東はなぜ『平和と愚かさ』を書いたのか——AI時代の哲学者の生存戦略としての観光客の哲学


1. 「ただのデリダの焼き直しがなんでこんな評価されてるの」

東浩紀『平和と愚かさ』(2025年12月、ゲンロン)が出た。500ページ。読書メーターでの評価は70パーセント、レビュー86件、登録554件。哲学書としては相当売れている。

最初に率直な感想を書く。この本のコンスタティブな貢献が何なのか、よくわからない。

第一部は旧ユーゴスラヴィア紛争の戦争博物館をめぐる紀行で、戦争体験者の声がエクリチュールとして保存されている戦争博物館を訪ねている。つまり、デリダの『声と現象』そのものの場所に行っている。死者の声がアーカイヴ化される、その自己現前の不可能性、これは音声中心主義批判のド真ん中の論題で、東自身が『存在論的、郵便的』(1998)で論じた構造である。

中国の「7・31部隊罪証陳列館」では、人体実験の被験者が「マルタ(丸太)」と呼ばれた事実が展示されている。これを東は固有名の剥奪、大量死における存在の意味喪失として論じる。だがこれは、東が観光客の哲学・郵便論・誤配論の系列でずっと論じてきた問題である。固有名問題は彼のキャリアの中心テーマだ。

レヴィ=ストロースが二項対立を「マト・グロッソで発見した」のと同じ構造がここにある。二項対立は聖書からヘラクレイトスから陰陽思想まで、人類の宗教的・哲学的伝統が数千年やってきた話だ。それをわざわざマト・グロッソの先住民の村で「発見」した。同様に、東はデリダの音声中心主義批判を、わざわざボスニアの戦争博物館で「発見」している。自分自身が28年前に主著で論じた構造を、観光地で再発見している。

しかも素材の選び方も変わらない。戦争博物館は、デビュー作で扱ったデリダのラブレターと同じく、それ自体がヴォーレン語的な情動装置である。情動価の高い素材を選び、それを哲学的言説で包む手つきは、1998年から1ミリも変わっていない。素材は変わる、論点は変わる、しかし手つきは変わらない。東は東である。この点については後で詳しく論じる。

哲学的概念の貢献はよくわからない、歴史的事実の貢献(ユーゴ紛争、731部隊、チェルノブイリ、ベトナム戦争)もWikipediaか専門書で済むレベル、あるとすれば「哲学を戦争博物館に当てはめる」という操作の新規性だが、これも当てはめでしかない。当てはめならLLMが一日何百個でもやれる。

それでもこの本は売れている。レビューは熱い。「現時点で今年のベスト本だと思う」「本書のなかで『紀行』要素よりも『哲学』の部分がやはり勝っている」「日本の平和主義をある仕方で肯定している」「ノーベル文学賞とかの受賞理由とかになるやつじゃん!」と書く読者までいる。

なぜか、というのが本稿の問いである。

2. 三つの貢献レイヤーへの分解

本書のコンスタティブな貢献を3つのレイヤーに分けて検討する。

(A) 哲学的概念の貢献。 平和=考えないこと、というテーゼの元ネタはニーチェ『反時代的考察 第二篇 生に対する歴史の利害について』(1874)で、忘却が生のために必要であるという議論をすでにやっている。動物は瞬間を生きるから幸福であり、過剰な歴史意識は生を毒する、と。リクール『記憶・歴史・忘却』(2000)はこれを戦後ヨーロッパの記憶政治に接続済みである。デリダの音声中心主義批判、アガンベンの剥き出しの生、これらは引用される側であって、本書がそこに新しい概念を付け加えたわけではない。

ただし、本書には例外的に新規性がある議論がひとつある。國分功一郎『中動態の世界』(2017)への批判である。國分が中動態を倫理的解放の方向で論じたのに対して、東は731部隊の加害者たちが「中動態的になんとなく」虐殺を遂行した事例を持ち出して、中動態の暗部——責任の解体、アイヒマン的な凡庸さの構造——を指摘する。これは本書の中で、東が他の哲学者の議論を再述するだけでなく、批判的に介入している箇所である。この一点においては、本書は哲学的貢献を持つ。

