだけども。どこかで聞いたような言葉が多々メモの中にあるような”シンクロ”でもあると感じるのだけど(笑)
シンクロと表現できる状態は、一つじゃないので本当に様々想定できるのだけど。この”幾つも想定できる”ということ自体がある意味「あいまい」または範囲が広い事を示しているようにも感じる。
だから説明は、ある一つの見方に関してだけども逆からの言い方をすると、『「全てが合っている」状態があって、「ズラしているのが思考側」』と思うところがある。
”私”という存在に思考された、それに合わされた目線が”通常”となっている事により外と内、外の世界と私の中という所に見えない境を作りーーー、というより、”私”のメモリが刻まれれば刻まれるほど、自分の時間は明確になるのだけど、それだけ外の世界とにズレが生じる、この「差」の存在によって「境がある」と感じると言ってもいい。
何かとの境界、区分け線引きなど、何かを分けるという事の殆どは意識上の話であって、物理的にそうなっている訳ではない。そういう意味でそこに無意識で存在する「ズレ」があることで”境”があるとなる。
外にはすべてがあって、そのどれともいつも一体となっていれば、私という存在もない。必ず一致から少しでもズレた状態を観て「一致(に近い)」という感覚を持つ。
言葉は限定した意味を持っているけども、それを現わす現実は決してそうではない。一致の意味を現せる本当の状態は、必ずズレと共に一致を見ている。
・・・
メモ直接とは関係ないシンクロに寄せて先に書いてしまったので、内容に少し降りてみる。
”外がコトと一体となってしまう”と書いているのだけど、”私”がゆるい状態で何かが不意に入ってくる、という、だからポワンとしている時に「あぁそうか…」と受け取りやすく。
これは以前にも何度か書いた、探しに行くような状態、それに関して思考が働くような状態は、”私のカタチ”から抜けていなくて、このカタチの外という私が解けている、ゆるい状態だから見えてくる・掴める状態があり。その状態はシンクロでも同じこと。
意識的に結ぶシンクロもあるけども、それはここでは話していなくて”偶然”という見方に近づけているシンクロ。偶然というのは言い換えれば、私のメモリでない、だけどその(外の)世界に起こる事との結びつきを見るから驚き、偶然たまたまという表現になるものと思う。
”調和”からズレたリズムを持っているのが人であるし、更に各々のリズムを自己内に記録、刻み続けているからバラバラの尺度、テンポになるね。
”コトと一体”とメモしているけども、内容的には、コトの具体的なことではなく、”その中に入ってしまう”事によって”私”が消えてそのコトを明確に区別することなく一体と化す、という様なところ。完全にコトが一致することは少ないと思う。
要は、何か普段はしっかりと区別している状態が、されていない事により、私に付いているより、コトに近い状態があり、だから”私”が遠いという様に表現している。
不思議な状態のようで、人は結構頻繁に、この様な意識状態であちこちをフラフラしている存在だと思う。いつも必ずこの”私”に居るとは限らない。
話している時は、随時付け加えたりして簡単に補足などできるから、自然に詳細に近づけ続けることが可能な表現だと思うけども。
書かれたものは詳細に説明するために並べられた言葉により、「その事」に強くフォーカスさせる表現だと思う。
先日のラジオで話している時にふとそんな事を思って、メモしていた冒頭の文言なのだけど、言葉を使って表現するということは、どうしても言葉の世界にハマりやすいと感じている。
だから何、という事でもないのだけど、だからその表現に幅、ゆるさを持たせて書き連ねることを技術として行っている人たちがいる…、読み手がそこにハマってしまわないように、読み取りに遊びがあることで本人の”裁量”が持てるように。
そういう表現の仕方によって生まれる”シンクロ”も大いにある。
結局は、固有のカタチを通してでなく、その外側に行けば色んな事がシンクロであり続けるような環境がたくさんある、という事だと思う。
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