燈のあるほうへ|見ようとしなければ見えない世界
私は、見たいものを見たいように見ている。
最初にどこへ焦点を合わせるか。
そのチューニングだけで、見える景色は変わる。
次男が支援学校のバスで
登校するようになって
もう少しで一年。
予定どおり来る日もあれば
大きく遅れる日もある。
雨の日も、暑い夏の日も
毎朝見送ってきた。
バスが到着して子どもたちが乗り込み、
シートベルトを着けるまでの数分間。
スモークがかった窓の奥で、
誰かが手を振っている影が見えていた。
外からははっきり見えない。
「いろんな子がいるし、誰かが振っているんだろう」
そのくらいの認識で受け取っていたんです。
幼稚園時代に親子プールで一緒だったSくん。
彼も知的障害があって、いまは同じ学校に通っています。
私は春ごろ、すぐに気づいたけれど、
彼は分かっていないだろうと思っていました。
ある日、学校でクラスの様子を見ているとき、
Sくんが声をかけてくれたんです。
しかも、私が誰の母親かも分かったうえで。
覚えていてくれたんだ――
胸の奥が、ふわっとゆるんだのを覚えています。
そして今年に入ってから
ある日の朝、いつものようにバスが来ました。
太陽の角度のせいか、
その日は車内がくっきり見る事が出来ました。
そこで初めて気づいたんです。
入学した頃から、ずっと手を振ってくれていたのは、
Sくんだったことを。
それに応えるように私が手を振ると
「やっと分かったのか」という感じで
振る手を休めたんです。
ずっと前から私に気づいていたのに
私は見えていなかった。
いや、見えていたけど
見ようとしていなかった。
苦しんだり、もどかしさを抱えたり、
忙しさに追われていると、
人は自分の感情に揺さぶられて、
見えているはずのものまで見えなくする。
意識が現実化するって
こういうことなのかもと思った。
見ようとしなければ、
感じようとしなければ、
起きている現象ですら通り過ぎていく。
そして勝手に記憶を操作して
覚えていたい事だけを覚えている。
現象そのものに意味はなく
その現象を通して自分がどう感じているか。
そこに焦点を向けることが大切だと聞くけれど、
私は無意識に、
何でも自分基準で意味づけしていた事に
気づかされた。
そう思うと、世界の見え方が変わる。
私は、見たいものを見たいように見ている。
最初の一手を、どこへ向けるのか?
心地よさへチューニングするだけで、
景色は変わる。
分かるわけがない
そういう思い込みも全部
私と私の間にある感情が
オートマチックに映し出しているだけ。
分かっていないと思っているのは私で、
世界のほうは、ずっと前から分かっている。
今までも、これからも。
自分と自分のあいだに
余計な感情を持たない人たちがいる。
その灯りに、また少し照らされた。
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