しかし、これは本書500ページの中の一つの章に収まる議論である。書籍全体の存在を支える主軸ではない。本書の主題である「平和=考えないこと」「観光客の二重性」「博物館の幻想機能」といった大枠の議論は、ニーチェ以降の伝統の再パッケージである。中動態批判という小さな新規性のために、500ページの戦争博物館巡りが必要だったわけではない。

(B) 歴史的事実の貢献。 旧ユーゴスラヴィア、チェルノブイリ、731部隊、ベトナム、ルワンダ、広島。すべて専門書もWikipediaも豊富で、東の記述はそのアウトラインを紀行文に取り込んでいる。歴史家としての発見はない。

(C) (A)と(B)の組み合わせの貢献。 哲学を戦争博物館に当てはめる、という操作の新規性。だが当てはめは、LLMが極めて得意とする作業である。「デリダの音声中心主義批判をボスニアの戦争博物館に当てはめてください」とClaudeに頼めば、東のそれと区別がつかない水準の文章が一分で出てくる。「アガンベンの剥き出しの生をマルタに当てはめてください」も同じだ。

つまり、本書のコンスタティブな貢献を厳密に切り分けると、(A)に小さな新規性(中動態批判)はあるものの書籍全体の存在を正当化するほどではなく、(B)も(C)もLLMで代替可能な水準にある。この本が500ページの哲学書として刊行された必然性が、どこにあるのかがよくわからない

ではこの本に固有な貢献は何か。引き算すると、残るのは2つだけになる。

①「東浩紀」という固有名がついていること ②東浩紀の身体が、現地に立ったこと

この2つだけが、LLMには絶対に複製できない。Claudeはサラエボに行けない。Claudeはチェルノブイリに行けない。Claudeは2023年11月にリヴィウからキーウまで鉄道で6時間乗ることができない。そして、Claudeは「東浩紀」という名前を持つことができない。

本書の存在論的核は、この2つだけである。

3. 「秘密にした訪問」と戦略の自覚性

これを偶然や無自覚と読むことはできない。東は本書の核となるウクライナ滞在について、自分でこう書いている。

「2023年の秋、ウクライナに一週間ほど滞在した。訪問は秘密にした。ウクライナはロシアと戦争中で、外務省から全面的な退避勧告が出ている。専門家でもジャーナリストでもないぼくのような人間が行くと公言すると、どう批判されるかわからないと思ったからだ」(『ゲンロン16』)。

事前には黙って行き、事後に書字化して公表する。この運用は、身体的アリバイの効果を最大化しつつ、批判可能性を最小化する装置として機能している。重要なのは、東がこの運用を隠していないことだ。本にちゃんと書いてある。

これは戦略の自覚性の決定的な証拠だが、同時に戦略の透明性でもある。東は嘘をついて行ったわけではない。リスク計算を公開した上で、行って、書いている。哲学者とは身体を張るものである、という宣言の身体的実演として、戦時下渡航は機能している。

そして、この戦略は本書において突発的に発明されたものではない。2013年4月、東はチェルノブイリ取材を行い、『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1』を刊行した。「観光客」のフレーミングはここから始まっている。2017年の『ゲンロン0 観光客の哲学』はその理論化であり、2023年の『訂正可能性の哲学』はその拡張である。本書はその10年以上にわたる戦略の延長線上にある。

ここで重要な観察がある。観光客の哲学の構想は2010年代前半に立ち上がっており、ChatGPTのリリース(2022年11月)よりも10年早い。つまり東がLLMに対する反応として観光客の哲学を考えたわけではない。順序は逆で、観光客の哲学が先にあり、それがLLM時代に事後的に「先取りされていた戦略」として作動し始めたのである。

