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#5 〜ピカある探訪記✧*〜 泥江縣神社(廣井八幡宮)前編


堀川を渡ると、もうひとつの社域

前回の花車神明社の探訪で、この辺り一帯が、かつては泥江縣神社の広大な社域であったことを知りました。

堀川を挟んで東側にあるというその神社へ、今日は実際に歩いて向かってみます。


伝馬橋を渡る

花車ビル北館の北の角から東へ歩くと、ほどなく橋が見えてきました。

📸 伝馬橋1
📸 伝馬橋2

その名も「伝馬橋」。

📸 説明板

堀川は、名古屋城下にとって物流の大動脈でした。熱田から発した美濃路は、この伝馬町筋から北上し、枇杷島、清洲、一宮を経て中山道垂井へと続きます。

「伝馬」とは、公用の荷や人を運ぶための制度。
この地が交通の要所であったことを、地名そのものが物語っています。

都市の中を流れるこの川は、かつて物資と人の往来を支え、町の呼吸そのものでした。

ふと水面を見ると、黒い影。

📸 堀川の鵜

鵜(う)がいました。

📸 素潜りする鵜

潜ったかと思うと、静かに姿を消します。

野生の鵜を見るのは初めてかもしれません。
驚きと同時に
城下町の歴史を見つめてきた堀川に、今も野生の気配が残っていることに、少し嬉しくなりました。

木曾三川の長良川の上流に当たる岐阜県には長良川の鵜飼という伝統文化があります。

起源はかなり古く、『魏志倭人伝』(東夷伝倭国条)や『古事記』『日本書紀』にも記述がみられます。

素潜りが得意な鵜ですが、蚕と一緒で飛べない鳥かと思っていました。

実際にはしっかりと飛ぶことができるため、こうして都市の人工の河川でも見かけることができるのですね。

📸 ベンチがあったので休憩

少し腰を下ろし、橋を眺めます。
この辺りは以前より、きれいになった気がします。

ベンチでひと息ついたあと、あらためて橋の向こうへと歩き出します。
目指すは、かつて花車神明社と同じ社域にあったという神社です。


神社へ

橋を渡り、ほどなくして到着しました。

📸 泥江縣神社の鳥居

泥江縣神社(ひじえあがたじんじゃ)、またの名を廣井八幡宮(ひろいはちまんぐう)

この辺り一帯はかつて泥江町(ひじえちょう)と呼ばれていました。国際センターの交差点の名前にも名残があります。

泥は「どろ」ではなく「ひじ」と読みます。
泥江(ひじえ)の(ひじ)とは土方(ひじかた)の(ひじ)と同じ意味だと思います。
そして「聖(ひじり)」の意味もかさねていると思います。

堀川はまさに人が掘削してできた川ですので、もしかすると灌漑の技術と関連があるのかもしれません。

縣(あがた)は「県」の旧字体です。
古代、諸国にあった朝廷の直轄地の意味があります。

あがたという読み方を持つ神社で他に思い浮かぶのは「大縣神社」「田縣神社」「縣神社」があります。

こちらの立札によれば、創建は貞観元年(859年)。
豊前国の宇佐八幡宮の分霊として勧請されたと伝わります。

応永26年(1419)に遷宮。

「廣井八幡宮」と呼ばれだしたのは、織田信長や豊臣秀吉が活躍した安土桃山時代の天正年間頃からだそうです

七代藩主・徳川宗春の時代には、境内に芝居小屋が設けられていたそうです。

かつての社域は八丁四方と広大でした。
そしてその中に、前回訪れた廣井であり泥江花車神明社も含まれていました。

社域が堀川を挟んで分かれたのは、1610年、名古屋城築城に伴い、福島正則によって堀川が開削されてから。

都市計画が、神域の形を変えた瞬間です。

それでも、神社は今もこの地に残っています。

次回は後編は、神社内を散策していきます。


ピカある地図

今回は「伝馬橋」「泥江縣神社(廣井八幡宮)」を追加しました。



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