言語変化という問題
コセリウ(著) [ 田中克彦(訳) ]
「言語変化という問題」(岩波文庫)。
この本は10年くらい前に購入して一度読んだことがありました。
最近、AIの大規模言語モデルとチョムスキーの生成文法の文献を読んでいます。その中で、ことばの変化という問題は避けて通れないと思い、コセリウの「言語変化という問題」を再読してみました。
以前に読んだときよりも、内容を理解できました。
言語変化という問題は、興味深いテーマですが、10年前に読んだときにはなぜコセリウがこの問題にここまでこだわるのかよく理解できませんでした。今回は以前より見通しがよくなり、理解できたところが増えました。
この記事では、「言語変化という問題」という著作を読んで理解する上で、知っておいたほうがよいことについてまとめてみます。
(1) ソシュール批判の書?
この記事を書く前に、Gemini(AI)にコセリウ「言語変化という問題」という著作について尋ねました。AIが言うには、この著作はソシュールに対する批判の書であるということでしたが、私はそうは思いませんでした。どちらかというと、ソシュール言語学の方法論を絶対的なものとして「言語変化」という問題を単なる「ノイズである」として考察しない言語学者への批判だと私は思いました。
むしろコセリウの意図は、ソシュール言語学をより発展させていくためには、言語変化を言語が内包する本質的な性質として考察する必要がある、ということにあるのではないか?
ここで、「言語変化という問題」を理解する上で必要なソシュール言語学のエッセンスを大まかにまとめておきます。少し専門的な話になりますが、さほど難しくはありません。
(2) ソシュールの考えたこと
ソシュール以前の言語学の主流は「比較言語学」でした。
第二外国語として、ヨーロッパの言語を学んだことがある人なら、ドイツ語・フランス語・スペイン語・ロシア語などの言語と英語が「類似している」と思ったことがあると思います。
比較言語学は、各言語の源流をたどっていけば、それぞれの言語に分かれていく前の「祖語」がどのような言語だったのかを考察するものです。
比較言語学によって、インド・ヨーロッパ語族と呼ばれる言語の原型(印欧祖語)があったことが証明されました。
それは画期的な発見でしたが、言語の本質にどれだけ肉薄することができたのか?、と問われると「何も分からなかった」と言っても過言ではありません。
そこでソシュールが考えたのは、言語の本質に迫るためには、比較言語学のように動的変化(「通時言語学」)に注目するのではなく、静的な言語(「共時言語学」)を研究することが大切だということでした。
そして、言葉を、静的な「ラング」とそのつど変わりうる動的な「パロール」(個々人のその時々の発話)とに分けて、言語学が取り扱う範囲を「ラング」に限定しました。
(3) ソシュールが述べたのは方法論に過ぎないのではないか?
「ことば」というものは、誰でも使用するものであり、「ことばについて思うことを語ってください」と言われれば、誰でも何か言うことができるでしょう。しかしながら、言葉を科学的かつ理論的に考察するには、「方法論」が必要ですね。
私が思うに、ソシュールが、
①言葉をラングとパロールとに分けて、言語学で扱う範囲を「ラング」に限定したこと、
②「通時言語学」ではなく、「共時言語学」を研究対象にしたことは、
「方法論」であって、言語学の「前提」ではありません。
このような分類をしなければ、言語を科学的に分析できない、とソシュールが考えたというに過ぎません。
しかし、その後、ソシュール言語学の考え方は「構造主義」と呼ばれ、文化人類学や哲学の分野でも援用されることが増えました。
もちろん言語学という分野でも、ソシュール言語学は主流となりました。そして、それが行き過ぎた結果として、「言語変化」という問題は言語学で扱うテーマではない、という言語学者が現れるに至りました。
ソシュール自体には著作がなく、「一般言語学」という名で流通している主著は、ソシュールの講義を聞いた学生のノートに過ぎません。また、ソシュール自体もヨーロッパ祖語の原型をとどめているリトアニア語の研究もおこなっていました。そのことからも分かるように、言語変化という問題をソシュールが無視していたわけではありません。
あくまでも、科学としての言語学が成立するための方法論として、「ラング」および「共時態」を研究対象にしたということです。
(4) 学問には前提があるが金科玉条ではない
物理や化学のような自然科学では、仮説が正しいのかどうかは、実験を重ねることにより実証することができます。
しかし、哲学のような人文科学や経済学・政治学のような社会科学では、理論が正しいかどうかは、実験によって確かめることはできません。
例えば、経済学には「ホモ・エコノミックス」(合理的経済人)という前提があり、人間の幸福度を貨幣的尺度で計測します。
人間はもちろん、必ずしも常に合理的に行動するとは限りません。非合理な行動をすることもあります。幸福度も、必ずしも貨幣的な尺度だけで計測できるわけでもありません。
しかしながら、全体として、人間は合理的な行動をして貨幣的な幸福を追求するものとして経済を考察することは、非合理的なことではありません。
ソシュールが言語学の研究対象をラングと共時態に限定したことには意味があります。
その意味において、言語学と経済学のおかれている状況は似ています。
方法論としての作業仮説的な前提を金科玉条のこととして疑わないことは、学問的な態度ではありません。
学問としての経済学の仮定である「合理的経済人」を絶対的な真理であると考えたり、方法論としての言語学の「ラングこそ言語のすべてである」「通時態ではなく共時態が言語である」という命題を金科玉条とすることこそ、批判されるべきでしょう。
むすび
今回、「言語変化という問題」というコセリウの著作を読んでいて、印象的な言葉に出会いました。
「教条というものの常として、それは硬直することはあっても厳密であることはない」(前掲書64ページ)
私は至言だと思いました。
カルト教団だけでなく、学問分野においても、単なる作業仮説や方法論に過ぎないものが「教条化」されてしまうことがあります。厳に気をつけたいものですね。


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