これは観光客の哲学への評価を変える事態だ。私はこれまで観光客の哲学を、東の知的キャリアの中の一つの理論的提案として読んでいた。しかしLLM時代の本書を読むと、それがAI時代における人文知の生存戦略の事後的な原型として作動していることが見える。東は2010年代に、結果としてこの時代に最も適合する戦略を準備していたことになる。

4. 残余としての固有名と現前

LLM時代の哲学者にとって、固有名と現前が最後の差別化要因になる。これは温等で常識的な結論だが、文脈において意味を持つ。

LLM時代以前なら、「著者がそこに行った」は哲学の付加情報でしかなかった。誰が書いたか、どこで考えたかは、概念の正しさには関わらないはずだった。プラトン主義的な真理観がそれを支えていた。誰が言ってもピタゴラスの定理はピタゴラスの定理である。

ところがLLM時代になると、概念の運動はLLMで代替可能になる。脱身体化された真理だけを取り出せばLLMの方が速い。すると残るのは、脱身体化できない部分である。それが固有名と現前だ。

東が本書でやっているのは、この残余に賭ける戦略の明示的な実演である。

固有名「東浩紀」は、東浩紀にしか持てない。LLMは固有名を持てない、複数のインスタンスが同時に走る匿名の処理装置だからだ。固有名を持つことそれ自体が、人間の差別化要因になる。

現前、つまり身体がそこに行く、現地に立つという経験。LLMは現前できない。サラエボに行けないし、チェルノブイリにも行けないし、戦時下のキーウにも行けない。現前の不可能性がLLMの構造的制約として残る。

この2つの結合体として「東浩紀がウクライナに行った」という出来事が生成され、それが本書として書字化される。本書500ページの存在論的核は、この出来事性そのものだ。概念の凡庸さは戦略の障害ではなく、むしろ戦略を支える要素である。新しい概念を出してしまうと、「新概念のために行った」と読まれて身体性の自己目的性が薄れる。概念が凡庸であればあるほど、身体性の固有性が浮かび上がる

そしてこれが、本書のレビューが「結論ははっきり示されないけど良い本」と書ける理由でもある。読者が買っているのは概念ではない。「東浩紀が現地に行ってこれを書いた」という出来事の固有性に共鳴している。読書が固有名+現前の祝祭への参列として機能している。

5. 人工他者と観測者捕獲

私はこれまで、固有名問題を「人工他者論」で、現前問題を「観測者捕獲」で論じてきた。これらの枠組みで東の戦略を再定式化すると、こうなる。

LLMは固有名を持たない汎用人工他者である。固有名を持つ者だけが、特定の他者として認知される。東はLLM時代に汎用人工他者にならないために、固有名「東浩紀」のブランド価値に賭けている。

観測者ポジションを獲得するには、特定の場所への現前が必要だ。書斎で誰でもアクセスできる二次資料を編集しても、観測者ポジションは生まれない。ある場所に身体を置いて、そこで何かを観測した、という固有の視座だけが、観測者ポジションを成立させる。東は戦時下キーウに身体を置くことで、観測者ポジションを獲得しようとしている。

つまり東のAI時代戦略は、こう定式化できる。

「人工他者(=固有名保持者)として、観測者ポジション(=現前による特権的視座)を確保することで、汎用人工他者(=LLM)に対する差別化を図る」

これは私の枠組みからの定式化であって、東がこう自己理解しているとは言わない。だが東の実践は、結果として、この定式に正確に合致している。

そしてここに「両極格納」の構造が重なる。東は2つの極を一人で抱え込んでいる。

  • 極A: 哲学者は概念で勝負する(プラトン主義の極)

  • 極B: 哲学者は身体で勝負する(現前主義の極)

普通の哲学者はAだけを担当する。普通の戦地ジャーナリストはBだけを担当する。東はA(=ゲンロン主宰、複数の哲学書、訂正可能性論、観光客の哲学)とB(=戦時下ウクライナ滞在、チェルノブイリ取材、ダーク・ツーリズム)を、一人で両極格納している。これがブランドの強さの源泉になっている。

