ダッハウ強制収容所で言葉を失った日|1990年ひとり旅、そして35年後
※1990年に大学生だった私がひとり旅した時のお話です(第20話)。
【ご注意ください】本記事には、1990年当時のダッハウ強制収容所の展示を(記憶を頼りに)記述した描写が含まれます。歴史的事実の断定ではなく、あくまで“当時の私がどう見たか”を記述したものとしてご理解いただけると幸いです。また、ショッキングな描写を含みます※
ミュンヘン・マリエン広場
ミュンヘンでは、まずマリエン広場へ行った。
旧市庁舎や新市庁舎に囲まれた広場には、訪れる観光客も多い。

花屋さんがいくつか店を開いていて、見ているだけで楽しい。
その中に水色のチューリップがあった。
冷たい色だったが、とても美しかった。
(*花びら全体が青いチューリップは存在しないそうなので、この時に見た水色のチューリップは染めたものと思われます)
ドイツや近隣の国々には、仕掛け時計があちこちにある。
ここマリエン広場にも仕掛け時計があり、11時になると人形が動き出すという。
みんなそれを見るために、この広場に集まってくる。
(*2026年の情報によると、11時と12時、そして夏季は17時にも仕掛け時計が動き出すようです)
観光客はそろって上を見上げて、今か今かと待ち構えている。
そんな観光客の間を、ベビーカーを押した女性が迷惑そうに歩いて行く。
おまわりさんも何人か、人の間を縫って歩いていた。
きっと、みんな上を見て気を取られているから、スリもいるのだろう。

11時になると人形の踊りが始まった。
10分程度で仕掛け時計の動きが止まる。
集まっていた人々も解散。
私も、ダッハウへ向かうために、マリエン広場の脇から地下鉄の駅へと降りて行った。
ダッハウ強制収容所
※1990年に撮ったダッハウ強制収容所の写真は1枚もありません。たぶん撮れなかったのだと思います。ここからの画像は、2025年3月に撮影したものです※
「ダッハウ」がどんなところなのか、知っている日本人はどれほどいるだろう。
アウシュビッツと言えば、ほとんどの人が分かるのではないだろうか。
第二次世界大戦中にナチスによって作られた強制収容所が残されている場所だ。
どの旅行書にも行き方があまり詳しく載っておらず、少し迷ってしまった。
駅でバスに乗り換える時、同じように迷っている日本人男子学生と出会った。
私と同い年のMくんは、東京から来たという。
口数の少ない人で、話し掛けたのも私からだった。
「あの…ダッハウ収容所跡に行きたいんですけど、行き方わかりますか?」
「ああ、僕も今わからなくて…。どうも少し遠いようですよ。ドイツ語、わかりますか?」
「いいえ、ほとんどダメです」
「たぶん、これが“収容所”という意味の単語だと思うんですよ。だから、こっちの方へ行って、バスに乗るんじゃないかなぁ」
案内板に導かれて、バスの停留所へ行く。
バスは少し前に出たばかりで、しばらく待たなければならなかった。
「ひとり(旅)ですか」と訊くと
「あ、そうです。
人と一緒にいると、なんだか自由じゃないような気がして。
旅って、基本的にひとりでするもんだと思ってて…」
「あ、じゃあお邪魔しちゃったかな…」
「いや、いいですよ。今は待ち時間だし」
時々、下を向いたまま笑ったりはするものの、話すときもうつむき加減のままで、あまりこちらを見ない。
彼は、ドイツを重点的に見て回っていて、ミュンヘンにはもう3日ほどいるのだという。
バスが来る頃には、他にも人が集まっていた。
ドイツに入ってからというもの、ずっと天気が悪い。
この日もどんよりと雲が垂れ込めて、時々雪も舞う空模様だった。
バスが強制収容所跡に着き、歩いて中に入る。
敷地はだだっ広く、建物は低かった。

