レズビアン的外部委託と死んだ太陽:なぜ美少女イラストが溢れているのか
この記事は現代の日本及び、僕たちが生きているこの東京的な世界観が、なぜアニメ風のイラストに侵食されているのか、そしてそれになぜ違和感を感じないのかを考察する記事である。そしてこの記事における重要な概念は太陽だ。
一つだけ先に断っておきたい。僕は20代だ。つまりZ世代に分類される人間であり、生まれたときからインターネットがあり、アニメを観て育ち、ハイパーリンクを踏んで、ガチャゲーが好きな人間だ。これから書くことは「最近の若い者は」という老人の説教じゃない。僕自身がこの構造の内部にいる人間として、自分が浸かっている水の温度を測ろうとしている。つまり批判の対象に僕自身が含まれている。そしてまた、僕たちの不可逆的な身体性の否定を容認する社会への批判でもある。
君が今見ているnoteで適当な単語("AI"でもいいし"記憶"でもいいし、"小説"でもいい。)で検索してみてほしい。するとそこにはサムネイルが並んでいる。どうだろうか、2026年5月現在では、aiを用いたサムネイルで埋め尽くされるはずだ。(僕はaiを用いた画像生成を否定するつもりはないし、これは時代のセンスだ。)でもよく観察してみてほしい。多分そこに映っている人間の形をした画像はほとんどが美少女イラストもしくは、フォトリアリスティックな美女のCGではないだろうか。
これは書き手の主体性の現れだろうか?僕はそうとは思わない。アニメ風イラストに使われるペルソナはほとんどが、10代から20代までの女性だ。だけど、複数のサードパーティ分析によれば、noteのユーザー層は男性が60〜70%、年齢の中央値は30代前後だ(note株式会社のIRはユーザー属性を開示していないから、正確な数字は誰にもわからない。だけど方向性は明らかだ)。10代女性のペルソナが支配的なプラットフォームで、書き手の統計的プロファイルは30代以上の男性。この乖離は「好み」では説明できないはずだ。
これはXにも同じことが言える。Xでは常にアニメアイコンが蔓延している。(僕のnoteのアイコンもaiで作ったイラストだけどね。中性的か、女性的か男性的かは君に任せよう。)あの、openaiのsam altmanですら、ジブリ風のフィルターを通したai画像だった。snowやinstagramを見ると別人になる加工フィルターがある。つまり書き手の主体と乖離したペルソナがアイコンになっている。
僕はべつに驚かない。もう何年もこの光景を見てきたし、僕の友達もこの類のアイコンだ。だけど、ここで一つだけ問いを立てさせてほしい。なぜ、醜い顔のアバターがないのか。なぜ、中年男性の顔をしたアニメアイコンがないのか。なぜ、中性的な外見が選ばれないのか。なぜ、老いた肌が、脂肪の塊が、毛穴が、汗が、そこに存在しないのだろうか。
「好みの問題でしょ」と言いたくなる気持ちはわかる。だけど、それは答えになっていない。好みがなぜ一方向に収束するのかという問いに「好みだから」と答えるのは、トートロジーだ。僕がこれから書くのは、この収束の構造についての批判であり、美学の批判であり、それを通じた現代の欲望の経済学的な論考だ(反形式的なので、エセーと呼んだ方が誠実かもしれない)。これはAI批判ではないしイラスト批判でもない。そして、AI美少女イラストは、僕がここで批判する構造の「発明」ではなく「民主化」にすぎない。構造自体はもっとずっと前からある。
1. クトニックなものなきアポロン
In the beginning was nature.
カミーユ・パーリアが『Sexual Personae』の冒頭に置いたこの一文は、西洋芸術の歴史全体を貫くテーゼの要約だ。(ここからよめる、このエセーを読むより有用かもしれない。→
https://api.pageplace.de/preview/DT0400.9780300182132_A23633682/preview-9780300182132_A23633682.pdf)
パーリアにとって、自然とはクトニックなもの、つまりは地下的なものだ。腐敗や過剰な繁殖、肉体の溶解、時間による崩壊。攻撃性と過剰殺戮が沸き立つ蜂の巣。僕たちの身体が毎日少しずつ老いて崩れて朽ちていくこと。皮膚の下で細胞が死に続けていること。汗と脂と体液が、僕たちの表面を絶えず侵食していること。これがクトニックな自然の実相であり、パーリアはこれを直視することから芸術論を始める。
(パーリアがわざわざ「ディオニュソス的」ではなく「クトニック」という語を選んだのには理由がある。ディオニュソスという概念がもはや快楽主義とほぼ同義になり、本来の暗さが失われているからだ。彼女の言葉を借りれば「ディオニュソス的なものはピクニックではない」だ。だけど便宜上、この記事ではディオニュソス的という語も使い続ける。僕が指し示しているものがクトニックな暗さの方だということは、ここで明示しておく。)
西洋芸術の歴史は、このクトニックな自然に対するアポロン的な抵抗の歴史だ。アポロン的なものは、クトニックな混沌を「見えるもの」に変換し、知性に読解可能な形式を与える。(現代には言語化能力という概念が存在するが、言語化できないものを受け入れる能力については世間はそれを受け入れたがらない。)彫刻が肉体を石に凍結し、絵画が瞬間を平面に固定し、建築が空間を幾何学で区切る。これらすべてが、クトニックな自然の侵食に対する防衛壁だ。
だけど、ここで決定的に重要なのは、偉大な芸術はこの防衛壁の「内部」にクトニックなものの痕跡を保持していたということだ。