両極格納の典型構造として、両極を同時に保持できるのは「東浩紀」という固有名だけになる。誰も真似できない。だから固有名のブランド価値が上がる。固有名の独占的価値が両極格納によって保証される循環構造が成立する。

6. 経営者としての哲学者:ゲンロン社の生存戦略でもあること

ここでもう一つ、見落とされがちな次元を加える必要がある。本書は単独で書かれた哲学書ではない。雑誌『ゲンロン』連載の単行本化である。「ウクライナと新しい戦時下」は『ゲンロン16』(2024年4月)、「平和について、あるいは『考えないこと』の問題」は『ゲンロン17』に掲載されたものを束ねている。

つまりこの本は、ゲンロン社の経営者である東浩紀が、自社誌連載を商品として束ね直したものである。経営的・流通的な動機が本書の存在条件に組み込まれている。

レビューに「中小企業の経営者だ。深窓の学者様じゃあない」「経営者でもある著者」という言及がある。これは正しく東の二重身分を捉えている。東のAI時代戦略は、哲学者個人の戦略であると同時に、ゲンロン社という事業体の生存戦略でもある。

ゲンロン社の事業構成を見れば、これは明らかだ。チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド(2013)、ゲンロン×H.I.S.チェルノブイリツアー(2013-2018、計5回)、雑誌『ゲンロン』、シラスでの動画配信、戦時下ウクライナ取材+書籍化、すべてが**「東浩紀が現地に行く」という出来事をコンテンツ化する事業構造**になっている。

これは秘境ユーチューバーのビジネスモデルと構造的に同型である。秘境ユーチューバーは、自分が秘境に行くという行為そのものが商品である。撮影した動画は二次的な記録物にすぎない。商品の本体は身体的賭金である。東/ゲンロン社の事業も、東が現地に行くこと自体が一次商品で、本や雑誌や動画は二次的な記録物として流通する。

LLM時代において、この構造は事業体の生存戦略として極めて合理的だ。書斎で書く論文や評論は、LLMによる代替可能性が日々上がっていく。しかし「東浩紀がチェルノブイリに行く」「東浩紀が戦時下キーウに行く」という出来事は、LLMには複製できない。事業体としてのゲンロンは、LLMには代替できない出来事の生産・流通機構として自己再定義しつつある。

7. なぜ「平和と愚かさ」だったのか:対象選定の戦略性

ここで最後の問いに答える必要がある。なぜ平和と愚かさだったのか、という問いだ。なぜ戦争博物館巡りだったのか。

戦争という対象は、戦略的に選ばれている。ここには3つの理由がある。

第一に、身体的賭金の最大化に適している。 戦時下の国に行くこと、虐殺の跡地に行くこと、これらは身体的賭金の高い行為である。観光客の哲学を実演するなら、最も極端な観光地を選ぶ方が戦略的効果が大きい。

第二に、対象の重さが概念の軽さを保護する。 ホロコースト、731部隊、虐殺、戦時下、これらは倫理的に重い対象だ。重い対象を扱う本に「概念的に新しいことよくわからないですよね」と批判するのは、被害の重みを軽視しているように響いてしまう。重い対象が軽い概念を保護する装置になる。これは批判をあらかじめ封じる構造である。レビュアーたちが概念の空虚さを問えなくなるのは、この対象選定の効果である。

第三に、ヴェブレン財としての場所性の演出に適している。 ハイデガーが黒い森の山小屋で『存在と時間』を書いたとされるとき、黒い森というロケーションが哲学のオーラに転化した。「都会の喧騒から離れた場所で書かれた哲学」というブランディング。これは哲学者の伝統芸である。東のサラエボ、チェルノブイリ、戦時下キーウは、ハイデガーの黒い森の現代版として機能する。「ウクライナ・オーラ付き哲学書」として消費される。