周りは鉄条網の柵で囲まれ、緑はほとんどない。

ひとつひとつ順に見て回る。
食堂。
バラックと寝台。
トイレ。
礼拝のための場所。
ガス室。
焼却所。

焼却炉の作りは、人間のためのものとは思えなかった。
「火葬」という言葉に表されるような、弔いや儀式の要素はまったく感じられないのだ。
最後に、様々な記録や写真を展示している建物に入る。
写真と、添えられた説明文を読んでいく。
男の人が狭いところに倒れている写真。
自殺を図ったそうだ。
Yの字型に人が並んでいて、分岐点に軍服姿の人が数人立っている写真。
ここまで歩かされてきた人たちのうち、元気な人は次の収容所まで歩かされ、元気のない人はこの後すぐガス室に送られたという説明。
4枚ほどの組み写真。同じ人の顔が並んでいる。
まっすぐこちらを見つめている顔が、最後には目を閉じている。
説明によると、これは実験の記録写真で、ある条件下でどれだけ時間が経過すると人が絶命するかを調べたものだという。
写真の展示が終わると、映画室があった。
少し待たなければいけなかったが、私たちは入って行った。
解説は英語。私の聴解力では、ほとんどとらえられない。
やせ細った人間の体が、マネキン人形のように積み上げられている。
その一角の入口に、ドレスを着た婦人が現れ、おびただしい数の遺体を見ると、ハンカチを口にあてて引き返していく。
その女性たちが誰なのか、何のためにそこに来たのか、私には聞き取れなかった。
しかし、映像だけでじゅうぶん過ぎるほど、私はショックを受けていた。
さっき私が歩いてきた建物と同じものが、そこに写っている。
今、私がいる場所で、目の前に映し出されている光景が、実際に行われていたのだ。
映画室を出る頃には、口もきけなくなって、私は黙り込んでしまった。
『アンネの日記』は、中学生の時に読んだ。
第二次世界大戦中のナチス軍の行為を聞いたこともある。
でも私にとって、それらはフィクションに近いようなイメージだった。
今日ここに来て、この場所に立つまでは。
ああ、やっぱり私は何も知らない。情けなくなるくらい。
この収容所跡に着いた時、私は旅の道連れを得て、少しばかりホッとした気持ちになっていた。
でも、それも消え失せた。
「なんか…お互い暗くなっちゃって…」
Mくんに言われて、私は我に返った。
「ああ…。ごめんなさい」
ミュンヘンに帰る列車の中で、彼が言った。
「オレ、毎晩行ってるビアホールがあるんだ。雰囲気が良くてね。今晩、一緒に行かない?」
「私、お酒はだめなんだ」
「飲めないの?…まあ、メシだけでもいいし。いろんな人がいて面白いよ」
すっかりおとなしくなった私を、気遣ってくれたのかもしれない。
「じゃあ、連れて行ってもらおうかな。
でもまだ時間が早いから行きたいところがある。少し付き合ってくれる?」
「いいよ。どこへ行くの?」
「行きたい美術館がふたつあったんだけど、そんなに時間がないから、レンバッハハウス美術館の方だけでも」
この美術館には絵画だけでなく、オブジェもあった。
ダッハウで見たものに圧倒されて、言葉少なになっていた私たちも、
作品の前で少しずつ気持ちがほぐれ
「ゲージュツって、わからんな」
「わからんね」
と短く会話をした。
私はここで初めてカンディンスキーの作品を知り、とても気に入った。
6時頃になって、Mくんのいうビアホールへと向かった。
【2026年の私から】
1990年の旅をもとに書いた原稿が、実際に見たものをどこまで正しく描写しているか自信がありません。
2025年にもダッハウ強制収容所を訪れましたが、うかつにも私は、上の内容を確認することを意識していませんでした。
再び訪れた強制収容所記念館の敷地は、記憶していたとおりに色が乏しく、そして記憶していたよりもだだっ広いと感じました。
たまたま35年前と同じ曇天で、寒い日でした。
元の原稿に書いていたものをnoteに投稿するにあたり、描写を削ったり曖昧にしたりした部分もあります。
気になる方は、どうかご自分の目で確かめに行ってみてください。
ダッハウ強制収容所はミュンヘンから電車で20~25分移動した後、バスに7分ほど乗ると行けます。

入場は無料、オーディオガイドには日本語もあり、一般は4.5€、学生は3.5€でした。ガイド機器の貸し出しの際は、IDを預ける必要があります。

2025年に見学した際、私は3時間半ほどかけて回りました。
敷地が広大なので、たくさん歩きます。

この土地には、ここに収容された(18万人を超えるといわれる)人々、亡くなった何万人もの人々、そして戦後ここを訪れた人々…たくさんの人の様々な感情が沁みつき堆積しているように私には感じられました。
そう感じたのは、私自身が疲れ切っていたせいもあるかもしれません。バックパック旅を始めて3週間、睡眠と栄養と心の休息が足りていませんでした。
ひとりで訪れるには、つらい場所だと感じました。
1990年に訪れた際、一緒に回ってくれたMくんに感謝しています。
※1990年の旅と、35年後にもう一度たどった2025年の旅のお話は、それぞれマガジンにまとめています。