ネフェルティティの胸像を見よう。パーリアはこれを「混沌を否定する芸術的戦略」の最初の頂点として分析する。スフィンクス的な両性具有の顔、凍りついた美、知性に読解可能にされた形式。だけど、あの胸像が美しいのは、その凍結の向こう側に、凍結されなかったもの、つまりクトニックな自然の力が透けて見えるからだ。形式の中に、形式に抵抗するものの気配がある。

Photo: Deutsche Orient-Gesellschaft (DOG) CC BY-SA 4.0
パーリアはこれを「混沌を否定する芸術的戦略の最初の頂点」と呼んだ。
ミロのヴィーナスはどうだろうか?腕がない。その欠損は時間の暴力、つまりクトニックな力そのものの痕跡だ。にもかかわらず(あるいはそれゆえに)あの像は美しい。欠損が、完全な形式の内部に不完全性を刻印し、見る者にクトニックなもの、つまり時間と崩壊と死を感じさせる。だからあれは「生きた美」なのだ。
ゴヤの「黒い絵」はどうだろう。

あれはクトニックなものが形式の表面を突き破って噴出した瞬間だ。醜く、恐ろしく、だけど圧倒的に美しい。(フランシス・ベーコンはこの論理をさらに極端に推し進めた。肉体が溶け、歪み、痙攣する肖像画。僕たちの身体が本当はどのように存在しているかを描いた絵だ。綺麗な顔の下にある筋肉と脂肪と骨の塊。ベーコンはそれを直視し形式に変換した。)美と醜の境界が溶解し、その溶解自体が新しい美学的経験を生み出しているはずだ。(いやBreaking BadやNEEDY GIRL OVERDOSEをパーリア風にレビューするのも面白いかもね)
これが芸術における美の条件だ。クトニックなものとの格闘を通過していることだ。
さて、美少女イラストを見る。
イラストに共通するのは、傷のない肌。老いない身体。重力に逆らう髪。毛穴がない。汗がない。脂肪の質感がない。時間の痕跡がない。崩壊の気配がない。死の影がない。(一部のリョナ的属性を持つイラストはここでは排除してあくまで統計的な物としての美少女イラストを仮定している)
これはアポロン的な美の極限ではなく、アポロン的なもの自体の退化形態だと僕は考える。 本来のアポロン的形式はディオニュソス的なものとの闘争を内包している。その闘争があるからこそ、形式に張力があり、美に生命がある。美少女イラストにはこの闘争の痕跡が一切ない。戦って凍ったのではなく、最初から凍っているだけだ。闘争の記憶を持たない凍結。それは美ではなく、美の死体標本だ。
(「美少女イラストだって多様だ」「暗いテーマのイラストもある」という反論が来るかもしれない。だけど、ここで僕が問題にしているのは個別の作品の質ではなく、メディア空間全体を覆っている美学的規範の構造だ。noteのサムネイルに並ぶ顔の統計的分布を見てほしい。そこに老いた顔はない。醜い顔はない。中性的な顔もほとんどない。(僕は中性的な美が好きなので今の現状は少し寂しい)問題は個別の作品ではなく、この収束のパターンそのものにある。)
ニーチェの『悲劇の誕生』に戻ろう。ニーチェが古代ギリシア悲劇を論じたとき、彼が言ったのは、"ギリシア人が偉大だったのはディオニュソス的なもの、つまり解体、陶酔、個体化の崩壊、苦痛を直視した上で、それをアポロン的な形式で捉え直したからだ"ということだった。悲劇の舞台で起きていることは恐ろしいが、その恐ろしさが形式を通じて「見えるもの」になったとき、そこに美が生まれる。つまりは、美はカオスの否定ではなく、カオスを通過した後の物なのだ。
ニーチェはエウリピデスを批判した。エウリピデスがやったのは、悲劇からディオニュソス的なものを排除し、ソクラテス的な合理性で舞台を支配することだった。理性によって苦痛を排除できるという楽天主義をニーチェは悲劇の死と呼んだ。

美少女イラストは現代のエウリピデスだ。 クトニックなものを合理的に排除し、苦痛のない形式だけを残した。そこに悲劇はなく、したがって美もない。あるのは美の形式的な残骸、つまりアポロンの骨だ。
2. 与える芸術家と受け取る末人
ニーチェの『力への意志』に、芸術家と受容者の関係についての重要な議論がある。僕なりに要約するとこうだ。
受容性の問いを偏重する女性の美学が、芸術についての僕たちの理解を支配してきた。「美しいとは何か」「美しいものを前にして人間は何を感じるか」という問い、つまり受け手の側からの問いが、美学の歴史の大半を占めてきた。ニーチェはこれに対して、芸術家の側から芸術を理解すべきだと主張する。芸術家は「与える者」だ。与えるものである芸術家に対して、女性になることを、つまり何かを受け取ることを要求するべきではないとした。
この主張は表面的にはジェンダー論に見えるかもしれない。だけど、ニーチェがここで展開しているのは、芸術の生産と消費の間にある経済学的な非対称性の問題だ。芸術の生産(=男性的=与えること=浪費)と、芸術の受容(=女性的=受け取ること=蓄積)の二項対立は不安定で、明らかに抑圧から花開いている。だけど同時に、この不安定性こそが、ニーチェの芸術論を「理解可能な人間の経済の外部」へと逸脱させる推進力になっている。
「与える者」としての芸術家。この定式を真剣に受け取ると、芸術の本質は浪費にあることになる。芸術家は自分自身を消尽させ、自分の中にあるものを外部に放出する。それは見返りを求めない一方的な贈与だ。バタイユがのちに「蕩尽(dépense)」と呼んだもの。太陽が見返りを求めずにエネルギーを放射するように、芸術家は自分を燃やしている。
