ウクライナ侵攻4年に聴く《運命》 コロミイェツ《ヘルソンの母たち》

今晩は、ドイツ・グラモフォンから2026年2月20日にリリースされた、ケリ=リン・ウィルソン指揮、ウクライナ・フリーダム・オーケストラによる《ベートーヴェン:交響曲第5番/コロミイェツ:〈The Mothers of Kherson〉組曲》を聴きます。
収録曲は以下の通りです。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
交響曲第5番 ハ短調 作品67
第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ
第2楽章 アンダンテ・コン・モート
第3楽章 アレグロ 第4楽章 アレグロ
マクシム・コロミイェツ
Suite from “The Mothers of Kherson”
《ヘルソンの母たち》よりの組曲
I. Adagio – Vivo
II. Sostenuto, rubato
III. Lento
ウクライナ侵攻から今日で4年。侵攻されたウクライナはもちろん、侵攻したロシアもこんなに長く戦争が続くとは思わなかったでしょう。戦死者の正確な数は公表されていませんが、双方で数十万規模に及ぶと推計されています。
そんな中で指揮棒を武器に立ち上がった指揮者がいました。それがケリ=リン・ウィルソン。ウクライナ系カナダ出身の指揮者で、もともとはオペラを中心に国際的なキャリアを築いてきた方。彼女はウクライナ国内に残る奏者、国外に避難した奏者、欧州の劇場に所属するウクライナ人音楽家たちを集めウクライナ・フリーダム・オーケストラを立ち上げます。活動はヨーロッパやアメリカの主要ホールで展開され、演奏会は文化的連帯の場となりました。そこでは常にウクライナ作品が紹介され、ウクライナという国家の文化的主権が可視化されてきました。
象徴的だったのが、2023年2月23日、ウクライナ侵攻から1年経ったときにリリースされたベートーヴェン《交響曲第9番》をウクライナ語で歌った録音です。「歓喜の歌」というヨーロッパ統合の象徴的作品を、ウクライナ語で歌う。これは単なる翻訳ではありません。ヨーロッパの理念にウクライナの言葉を重ねるという行為です。文化的帰属を明確に示す、強いメッセージでした。「歓喜(Freude)」を、ウクライナ抵抗の合言葉「スラヴァ(Slava)」に置き換え、「Slava Ukraini(ウクライナに栄光あれ)」という言葉を重ねて歌っています。これはもちろんウクライナの歓喜とともに、ヨーロッパ全体の連帯も呼びかけています。そこには希望があり、自分たちは必ず連帯とともに勝利するだろうという確信がありました。
この第九から3年。まだ戦争は続いています。3年前は希望があったし勝利への確信があったでしょう。今回はベートーヴェンの交響曲第5番とコロミイェツの《The Mothers of Kherson》(ヘルソンの母たち)組曲。この録音は2025年夏のウクライナ・フリーダム・オーケストラのリトアニア・ヴィリニュスでのライブ録音です。これはどのようなメッセージがこめられているのでしょうか。
まずベートーヴェン《交響曲第5番》。いわゆる「運命」です。この曲については今更解説はする必要はないかと思いますが、冒頭から戦いの音楽です。今も戦闘の真っ最中であるという現実。
演奏は明確な拍感と推進力があり、運命動機は鋭く刻まれ、前進性が強調されます。決してヨーロッパの一流オケのような完璧な演奏ではないのですが、なにか強い思い、闘争しているのだという気迫が強く感じられます。
第2楽章では祈りの性格が前面に出ます。過度にロマンティックにはならず、芯の強さを保ちます。第3楽章から第4楽章への移行は緊張を持続させ、終楽章は決然とした到達です。勝利の輝きはありますが、それは浮ついた光ではなく、重みを伴った響きです。それは勝利への確信ではなくて、まだこの先があるのだ、戦い続けるのだという意思が聴こえてきます。
この第5番は、抽象的な「運命との闘争」というより、現実の歴史と接続された演奏。闘争から勝利へという単純な構図ではなく、具体的な闘争の重みを時間とともに背負って響きます。
続いて《The Mothers of Kherson》(ヘルソンの母たち)よりの組曲。マクシム・コロミイェツ(1981年キーウ生まれ)は、ウクライナを代表する現代作曲家であり、オーボエ奏者としても活動しています。キーウ音楽院およびケルン音楽舞踊大学で学び、作品はドナウエッシンゲン音楽祭やワルシャワの秋など国際的な舞台で演奏されています。伝統的語法と現代的音響を融合させ、強い物語性と感情の深さを持つ作風が特徴です。オペラ《The Mothers of Kherson》は、戦時下でロシアに拿捕され、遠く離れた子どもを救出した母親たちを描いた作品で、ポーランド国立歌劇場やメトロポリタン歌劇場での上演が予定されています。現代的語法を用いながらも、冷たい音響実験にとどまらず、明確な感情の方向を持つ音楽を書く作曲家です。
第1楽章「Adagio – Vivo」。冒頭は低弦の持続音、コントラファゴットの不気味な音から始まります。混沌として完全な調性を提示しません。和声は曖昧で、安定を拒みます。突如として運動が割り込みます。刻みが現れますが、これは行進ではありません。整然としたリズムではなく、神経質で不規則な脈動。ティンパニが激しく連打するのは爆撃でしょうか。民謡のようなメロディは瓦礫から顔を出す子供たちか。これ戦争を描写的に描く音楽ではありません。むしろ不安が身体に入り込む感覚のように感じます。
第2楽章「Sostenuto, rubato」はコールアングレが語るように旋律を提示し、弦がそれを支えます。安定には落ち着かず、呼吸が揺れ続ける音楽です。この時間の不安定さが、子どもを守ろうとする母親たちの心情に重なります。ここでの旋律は、民謡引用ではないものの、ウクライナ的抑揚を感じさせます。極端な暗さはありませんが、決して郷愁には落ちません。調性は最後まで不安定。これは「慰めの音楽」ではありません。
第3楽章「Lento」では徐々に和声は広がりますが、暖かさは見られるけれど明確な長調に落ちきりません。あえて解決を曖昧にしています。明るい感情と絶望感が入り乱れ、最後のコーダはこれからまだまだ続く戦争を暗示するかのように勝利も絶望も提示しません。ただ立ち続ける意思が残ります。ベートーヴェン第5番がハ短調からハ長調へ明確に到達するのに対し、コロミイェツは到達を拒んでいます。
この作品は「勝利の予言」をしません。代わりに提示するのは、持続する意志です。それは劇的なカタルシスではなく、立ち続ける力。
ベートーヴェンが「闘争から勝利へ」だとすれば、コロミイェツは「衝撃から持続へ」。19世紀の理念と、21世紀の現実が並置されます。
このアルバムは、外へ向かうエネルギーと内へ向かう強さ、抽象と具体、歴史と現在を並置しながら、音楽が「今」という時間とどのように結びつくのかをはっきりと示しています。ウクライナ侵攻からちょうど4年の今日、この録音は演奏の巧拙を超えて、時代の重みそのものを刻んでいます。歓喜を歌った後、人はどのように闘い続けるのか。その問いに対する一つの静かな決意が、この一枚には込められています。
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