つまり**「平和と愚かさ」というテーマと「戦争博物館巡り」というフォーマットの組み合わせは、AI時代の哲学者の戦略実演に最適化されている**。これが偶然このテーマだったのではなく、戦略的にこのテーマが選ばれている。

8. 戦略の限界:固有名を持たない者には何が残るか

ここで本稿の冷静な評価を述べる。東のAI時代戦略は、戦略として優秀だ。だがそれは、既に固有名を持っている者にしか取れない戦略である。

この戦略の成立条件は2つある。

  • (a) 固有名「東浩紀」が読者に既に認知されていること

  • (b) 「現地に行った」という事実が読者に承認されること

(a)は東の30年のキャリア(『存在論的、郵便的』『動物化するポストモダン』『観光客の哲学』『訂正可能性の哲学』)によって既に確保されている。だから本書は成立する。サントリー学芸賞、三島由紀夫賞、毎日出版文化賞、紀伊國屋じんぶん大賞、というブランド資産がある。

しかし、これは新人哲学者にはコピーできない戦略である。固有名を持たない哲学者が同じことをしても、誰も読まない。戦時下ウクライナに行っても、無名の人間が行っただけでは出来事として流通しない。

つまり東のAI時代戦略は、ブランド資産の延命策としては機能するが、人文知一般の生存戦略にはならない。固有名を既に持つ者が固有名に賭けるのは循環論法であって、新たに哲学者になろうとする者に対しては何も示していない。

これは私が以前展開した「ニーメラー構造論」と関連する。LLMによる認知労働の置換は、最初に最も自動化しやすい層から進行し、徐々に上位の労働を侵食していく。東は現在のところ食われていない。固有名と身体を担保にして、LLMが届かない層に身を置いている。だが、これは解決策ではない。東は食われていないだけで、続く者の道を開いているわけではない

むしろ事態はもっと深刻である。東の戦略が成功すればするほど、若い哲学者・批評家・人文学者は、固有名と身体的賭金の競り合いに巻き込まれる。書斎で書ける論文はLLMが書く。机上で計算できる分析はLLMがやる。残るのは身体が現地に行ったこと。だから知的労働者は皆、現地に行くようになる。学者は戦地に行き、ジャーナリストは紛争地に行き、評論家は災害現場に行く。身体的賭金の競り合いが知的労働の差別化軸になる

そしてこの競り合いには、構造的なエスカレーション圧力がかかる。1週間のウクライナ滞在で差別化できなくなれば、1ヶ月の滞在に進む。1ヶ月で差別化できなくなれば、前線に行く。前線で差別化できなくなれば、戦闘地域に行く。身体的賭金の競り上げにはエスカレーション圧力がかかる

これは観測者捕獲の極限形態である。自分が「身体を張る哲学者」というポジションを取った結果、そのポジションを維持するためにより大きく身体を張り続けないと哲学者でいられなくなる位置に、自分を追い込んでいくことになる。

そしてさらに深い問題がある。「身体を張ること」が哲学になるとき、哲学=身体行為に解体される。私が以前展開した「目的論2026」の手段の自己目的化、その典型的な現代事例がここに発生する。

(1) 哲学者として残ることが目的 (2) そのために身体を張ることが手段 (3) 身体を張る行為が哲学者性を担保するなら、身体を張ることそのものが哲学になる (4) すると哲学=身体を張ること、という再定義が成立する (5) 哲学者は身体を張れば張るほど哲学者になる

第5段階は、目的と手段の倒立である。最上層の「哲学者として何かを生産する」という目的が、中間層の「身体を張る」という手段に吸収されて消えてしまう。身体を張ること自体が哲学だと言い始めた瞬間、哲学は身体行為に解体される

最も極端な身体的行為をした者が最も哲学者である、という論理を最後まで貫徹すると、戦地に行くより前線に行く方が哲学的になり、前線に行くより銃弾を浴びる方が哲学的になる、という競り上げの論理が成立してしまう。これは哲学者の自己定義としては破滅的な経路である。