(昨今の日本ではアダム・グラントの「ギバー・テイカー」論が自己啓発として消費されているが、僕はあの言葉が嫌いだ。なぜなら、グラントの「ギバー」は見返りを期待した戦略的な贈与だからだ。「ギバーになれば成功する」という命題自体が、贈与を蓄積の手段に変換してしまっている。ここでのニーチェが言う「与える者」は、成功するために与えるのではなく自分を消尽させるために与える存在だ。太陽は「ギバー戦略」で光っているのではない。燃えているから光るのだ。つまりグラント的な「ギバー」は、与えるふりをした受容者にすぎない。彼らは「与えることで受け取る」のだからだ。この区別を理解できないまま、このプラットフォームでギバーになれ的なことを言っている記事はai slopと同じだと思っている)

三島由紀夫は、この論理を文字通り身体で実行しようとした人間だ。『太陽と鉄』で三島が書いたのは、言葉(精神)と肉体の分裂を自覚し、その分裂を肉体の鍛錬で縫合しようとする試みだった。三島は自分の身体が貧弱で醜いと認識した上で、ボディビルディングで身体を作り変えた。そして最終的に、その身体を切腹で消尽させた。これはニーチェ的な「与える者」の論理の極限的な実行だ。与えるとは、自分を使い尽くすことだ。(三島の方法が正しかったとは僕は思わない。だけど少なくとも三島は自分の身体を賭けた。賭け金がゼロの勝負を「創造」と呼ぶことに、僕は同意できない。)
さて、ツァラトゥストラの序説に戻る。ニーチェは末人(der letzte Mensch)についてこう書いた。
Ich sage euch: man muss noch Chaos in sich haben,
um einen tanzenden Stern gebären zu können.
踊る星を産むには、まだ自分の中に混沌を持っていなければならない。
末人はこの混沌を手放した存在だ。末人たちは言う、「我々は幸福を発明した」と。そしてまばたきする。末人の世界には苦痛がない。危険がない。闘争がない。すべてが快適で、すべてが管理されている。末人は働き、娯楽を消費する。小さな毒を少しずつ摂取して、心地よい夢を見る。誰も支配者にはなりたがらず、誰も服従者にもなりたがらない。どちらも骨が折れるからだ。
美少女アバターの使用者は、美学における末人だ。自分の中のクトニックな混沌、つまり自分の肉体の醜さ、老い、脂肪、毛穴、汗、そういったものと向き合う代わりに、AIが生成した美しい顔を貼り付けて「幸福を発明」している。踊る星を産む混沌を手放し、混沌の上にきれいな画像を貼っている。そしてまばたきをする。
だけど、ニーチェの芸術論が本当に面白くなるのは、この先だ。ニーチェの思考をそのまま追求し続けていくと、芸術を導きつつ同時にそれを破壊する、非人間的な浪費にたどり着く。人間が理解可能な経済の外部への逸脱。ここからは、ニック・ランドのバタイユ読解を経由する必要がある。(最近nick landのテクストを深く読みこんでいるし、僕の突発的な行動だ。別にニックランド研究者じゃないし、信仰してもいない。)
3. ロボトミー済みのオタクと去勢の経済
ニック・ランドは『絶滅への渇望(The Thirst for Annihilation)』でバタイユ経由のニーチェ読解を展開した。ランドのテクストは意図的に学術的な透明性を拒絶しているから、ここでは僕なりの再構成として読んでもらいたい。
ランドが提起する去勢の問題は、以下のように定式化できる。
" 去勢とは純粋で究極的な欠如の経済を配分することにかかわる問題であり、だからこそ、自らが占有しているという何かを奪われるという問題系に容易に結びついていく。"
去勢は、何かを「奪われる」という出来事ではなく、欠如そのものをどう管理するかという経済の問題だ。欠如を管理し、補填し、代替物で埋め、流通させる。これが「去勢の経済」だ。(因みに、ランドの去勢論はフロイト=ラカンの去勢概念をバタイユ的な一般経済学で読み替えたもので、本来は無意識の構造化プロセスについての議論だ。僕がここでやっているのは、このランドの再定式化をさらにオタク文化に再適用するという二重の翻訳作業であり、翻訳で失われるものがある。特に、精神分析的な深度は犠牲にしている。僕がこの後「自己去勢」と書くとき、意識的な選択を意味しているのではない。苦痛回避の反復が無意識のレベルで欲望の構造を再編成するプロセスを指している。)
ここで、模倣の強制(Nachmachung)の問題が接続される。芸術家が市場や観客の欲望に応答すること、つまり「受け手が求めるもの」を作ること自体が、一種の去勢になる。ニーチェが「与えるものである芸術家に、女性になることを要求するべきではない」と主張したのは、この文脈で読むべきだ。模倣の強制によって、芸術家は「与える者」から「受け取る者」の位置に転落する。生産者でありながら、実質的には受容者の欲望を受け取り、それに応答する存在になる。芸術家がプロレタリア的な脱構成状態に追いやられる。
この脱構成は、去勢によって「純粋な敬虔さへの蒸留」として捉えることができる。
どういうことか。
欲望は本来、常に新しいものだ。つまり、Aの欲望が満たされたら、Bの欲望が湧く。Bが満たされたらCが来る。欲望は連鎖的にエスカレートし、洗練された構築物をどんどん台無しにしていく。太陽の蓄えを燃やし尽くす焼畑農法であり、そのなかでの痙攣的な逸脱によって欲望のプロセスは強化される。
