ガザを思う。After the Last Sky アヌアール・ブラヒム(ウード)のアルバム
今朝もまたガザ地区の悲惨なニュースを見ました。やりきれない思いがいっぱいです。以下の記事は1ヶ月ほど前にブログに書いたものですが、どうしようもない気持ちを再び思い出し、こちらに投稿いたしました。お読みいただければ幸いです。
今晩はウード奏者アヌアル・ブラヒムによるアルバム「After the Last Sky」を聴きます。
ウードはアラブ世界で使われている弦楽器。ウードがイスラム教の広がりと共にヨーロッパに伝わってリュートになったそう。またウードの先祖であるバルバットは中国に伝わりピパとなって、それが日本に伝わり琵琶となったようです。確かにリュートにも琵琶にも似ている形ですね。
アヌアル・ブラヒムは名門レーベルECMから何枚もアルバムを出しているウード奏者。それにチェロのベシール・セルミとジャンゴ・ベイツのピアノ、そしてベースのデイブ・ホランドとの編成。彼はアラブ世界にルーツを持ちつつ、そこに限定しない「境界」に立ち位置を決めて演奏を行なっています。それはクロスオーバーではなく、あくまで「あいだ」「境界線」にいることを意識しているとのこと。今回のアルバムは12枚目ということですが、プログラムノートを見ると、ここには重いテーマがあります。つまり「ガザ」です。
最初にブラヒムがこの作品集を作曲したときは、まだガザへの攻撃は始まっていなかったとのこと。しかし、アルバムを準備中にガザへの非人道的な攻撃が始まり、「2024年5月には、ガザ地区は現代史上最も容赦のない軍事攻撃のひとつを受けていた。西側諸国は目を背けるか、虐殺を黙認していた。パレスチナの苦しみに対する西側の無関心に恐怖し、絶望と焦燥に駆られたブラヒムは、限界点に達し、この悲劇なしには世界を認識できない、と感じるようになった。」とのこと・・。
録音に先立つ数ヶ月、彼の心は執拗にガザとパレスチナの人々へと向けられ、「なぜこれほどの無関心が許されるのか?」という問いに悩まされ続けました。これらの問いは私たちにも問いかけられているような気がします・・・。ガザのこと。調べれば調べるほどあらゆる事がからまっています。どうしたらいいかなんて私ごときにはわからない。硬直してしまうというか・・・国家、宗教、権力、覇権、無知、人間世界のあらゆるものが絡み合って、誰が悪で誰が善かなんていう単純な世界に収まらない。こんなことがあってはいけない、とわかっているのに、誰にも止めることができない。悪夢のようです。でも軽々しく私は何も言うことはできません。あまりにもアラブの世界について無知だから・・・。
このアルバムのタイトルはエドワード・サイードの著作『After the Last Sky』「最後の空の後で」に由来しています。またパレスチナ詩人マフムード・ダルウィーシュの思想が深く反映されているとのこと。その思想は「不在の存在」。
ある日を空を見上げます。そこには爆撃機が見えるかもしれない。そしてそれが彼が見た最後の空になるかもしれない。多くの人々の死、友人が不在になって記憶の世界だけの存在になっていく「不在の存在」。その不条理な世界が今現実に起きている世界。
ただ、ブラヒムはその音楽の中にその背景を押しつけません。自由に感じればいい。ただ、この背景がこの作品の裏側にあることで、音楽の聞こえ方が変わるかもしれません。音だけで成りたっているように聞こえる音楽ですが、そらが作曲・演奏された背景を知ることで響きが違ってくる。音楽はただ音だけでは成り立っていないのですね。ただ、ブラヒムは決してこのことを無理に押しつける気は無い。感じるままに・・・と。
重いテーマになりましたが、音楽は意外にもそんな重さは感じさせません。最初の「ヒンドを偲んで」 では、美しいけれど哀しくはかないピアノから始まって、切ないほど訴えるチェロのメロディが重なります。それだけ聴くと、ジャズ、タンゴ、その他のスタイルを行き来するブラエムの音楽は哀愁と官能に満ちていますが、あまり大仰な表現はありません。ウードの即興系はちょっとインドのシタールを思わせます。ウードは独白するかのように主張し、チェロは艶やかな音でなまめかしいメロディを奏でます。それはおそらく暴力、断絶、破壊の論理に対する真っ向からのアンチテーゼで、本来あるべき人間性を描いている・・・といったらちょっと難しく考えすぎでしょうか。何も考えずに、でもほんの少しだけ今の世界を感じながら、この作品たちの中に入ってく。そしてそこに哀しみと同時に安らぎ、官能、時に嘆き、生きている喜び、そんな本来人が感じるべき世界があります。
2曲目はテーマ「最後の空の後で」。以後「終わりなき彷徨」「君の瞳の陰で」「流星群の下で踊る」・・などのイマジネーションを誘うタイトルとともに独自の世界が広がります。ウードは即興で激白し、チェロが艶かしく歌い、ピアノが包み込み、ウッドベースが時を刻む。そして時にベースとウードのデュオ、ピアノとチェロ、ウードとチェロなどの組み合わせで語り合うシーンや時にはブラヒム自身がウードに合わせて低い声で歌う場面も。
録音は全ての楽器がオンマイクでくっきり撮られいます。定位がすごくいい。目の前に4人がいて演奏しているかのよう・・・・。アルバムの最後の曲、「ヴァーグ」ではウードが欠けた編成でチェロの美しくもメランコリーな旋律が歌われます。これは・・・不在の存在を表しているのでしょうか。曲はブラヒムが作曲しているけれど、ウードの演奏は不在。そんな意味が込められているのかもしれません。
これはクラシックではないし、ジャンルにはおさまらない。ポストクラシカルとも違う。クロスオーバーみたいな簡単な言葉でも収まりきれない、彼らならではの音楽です。終わった後の余韻が長く続きます。