東がここまで進む必要があるとは思わない。だが、東の戦略をそのままコピーする若い哲学者・批評家がもし出てくるなら、彼らはこのエスカレーション圧力に巻き込まれる。固有名のブランド資産がない分、彼らは身体的賭金の規模で勝負するしかなくなる。これは破滅的な構造である。

9. 素材の選び方:手つきはデビュー作から変わっていない

ここで一つ、本書を読んで気づくべき重要な事実がある。東の素材選定の手つきは、1998年のデビュー作から1ミリも変わっていない

『存在論的、郵便的——ジャック・デリダについて』(1998)第一部の主要素材は、デリダの『絵葉書 ソクラテスからフロイトへ、その彼方』(1980)である。これは絵葉書を起点に、フロイト宛と思しき「ラブレター」が断片的に綴られていくテクストで、差出人と受取人、固有名と一般性、私的なものと公的なものが攪拌される。形式そのものが郵便的で、内容は私的書簡という極めて情動価の高い素材である。

ラブレターは、それ自体がヴォーレン語である。命題内容ではなく、情動・意志・宛先関係に直接作用する言語形態。「ラブレターを哲学的に分析する」という設定そのものが、読者の情動に作動する装置になる。

そして本書『平和と愚かさ』の主素材は戦争博物館である。戦争博物館もまた、それ自体がヴォーレン語装置である。来館者の情動を操作するために設計された空間で、命題的な歴史記述ではなく、追悼・哀悼・憤り・誓いといった情動を直接喚起することを目的としている。展示物の選定、動線、照明、説明パネルの簡潔な文字、すべてがヴォーレン語的に設計されている。

両者に共通するのは、素材それ自体がヴォーレン語であり、その素材を扱う書物もまたヴォーレン語として作動するという二重構造である。デリダの絵葉書を扱う『存在論的、郵便的』は、デリダの私的書簡を読み解きながら、それ自体が哲学的ラブレターの体裁をとる。戦争博物館を扱う『平和と愚かさ』は、戦争博物館の情動操作を分析しながら、それ自体が戦争博物館的な情動装置として機能する。

東のキャリアを見渡すと、この手つきはあらゆる主著に通底している。

  • 『存在論的、郵便的』(1998): 素材=デリダの絵葉書(ラブレター)、ヴォーレン語性=私的書簡の親密さ。

  • 『動物化するポストモダン』(2001): 素材=美少女ゲームとオタク文化、ヴォーレン語性=サブカルチャーへの愛着。

  • 『ゲンロン0 観光客の哲学』(2017): 素材=チェルノブイリと観光地、ヴォーレン語性=旅と他者性のオーラ。

  • 『平和と愚かさ』(2025): 素材=戦争博物館、ヴォーレン語性=戦争と追悼の重み。

論点は変わる。素材は変わる。だが手つきは変わらない。情動価の高い素材を選ぶ→哲学的に読み解く形式をとる→素材のヴォーレン語性が書物のヴォーレン語性に転送される→読者の情動が動く→「深い哲学書」として流通する、という運用である。

これは観測者捕獲とも両極格納とも違う、もう一つの装置運用——素材のヴォーレン語性の搭載——として記述できる。命題的に薄い議論でも、素材のヴォーレン語性が読者の情動を動かすことで、本全体としては「深い」と感じられる。本書のレビューに「結論ははっきり示されないけど良い本」「考え込む」「再読要」が並ぶのは、命題内容ではなくヴォーレン語性が読者を動かしているからだ。

つまり本書は、LLM時代の戦略的実演であると同時に、東浩紀の作家的手癖の最新版でもある。前者の側面だけを見れば、本書はAI時代に向けて新しく組み立てられた戦略書に見える。だが後者の側面を見ると、本書は1998年から続く同じ作家的運用の継続にすぎない。

東は東である

LLMが到来しようがしまいが、東は同じ手つきで本を書く。情動価の高い素材を選び、それを哲学的言説で包み、ヴォーレン語装置として流通させる。たまたま戦時下ウクライナという素材が、LLM時代に最大の戦略的価値を持っただけで、手つき自体はデリダのラブレターを論じていた頃と同じである。