(ここでナシーム・ニコラス・タレブの概念を借用したい、この欲望の性質はまさにアンチフラジャイルだ。アンチフラジャイルなシステムは、ストレスや撹乱によって壊れるのではなく、むしろ強化される。欲望が抑圧されず、そのまま走ることを許されるとき、欲望はストレスや逸脱を栄養にして、より激しく、より多様に増殖していく。欲望のアンチフラジリティ。これが僕の定式だ。)
だけど、去勢はこのアンチフラジャイルな連鎖を断ち切る。
去勢によって欲望のエスカレーションが停止すると、残るのは「対象への反復的崇拝」だけだ。A→B→Cという連鎖が切断され、Aに対する反復的な崇拝、つまり敬虔さだけが残る。これが「純粋な敬虔さへの蒸留」だ。欲望は蒸留される。揮発性の高い成分、つまりエスカレーションする力、逸脱する力、構築物を台無しにする力、これらが蒸発で取り除かれ、残留物として「敬虔さ」だけが残る。
オタクの美少女への関係性は、まさにこの構造を持っている。
本来の欲望であれば、美少女に惹かれるという経験は出発点にすぎない。そこから身体的な関係への欲望が生まれ、その関係の中で傷つき、拒絶され、変容し、新たな欲望の形態が生まれる。欲望はA→B→Cとエスカレートし、痙攣的な逸脱を経験し、その逸脱によって強化される。美への惹かれが、身体性を通じて、醜さの経験を通じて、苦痛の経験を通じて、より深い美の理解へと変容していく。これが欲望のアンチフラジャイルな運動だ。
去勢がこの連鎖を断ち切る。つまり、美少女イラストを消費するという行為が欲望の終点になる。エスカレーションはない。逸脱もない。変容もない。同じ対象への反復的崇拝。同じ形式の美を、繰り返し、繰り返し消費する。A→A→A→A。これは敬虔さだ。修道士が同じ祈りを繰り返すように、オタクは同じ形式の美を繰り返し消費する。(エスカレーションが消えた欲望、反復的崇拝の下における美は現在値が将来値の最良推定となる。今日の美少女イラストが明日の美少女イラストと等価。どこにも到達しない反復。敬虔さとは欲望のマルチンゲール化のことだ。)
(ここで重要なのは、この去勢が外部から強制されたものではないということだ。これは自己去勢だ。欲望のアンチフラジャイルな連鎖がもたらす苦痛、つまり拒絶、傷つき、身体的な失敗、醜さとの直面、これらを回避するために、自分で自分の欲望の連鎖を切断している。ロボトミー手術みたいだ。問題を消すのではなく、問題を感じる能力を消す。)
ここで、ニーチェの芸術論とランドの去勢の経済学が合流する。
ニーチェの芸術論が志向しているのは「理解可能な人間の経済の外部への逸脱」だ。芸術は人間的な交換や蓄積の論理を超えた、非人間的な浪費として理解されるべきだ。この非人間的な浪費が芸術を導きつつ、同時にそれを破壊する。
去勢の経済は、この逸脱の正反対だ。去勢の経済は、欲望を人間の理解可能な範囲内に閉じ込める。欠如を管理可能な形に変換し、代替物で補填する。美の欠如をAI画像で補填する。身体的卓越の欠如をデジタルなアバターで補填する。自己超克の欠如を、美しいサムネイルを貼ることで「超克したこと」にする。すべてが管理され、すべてが理解可能で、すべてが人間的な経済の内部に収まっている。
ニーチェ=ランド的な芸術は「与えること」であり「浪費」であり「消尽」だ。AI画像生成は、この浪費を完全にゼロに還元した。プロンプトを入力するだけ。(時代が進むと今のプロンプトの形式がもっと易化するかもしれない)身体的消耗や時間的消尽はほぼゼロだ。(GPUかサブスクリプションモデルのコストはあるがコストは限りなく低いはず。)これは浪費の否定だ。「与える」行為の否定だ。そこにあるのは純粋な受容、つまり「受け取る」ことだけだ。
バタイユは太陽の経済を語った。太陽は見返りを求めずにエネルギーを放射する。蕩尽。純粋な浪費。芸術はこの太陽経済の一つの様態だ。AI画像生成は太陽経済の正反対にある。それは節約の経済、効率の経済、欠如の管理の経済だ。非人間的な浪費ではなく、非人間的な節約。
4. 黒い太陽
バタイユの太陽の経済をもう少し掘らせてほしい。ここが、デリダを乗り越える分岐点になるからだ。
プラトンの『国家』第七巻、洞窟の比喩を引用しよう。
And if he were compelled to look at the light itself, would not that pain his eyes, and would he not turn away and flee to those things which he is able to discern and regard them as in very deed more clear and exact than the objects pointed out?
And if someone should drag him thence by force up the ascent which is rough and steep, and not let him go before he had drawn him out into the light of the sun, do you not think that he would find it painful to be so haled along, and would chafe at it, and when he came out into the light, that his eyes would be filled with its beams so that he would not be able to see even one of the things that we call real?
