シリーズ「人間とは何か」 東浩紀について
ずっと同じ話をしている
東浩紀はずっと同じ話をしている。
デビュー作『ソルジェニーツィン試論』から最近の『平和の愚かさ』に至るまで、彼がやっていることの核心は一貫している。固有名と確定記述。この二項対立の変奏を、三十年にわたって手を変え品を変え繰り返している。
『平和の愚かさ』では、731部隊の中国の博物館を訪れた体験が語られる。そこでは被験者の固有名が剥奪され、「丸太」と呼ばれ、「体重何キロ、何歳、男性」という記述に還元されていた。
だが、率直に言って、こう思う。わざわざ中国まで行って発見するような話だろうか。あなたがずっと言ってきたことではないか。
『ソルジェニーツィン試論』は収容所における意味の剥奪がテーマだった。収容所とはまさにそういう場所である。ハイデガーも本質的には同じことを言っている。収容所と自動車工場は同じだ、と。ハイデガーは「固有名の剥奪」という言い方はしていないが、Gestell(総かり立て体制)の下で存在者が代替可能なBestand(用象)に変換されるという構造は、実質的に同じことを指している。
『存在論的、郵便的』では、デリダとクリプキを経由して、確定記述と固有名の関係が正面から論じられる。固有名が可能世界を横断する硬い指示子であるとして、それが一つなのか複数なのかという問題が展開される。
『動物化するポストモダン』では、オタクたちが固有名を必要としないことが主題になる。オタクとはそもそもそういう存在である。中森明夫がかつて指摘したように、相手の名前すら記号で十分という態度。「ツンデレ」「猫耳」「妹」といった萌え要素——つまり確定記述のデータベース——から動物的にコンテンツを消費する。固有名はどうでもいい。ある条件、ある属性を満たしたもの、確定記述を満たしたものを消費する。それが動物化ということだった。
『一般意志2.0』では、ニコニコ動画のコメントシステムに注目する。あれも確定記述的なシステムである。誰が投稿しているかは問われない。匿名的・集合的な記述が流れていく。東はそこに民主主義の未来を見出した。さすがに今はその見解を修正しているが、コメントシステムの構造自体は確定記述的である。
そして『平和の愚かさ』で、また同じ話をしている。
形式の反復——あるいは動物化する東浩紀
ここで一つ、意地の悪い、しかし構造的には正確な指摘をしたい。
東浩紀がやっていること自体が、彼が『動物化するポストモダン』で記述した構造と同型である。
オタクが「萌え要素」という確定記述のデータベースから動物的にコンテンツを消費するように、東自身が「固有名と確定記述」という形式を、素材を入れ替えながら反復的に消費している。収容所に代入し、デリダに代入し、オタク文化に代入し、ニコニコ動画に代入し、731部隊に代入する。中国の博物館という新しい素材を調達してきて、同じ形式に充填する。
これは批判として言っているのではない。構造の記述として言っている。
東が好きな人はこういうことを言わない。著作ごとに新しい展開を読み取りたいから、「全部同じ形式だ」とは認めたくない。一方で東が嫌いな人は、もっと表面的なところで攻撃する。政治的スタンスとか、ゲンロンの経営とか。東の理論を内在的に把握した上で、その理論を東自身に適用するという批判はあまり見かけない。
しかし、ここからもう一段先がある。
現実がずっとそうだから
東がずっと同じ話をしていることは、東の側の貧困ではない。現実の側の一貫性を反映しているだけである。
現代社会は、固有名の剥奪を加速させ続けている。オタクはその最先端にいただけで、今やほぼ全員がそうなっている。
マッチングアプリを考えてみればいい。「年収○万、身長○cm、○歳、職業○○」。プログラマーの採用面接はどうか。「Python経験3年、AWS経験2年、Go言語可」。731部隊の記録はどうだったか。「体重○キロ、○歳、男性」。
形式だけ見れば、何が違うのか。