これは東への批判でもあり、評価でもある。批判としては、東が28年のキャリアの中で作家的手癖を更新していないことを意味する。評価としては、東が28年前から既にヴォーレン語装置の運用を確立していたことを意味する。LLM時代の戦略の先取りは偶然ではなく、東がもともとヴォーレン語的素材選定の達人だったことの帰結である。

10. 問いを開く:固有名を持たない者は何ができるのか

東はなぜ『平和と愚かさ』を書いたのか、という冒頭の問いに、ここで答えることができる。

LLM時代に哲学者として生き残るための戦略を、自社メディアの経営者として実演し、書字化して流通させるためである。同時に、1998年のデビュー作から続く東浩紀の作家的手癖の自然な延長として、最も情動価の高い素材(戦争博物館)を選んで書いたものでもある

哲学的概念の生産が目的ではない。歴史的事実の発見が目的でもない。本書の目的は、「東浩紀がウクライナに行ってこれを書いた」という出来事そのものを商品として成立させることにある。500ページという物量、紀行文という形式、戦争博物館という対象選定、これらすべてが、その目的に対して最適化されている。

そして繰り返すが、これはバカにする話ではない。戦略として明晰で、実演として完璧である。観光客の哲学(2017)からの10年以上の準備があり、ゲンロン社の事業構造との整合性があり、ニーチェ→デリダ→リクールという哲学的系譜のパッケージングがあり、「秘密に行って事後に書字化する」という運用の透明性がある。ここまで作り込まれた戦略実演は、それ自体として観察に値する事象である。

問題は、本書が哲学書として何を達成したか、ではない。本書がLLM時代の人文知の現状について何を露出させたか、である。

本書が露出させているのは、こういう事態である。

知的労働の脱身体化された部分は、LLMによって次第に代替されていく。残るのは、身体が現地に行ったこと、固有名が刻まれていること、という出来事性の領域である。この領域に賭けることが、人文知の生存戦略として浮上している。東はこの戦略をいち早く準備し、実演している。本書はその実演の書字記録である。

しかしこの戦略は、固有名のブランド資産を既に持つ者にしか実行できない。新規参入者にはコピー不可能である。そして、競り合いはエスカレーション圧力を持つ。

ここで問いが立つ。

固有名を持たない者は、LLM時代に何ができるのか。

身体を張れない者、現地に行くリソースを持たない者、ブランド資産のない者、彼らに残された道は何か。

ひとつの答えは、東のような戦略を諦めて、LLMに代替される側に降りることだ。これは多くの若い書き手の現実である。

もうひとつの答えは、別の戦略を発明することだ。固有名と現前に頼らない、別の差別化軸を見つけること。それが何かは、今のところわからない。

そしておそらく、最も興味深い答えは、こうなる。固有名と現前に頼る東の戦略そのものが、LLM時代の人文知の最終形ではない、という認識である。東の戦略は、まだLLMが完全には到達していない領域を一時的に占拠しているにすぎない。やがてLLMはマルチモーダル化し、ロボティクスと統合され、現地に行くこと自体を代替し始めるかもしれない。そのとき、現前という最後の砦も崩れる。

そのとき、哲学者は何をするのか。

これが本書を読み終えた後に残る問いである。東は本書でこの問いに答えていない。答えていないどころか、問いを立てることすらしていない。彼は自分の戦略を実演しているだけで、その戦略の限界を反省していない。

だからこの問いは、本書の外側で立てられなければならない。本書を読み終えた読者の側で、立てられなければならない。

東はなぜ『平和と愚かさ』を書いたのか。それは、AI時代の哲学者の生存戦略を実演するためである。そしてその実演を読み解くことで、私たちは別の問いに進むことができる。固有名と現前に頼らない、もうひとつの哲学はありうるか

その問いは、まだ誰も答えていない。

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