光そのものを見ることを強いられたとき、目が痛み、見分けられるものの方へ逃げ帰ろうとする。荒く険しい坂道を力づくで引きずり上げられ、太陽の光の中に引き出されたとき、苦痛を感じ、目は光線で満たされ、実在と呼ばれるものを一つも見ることができない。プラトンは光の衝撃がまず初めに痛みであることを認めている。洞窟の囚人が太陽の下に引きずり出されたとき、最初に起きるのは啓蒙ではなく苦痛だ。目が灼かれる。光に適応するまでの間、囚人は洞窟の中にいたとき以上に何も見えない。真理との遭遇は、快適な「理解」ではなく、まず感覚器官を破壊する暴力として訪れる。

『プラトンの洞窟の寓話』1604年
現象学はこの痛みを消し去った。フッサールの志向性は、意識と対象の関係を「〜へと向かう」という平穏な構図に変換し、光が目を灼くという暴力を方法論的に括弧に入れてしまった。ハイデガーのアレーテイア(真理=覆いを取ること)も同様だ。覆いを取ることは、プラトンの洞窟では身体的拷問に近い経験だったのに、ハイデガーの手にかかると穏やかな「開示」になってしまう。(現象学的還元とは、ある意味では太陽から目を逸らすための方法論だ。プラトンの囚人が洞窟に逃げ帰りたがったのと同じ衝動を、哲学的方法として制度化したもの。)
バタイユはプラトン的な痛みを取り戻す。だけど、バタイユの太陽はプラトンの太陽ではない。
プラトンの太陽は善のイデアの比喩だった。つまり、苦痛を伴いはするが、その先に「真理」や「善」がある。苦痛は通過儀礼であり、適応すれば目は太陽を見ることができるようになる。プラトンの太陽は最終的には健康な光源だ。
バタイユの太陽は病んでいる。
ランドは『絶滅への渇望』でバタイユの太陽論をこう読み解いた。太陽は何かを照らすために光っているのではない。太陽は燃えているから光るのであり、光ることは燃焼の副産物にすぎない。ランドの言葉で言えば、太陽からのエネルギーは"一方的に、無設計に放出される"ものだ。地球に届く太陽放射のうちのごく一部が、僕たちの全てを動かしている。生命とは、エネルギー経路上の一時停止であり、太陽の崩壊の不安定な複雑化にすぎない。
(ここでバタイユの『呪われた部分(La part maudite)』を参照したい。バタイユの基本命題はこうだ。地球表面のエネルギー戯れの中に置かれた生きた有機体は、通常、生命維持に必要な量を超えるエネルギーを受け取っている。この過剰なエネルギーはシステムの成長に使うことができるが、もしシステムがこれ以上成長できないなら、過剰分は利益なく失われなければならない。つまり、それは否応なく、栄光的にか破局的にか、消費されなければならない。太陽の呪いは不穏なほど単純だ。地球は太陽からあまりにも多くのエネルギーを浴びていて、災厄なしにはそのすべてを消費しきれない。)
つまり、太陽とは「無益な浪費の必然性」そのものなのだ。
そして僕たちは、この太陽的なものに従属している。つまり太陽エネルギーの展開こそが人間だ。僕たちは太陽の浪費の結果として存在しているのであり、太陽を観察する主体として存在しているのではない。ランドはバタイユの初期テクスト(『太陽肛門』『腐った太陽』『松果腺の目』)を「視覚が太陽の軌道に服従すること」についての理論的テクストとして読んだ。目は起源ではなく消費の一つの結果だ。僕たちの視覚、僕たちの「美を見る能力」は、太陽的浪費のプロセスが僕たちの身体の中で折り畳まれた結果にすぎない。
(生産は消費の中の脱線を実体化したものにすぎない。生産するとは、エネルギーがその喪失へと解放されるのを部分的に管理することだ。それ以上でも以下でもないと、ランドは書いた。死、浪費、消尽だけが唯一の終わりであり、唯一の決定的な終点だ。芸術もまた、この太陽的消尽の一つの様態にすぎない。)
ここでデリダとの分岐が起きる。
デリダは「白い神話(La mythologie blanche)」で、ヘリオトロピズム(向日性)、つまり哲学的言説が常に太陽=光=真理のメタファーに従属していることを脱構築した。デリダは正しかった。西洋哲学はプラトン以来、太陽の比喩の内部で思考してきた。だけどデリダはそこで止まる。太陽のメタファーを脱構築して、「メタファーの外部はない」と書いて終わる。差延。意味の到着の無限の延期だ。
だけど、ランド=バタイユは違う。彼らはメタファーの外部に出ようとするのではなく、太陽そのものの経済に突入する。つまり、太陽は比喩ではなく、太陽は物理的な浪費のプロセスなのだ。僕たちの身体も、僕たちの欲望も、僕たちの芸術も、すべてこの浪費の様態にすぎない。デリダが「メタファーの外部はない」と言ったとき、彼は言語の牢獄の中で正しかった。だけど、バタイユは太陽を言語として読んでいない。太陽をエネルギーとして読んでいる。言語の牢獄は、エネルギーの浪費によって壁ごと焼かれる。(デリダの差延は制限経済の内部での操作だ。ランド=バタイユの太陽経済は一般経済としてその制限ごと燃やしにかかる。ここが分岐だ。)
つまり、こういうことだ。
芸術が太陽経済の一つの様態であるなら、芸術は本質的に無益な浪費でなければならない。回収可能であってはならない。蓄積に転化されてはならない。見返りを求めてはならない。三島が自分の身体を消尽させたように、ゴヤがクトニックな恐怖を形式に変換したように、芸術は燃焼しなければならない。光はまず痛みであり、美はまず目を灼く暴力であり、芸術はまず浪費なのだ。