もちろん全然違う。一方は殺すために選別し、一方は雇うために選別し、一方は付き合うために選別する。目的は根本的に異なる。しかし、人間を確定記述の束として処理し、その束がある条件を満たすかどうかで選別するという形式は同一である。
東が三十年間同じ話をし続けるのは、現実が三十年間同じ方向に進み続けているからである。素材が変わるのは、確定記述化が社会の新たな領域に浸透していく過程を記録しているにすぎない。評論家として、現実がずっとそうなのだから、ずっとその話をして何が悪いのか。それは批判ですらなく、ただの事実確認である。
他人はよくて自分はダメ
ここに一つ、構造的な非対称性がある。
他人に対しては確定記述で十分である。名前すらいらない。属性の束さえ満たしていればいい。オタクとは文字通りそういう態度のことだった。そして今やオタクに限らず、マッチングアプリを使う全員がそうである。
しかし、自分が選別される側に回った瞬間、「スペックじゃなくて自分を見てくれ」と言い出す。自分だけは固有名として扱われたい。確定記述の束ではなく、かけがえのない「この私」として認められたい。
これはネット上でほとんど常識として語られている話ですらある。とりわけ恋愛の文脈で。オタクは他人をデータベースの萌え要素として消費するが、自分が消費される側に回ると耐えられない。スペックで選ばれることに傷つく。
単なるダブルスタンダードの告発として言いたいのではない。これは確定記述的な世界の構造的な帰結である。全員が他者を確定記述で処理するならば、全員が同時に自分の固有名を剥奪される側にもなる。そしてその非対称性が——他人はよくて自分はダメというロジックが——全員に同時に作動する。全員が他者の固有名を剥奪しながら、自分の固有名の剥奪に苦しんでいる。
現代人の不幸
現代社会は収容所ではない。それはそうだ。
しかし、ハイデガーにしろ東にしろ、収容所の収容所たる最も悪しき本質は何かといえば、それは殺すことそのものではなく、固有名を剥奪して確定記述の束に還元すること——存在者をBestandとして処理すること——にある。その哲学者たちの言うことを真に受けるとすれば、現代社会は好むと好まざるとにかかわらず、収容所の延長にある。
誰も殺されはしない。飢えるわけでもない。技術は進歩し、生活は便利になり、物質的には満たされている。だが幸せでもない。その微妙な不幸感、言語化しにくい不全感の正体は、固有名の慢性的な剥奪状態である。
収容所では暴力的に一気に剥奪されたものが、現代社会では穏やかに、便利に、合理的に、日常的に剥奪され続けている。しかも自発的に。マッチングアプリに自分で登録し、自分でスペックを入力し、自分から確定記述の束になりに行く。そしてそこで固有名として扱われないことに傷つく。確定記述で入場して、固有名で愛されたいという、原理的に成立しない要求をしている。
そしてこの確定記述化を拒否するとどうなるか。マッチングアプリに登録できない。履歴書を書けない。面接でスペックを提示できない。恋愛市場からも労働市場からも排除される。現代社会において、それはほぼ人間ではないということを意味する。結婚もできないし、仕事もできない。
731部隊では強制的に丸太にされた。現代社会では、自発的に丸太にならないと人間として扱われない。丸太になることが人間であることの条件になっている。よほど親が恵まれているとか、宝くじが当たるとか、確定記述のゲームに参加しなくても生存できる例外的条件がない限り、全員がこのシステムに参加せざるを得ない。
「人間とは何か」
カントは言った。哲学のあらゆる問いは最終的に一つの問いに集約される。「人間とは何か」。
カントがこの問いを立てたとき、その答えは理性的存在者、道徳的主体、あるいは何か尊厳ある方向に開かれていたはずだった。
東浩紀の三十年間の仕事を経由して、現代社会の現実を直視した上で、この問いに答えるならば——
人間とは何か。
確定記述の束である。丸太である。
