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洗脳が解けてゆくプロセス

アンドレ・ジッド『女の学校・ロベール』

この夫婦、怖すぎる。

でも
その怖さってDVとか不倫とか、
そういうわかりやすい話じゃない。

もっと静かで。
もっと日常的で。
だからこそ逃げられない。

読んでいるうちに気づく。

この物語で一番恐ろしいのは、
自分は正しいと信じ切っている人なんだって。

『女の学校』は、
エヴリーヌの日記という形で進んでいく。

最初の彼女は、
とにかくロベールが大好き。

尊敬してる。
信頼してる。
この人についていけば幸せになれる
って信じてゐる。

でも
その日記は少しずつ変わっていく。

夫の言葉と行動が噛み合っていないこと。

優しさだと思っていたものが、
実は支配だったこと。

愛情だと思っていたものが、
自分を思い通りに動かしたいだけだったこと。

その全部に気づいてしまう。

この作品って、
劇的な事件なんて起きない。

なのに、ページをめくるたび空気が重くなる。

人が覚醒していく瞬間って、
こんなにも苦しいんだって思わされた。

でもジッドは、それで終わらせない。

その続きが『ロベール』

これ、本当に意地悪な構成。

だって今度は、
夫本人が反論を始めるから。

しかも彼、
自分では本気で「善人」だと思ってゐる。

ここが一番ゾッとした。

ロベールは嘘をついているわけぢゃない。
むしろ、自分の言葉を全部信じている。

だから怖い。

君のためなんだ。
私は正しいことをしてゐる。
これはみんなの利益になる。

そうやって語る彼の言葉は、
一見すると全部まとも。

論理も通ってる。
社会的にも評価されそう。

でも読んでいる側にはわかる。

その正しさが、
1人の人間を苦しめているってことを。

ケメコ、
この作品を読んでいて何度も思った。

偽善って、
悪意から生まれるんぢゃない。

私は善人です。

そう信じた瞬間に始まるんじゃないかって。

ジッドは、
人間の自己正当化を本当に容赦なく描く。

ロベールを責めていたはずなのに、
途中から自分まで刺さってくる。

誰だってあると思ふ。

相手のため。
正しいことだから。
常識だから。

そんな理由を盾にして、
自分を守ってしまう瞬間。

この小説は、
その逃げ道を全部塞いでくる。

面白いのは、
ジッドが、
どっちが正しいか
を最後まで決めないこと。

エヴリーヌだけが正義。
ロベールだけが悪。

そんな単純な物語ぢゃない。

読者自身が裁判官になるしかない。

でも
その裁判官だって本当に公平なのか。

そう問いかけてくる。

ジッドって、答えを書く作家ぢゃない。
問いを置いていく作家なんだと思ふ。
しかも、一生終わらない問いを。

およそ100年前の小説なのに、
不思議なくらい今の時代にも刺さる。

SNSを開けば、
みんなが正しい自分を見せようとしてゐる。

優しい人。
理解ある人。
意識の高い人。
正義の側にいる人。

そんなイメージを作ることに必死になってゐる。

でも、その姿ってロベールと本当に違うんだろうか。

だからこの2部作は、

人はどうやって自分に嘘をつくのか。

その仕組みを解剖する小説なんだと思う。

しかも、そのメスは読者にも向けられてゐる。

読後、スッキリなんて全然しない。
むしろモヤモヤだけが残る。

そのモヤモヤこそがジッドの狙いなんだろうなって思ふ。

本当に自由な人って、
いつでも自分を疑える人なんぢゃないかな。

自分の正義も。
自分の善意も。
自分の優しさも。

全部、一度は疑ってみる。

それはすごく苦しい。

その苦しさから逃げないことが誠実なんだと、
ジッドは静かに語っている気がした。

ケメコにとって『女の学校』と『ロベール』は、
人間の心の奥にある自己欺瞞を映し出す鏡だった。

そして、その鏡は100年経った今でも、驚くほど鮮明だった。