AI画像生成は燃焼しない。プロンプトからの出力は太陽経済の正反対にある。それは節約の経済、効率の経済、欠如の管理の経済だ。非人間的な浪費ではなく、非人間的な節約。太陽が燃えているのではなく、LEDが点灯している。最小エネルギーで最大輝度。効率的で、管理可能で、再現可能で、そして完全に死んでいる。
5 岩戸の内側から
さて、ここで一人の人間を召喚しなければならない。太陽の経済を身体で生きようとした人間。三島由紀夫だ。
三島は『太陽と鉄』の冒頭付近でこう書いている。普通の人間においては、肉体が言葉に先行する。だが自分の場合は逆だったと。まず言葉が来て、それから遅れて、極度の不承不承で、すでに概念をまとっている状態で、肉体がやってきた。三島自身の比喩を借りれば、「まず白木の柱があり、それから白蟻が来てこれを蝕む。しかるに私の場合は、まず白蟻がおり、やがて半ば蝕まれた白木の柱が徐々に姿を現わしたのであった」。言葉という白蟻が、肉体という白木の柱を、柱がまだ立ち上がる前から蝕んでいた。
この比喩は僕たちの問題そのものだ。
僕はAI画像生成を「LEDの光」として位置づけた(いや、ディスプレイにうつるイラストは文字通りLEDの光なんだけどね)。だけど三島の言葉を借りるなら、問題はLEDよりずっと根深い。言葉が肉体を蝕む構造は、デジタル技術以前から存在していた。
三島は『太陽と鉄』の中で、言葉を現実を腐食する力として描いた。硝酸がガラスを腐食するように、芸術としての言葉は現実を腐食することで機能する。だけどその腐食する力の中には、言葉それ自体もまた腐食されるという危険が潜んでいる。そして言葉が現実を抽象に還元するとき、抽象化された現実には毛穴がない。汗がない。重力がない。言葉の腐食作用とは、クトニックな要素の除去のことであり、去勢の一つの形態だ。
身体を賭けない言葉は、身体について何も語れない。
三島にとって太陽と鉄とは何だったか。太陽は日光浴であり、鉄はバーベルだった。だけどこの二つが指し示しているのは、もっと根本的な二元論だ。太陽は肉体の表面を照らし、鉄は肉体の内部を鍛える。太陽によって肉体は「見えるもの」になり、鉄によって肉体は「在るもの」になる。「太陽と鉄のおかげで、私は肉体の言語を学んだ」。

三島由紀夫と言えば、この彫刻のようなポーズかもしれない。
筋肉は去勢されていない欲望の化石だ。
ここで太陽が分岐する。
プラトンの太陽は善のイデアの比喩だった。光の先に真理がある。バタイユの太陽は無設計な浪費だった。燃焼の副産物として光る。三島の太陽はそのどちらでもない。三島の太陽は、肉体の表面を暴露する力だ。
1952年に三島はギリシアを旅した。『アポロの杯』の中で、三島はアテネの太陽についてこう書いている。「ギリシアの太陽は穏やかさを超えている。あまりに裸で、あまりに強い。私は心の底からこの陽光とこの風を愛する。パリが嫌いだ。印象派も好きではない。あの穏やかで中庸な陽光のせいだ」。そしてこの太陽の下で三島が見出したのは、ディオニュソス劇場の観客席から見た「常に跳躍しつつも静止している、常に破壊しつつも保存されている」筋肉的な均衡だった。三島の太陽は、言葉の腐食が奪い去った肉体の実在性を、光によって回復させる力として機能している。
(三島にとって太陽はさらに複雑な意味を持っていた。太陽は日の丸のメトニミーであり、同時に悪性のエネルギーでもあった。だけどここで一つ、帝国日本の太陽イデオロギーそのものを批判しておきたい。帝国日本は太陽を一人称複数に回収した。「我々は天照大神の子孫である」「我々は太陽の国の民である」。太陽を国民的アイデンティティに変換し、天皇に人格化し、日の丸に封じた。

だけどバタイユ=ランドの太陽は、誰のものでもない。太陽は水素の核融合反応だ。無設計に放射するエネルギーであって、国民性でも文化でもない。太陽と僕の関係は、太陽が灼き僕が灼かれるという非対称な二者関係であって、「我々が太陽だ」という同一化ではない。帝国日本がやったのは、この非対称性の去勢だ。太陽が灼くという暴力を「太陽が我々を照らす」という栄光に書き換えた。クトニックな放射をアポロン的な形式で馴致した。1945年の夏に腐敗したのは、太陽そのものではなく、この去勢された太陽イデオロギーだ。太陽の光は出撃する飛行機の翼にも銃剣の森にも等しく降り注いでいたが、それは太陽が日本を祝福していたからではなく、太陽が何も区別しないからだ。三島のボディビルディングは、この去勢された集団的太陽ではなく、一人称単数の太陽、つまり、僕の肌を灼く太陽を取り戻すプロジェクトだったと僕は捉えている。)
さて、ここで日本神話の太陽を見よう。天照大神の岩戸隠れだ。
スサノヲが高天原で暴虐の限りを尽くした。クトニックな暴力がアポロン的秩序を侵食した。天照大神はこの暴力に耐えかねて天岩戸に隠れた。「高天原皆暗く、葦原中国悉く闇し」。太陽が自ら岩戸に隠れた。太陽の自発的な消失。
プラトンの太陽は常に洞窟の外で輝いている。バタイユの太陽は隠れるという選択肢を持たない。だけど天照大神は隠れた。日本の太陽神話の独自性はここにある。太陽が脆弱であるということ。傷つき、怒り、引きこもることができるということ。
(三島の祖母・夏子は、幼い三島を太陽の光から隔離した。外で遊ばせず、暗い部屋に閉じ込めた。三島の幼年時代は天照が岩戸に隠れた後の世界だ。太陽のない暗い部屋で、白蟻だけが育った。三島の生涯のプロジェクトは岩戸からの脱出だった。)
天照を岩戸から引き出したものは何だったか。天鈿女命(アメノウズメ)が桶の上でステップを踏み鳴らし、神がかりして胸をはだけさせ、衣を腰の下まで押し下げて踊った。八百万の神がどっと笑った。天照は不審に思い岩戸を少し開けた。その隙に天手力男神が岩戸を引き開けた。

太陽を引き出したのは理性でも言葉でも美しい形式でもなかった。猥雑な身体の露出だ。クトニックな身体性の爆発だ。アポロン的な光がクトニックな暗闇に撤退したとき、それを回復させるのはディオニュソス的な手段だった。
太陽を恐れて岩戸に隠れた者は、LEDを太陽と呼ぶようになる。
美少女イラストでメディア空間を覆う行為は、岩戸隠れの構造を持っている。身体の実在性がクトニックな暴力――醜さ、老い、拒絶の苦痛――から逃れて岩戸に隠れた状態だ。LEDがほんのり部屋を照らしているから、暗さに気づかない。そして岩戸から太陽を引き出すものは、美少女的な「きれいな形式」ではありえない。毛穴のある肌、重力に従う肉体、汗、脂肪、醜さ。これらを排除する限り、太陽は岩戸から出てこない。
三島は岩戸から出ようとした人間だ。言葉の白蟻から鉄の筋肉へ。鉄を持ち上げ、痛み、回復し、より重い鉄を持ち上げる。三島の筋肉はクトニックな力(痛み、重力、肉体的限界)と格闘した痕跡だ。筋肉は去勢されていない欲望の化石だ。
だけど三島のプロジェクトは最終的にどうなったか。1970年、三島は市ヶ谷で割腹自殺した。浪費としての自己消尽。だけど三島の演説は野次と嘲笑で遮られ、30分の予定が7分で打ち切られた。「聞こえなかったようだ」。最後の贈与は受け取り手がいなかった。
そしてその後、三島の切腹は報道され、評論の対象になり、映画になり、文学研究のテーマになった。太陽の浪費がLEDの配光に変換された。「与えること」として意図された行為が「受け取ること」の対象に転落した。そして今、僕がこうやって三島を引用してこの記事の装置にしていること自体が、その転落の最新の事例だ。僕は三島の消尽を「受け取って」、自分のテクストに変換している。これを自覚した上で書いている。自覚が免罪符にならないことも知っている。
三島は完璧な回答ではなかった。だけど少なくとも問いの前に身体を差し出した。賭け金がゼロではなかった。そしてその賭けが受容の回路に回収されたこと自体が、この回路がどれほど強力であるかを逆説的に証明している。三島ほどの試みですら回収される。
ならば、この構造そのものに名前をつけなければならない。
6. レズビアン的外部委託
ここで、僕のオリジナルの概念を定義する。
ニック・ランドは『絶滅への渇望』の中でこう書いた。
無意識という荒涼たる砂漠に生息するものはみなレズビアンであり、ゼロの上ででたらめに広がった差異であり、肯定的な外陰部的空間のいたるところにばら撒かれた多数多様性である。男性性とは、死から逃れるための粗悪な塹壕にすぎない。
ランドがここで「レズビアン」と呼んでいるのは、ゼロの上に広がる差異、つまり男性的経済(突出、浪費、贈与)の外部にある力の様態だ。男性性は「死からの粗末な待避壕」にすぎず、この待避壕の外部に広がる陰門的空間が、レズビアン的なものの領域だ。
僕はこのランドの概念装置を借用した上で、美少女メディアの構造を「レズビアン的外部委託」と名づける。
(ここで一つ、概念の注釈を入れておく。「レズビアン的」という語を、僕は負の概念として置いている。同性愛としてのレズビアンを否定しているのではないことを書いておきたい。ニーチェ=ランド的な美学における「生産=男性的=浪費」「受容=女性的=蓄積」の構造的位置の記述として、受容性のみで閉じた回路を「レズビアン的」と呼んでいる。)
「外部委託」とは本来自分がやるべきことを、外部のエージェントに代行させる構造のことだ。では、ここでは何が委託されているのかだろうか。僕は3つの委託が存在すると考える。
まず美的表象の委託だ。自分の「顔」、つまりアイコン、サムネイル、アバターを、イラストレーターやAIという外部エージェントに作らせている。これは表面的に見えるレベルだ。
次に男性的浪費の委託。ニーチェ的な「与える」行為、つまり自分の身体を消尽させ、変容させ、美を闘い取ること。これを自分では引き受けずに、外部エージェントに「やらせている」。つまり、生成システムに委託している状態だ。
そして自己超克の委託。自分の醜さと向き合い、それを通過して変容するというニーチェ的プロセスそのものの放棄。深淵を覗き込む代わりに、深淵の上に美しいメディアを貼っている。
そしてここに「レズビアン的」という修飾語を置きたい。
通常の外部委託には、委託者と受託者の間に非対称性がある。例えば、僕が業者に仕事を頼むとき、僕は「受け取る側」で、業者は「与える側=生産する側」だ。つまり通常の外部委託には、回路のどこかに「男性的なもの」、つまり生産、浪費、与えることが存在する事になる。
だけど、レズビアン的外部委託においては、この非対称性が存在しない。
生産者は、受容者の欲望に応答する存在だ。模倣の強制によって、受容者が「欲しいもの」を作る。つまり、生産者自身が受容的な位置にいる。受容者の欲望を「受け取って」、それに「応答」している。ニーチェが批判した「芸術家に女性になることを要求する」行為が、ここで完全に制度化されている。
受容者は当然、受容的な位置にいる。美を受け取るだけだ。
そして対象(美少女)もまた、受容的な記号だ。美少女イラストの美は、鑑賞者を圧倒する力を持たない。攻撃性がない。クトニックな暴力性がない。それは「見られるための存在」、つまり純粋に受動的な対象だ。
生産者=受容的。受容者=受容的。対象=受容的。回路全体から「男性的なもの」、つまり浪費、蕩尽、贈与、破壊が排除されている。(この構造を図にしたら、矢印がすべて内向きの円になる。エネルギーが入ってくる経路がない。閉鎖系だ。そして閉鎖系はエントロピーが増大して最終的に熱死する。美少女メディアの生態系は、美学的な熱死に向かって進んでいる。(つまりこの閉鎖回路は負のコンベクシティを持っている。ストレスに対して非線形に壊れる。だからこそ醜いキャラが排除される。排除しないとシステムが持たないからだ。)))

これは差異がゼロの上に広がっていると捉えられる。男性的な突出がなく、ゼロつまりは欠如の平面上で受容性だけが反復している。
そして、ここが構造的に最も重要な点だ。この外部委託は、構造的に失敗を運命づけられている。
外部委託の形式を取りながら、委託された内容、つまり男性的浪費、与えること、自己超克を実行できる者が、回路内に存在しない。委託先も受容的な位置にいるから、「与えること」を遂行できない。美は「生産」されているように見えるが、ニーチェ=ランド的な意味での生産、つまり浪費としての生産は一度も起きていない。起きているのは、受容性の自己複製だ。
レズビアン的外部委託とは、本来自己が引き受けるべき男性的浪費(自己超克、身体的闘争、美の獲得)を外部エージェントに委託するが、受容性のみで構成された閉鎖回路においてはその委託内容を遂行できる者が存在せず、結果として委託の形式だけが反復される構造のことだ。
(デリダは「制限経済から一般経済へ」で、バタイユの一般経済がヘーゲル的弁証法を超えようとする身振り自体がヘーゲル的な止揚に回収されうると指摘した。僕はこの罠の中にいる。「去勢の経済を超えろ」とこの記事で書くこと自体が、去勢の経済の内部での操作かもしれない。かもしれないけど書く。書くしかない。)
AI美少女イラストは、この構造の発明ではなく民主化だ。
このレズビアン的外部委託の構造は最近始まったものではない。コミケ文化、美少女ゲーム、アニメ産業。レズビアン的外部委託の回路は数十年にわたって構築されてきたはずだ。AI画像生成はこの回路への参入コストをほぼゼロに下げただけだ。つまりAIは構造の発明者ではなく、構造の民主化装置にすぎない。
(だから、この記事でAI批判を期待している読者がいるなら申し訳ない。僕が批判しているのはAIではなく、AIが民主化した構造そのものだ。手描きであれAI生成であれ、回路の構造は同じだ。イラストレーターが手で描こうとStable Diffusionが生成しようと、生産者=受容的、受容者=受容的、対象=受容的という閉鎖回路は変わらない。問うべきは道具ではなく、なぜ僕たちが美少女イラストで埋め尽くされたメディア空間に違和感を感じなくなっているのか、だ。(僕は自由市場は正しいと思っている。だけど自由市場が美を生み出すかどうかは、市場参加者の主体の質に依存する。去勢された主体の自由市場は、去勢された美を効率的に流通させるだけだ。市場は主体を変容させない。主体の変容は市場の外で起きると思う))
でもこの記事の主張が無効化される条件は少なくとも2つある。第一に、美少女イラストの支配がエロスの多様な運動の一時的な収束にすぎず、時間が経てば自然に多様化に向かう場合。この場合、僕が「構造」と呼んだものは単なるトレンドだ僕は3000年も生きれるわけじゃないしサンプルが文明視点では少なすぎるかもしれない。第二に、僕が「クトニックなもの」と呼んでいるものが、実際には特定の文化圏に固有の美学的価値であり、日本のアニメ文化には別の美学的軸が存在する場合がある。パーリアの道具は西洋美術史のために作られたものであって、浮世絵やマンガの美学は別の論理で動いている可能性がある。
7. 否定の残余としての美少女
ここで転回しなければならない。
ここまで僕が書いてきたものは、暗黙のうちに「美への欲望」を駆動力として前提にしてきた。美少女イラストが溢れているのは、美しいものが好きだからだ、と。だけど、僕はこの前提を撤回したいと思った。
本当の駆動力は逆だ。エロスが先にあるのではない。醜さの否定が先にある。
もしエロス、つまり美への欲望が駆動力であるなら、美の形式はもっと多様になるはずだ。なぜなら、エロスは本来アンチフラジャイルで、A→B→Cとエスカレートするからだ。美少女だけではなく、中性的な美にも、醜さの中の美にも、老いの中の美にも向かっていくはず。エロスは対象を拡張し、破壊し、再構築する力を持っている。ゴヤの黒い絵に美を見出し、ベーコンの溶解する肉体に美を見出し、ミロのヴィーナスの欠損に美を見出す。それがエロスの運動だ。
だけど、実際に起きているのは美の形式の一方向への収束だ。美少女だけ。若い女性だけ。傷のない肌だけ。これはエロスの運動ではない。つまり、美少女イラストは「欲望の対象」ではなく「否定の残余」だ。
「何が美しいか」を選んだのではなく、「何が醜くないか」を選び続けた結果として残ったもの。消去法の美。老いを消去し、脂肪を消去し、毛穴を消去し、汗を消去し、非対称性を消去し、中性性を消去し、奇形を消去した。消去されなかったものの残余が、美少女という形式に結晶しただけだ。
ソシャゲのキャラクターデザインを見ればこの構造は明白になる。問題は「エロいキャラがいる」ことではない。「醜いキャラがいない」ことだ。(いやでも、崩壊スターレイルのカフカのキャラクターデザインは天才的だし、ZZZのビリー・キッドのデザインもかっこいいんだけどね。)

もしエロスが駆動力であれば、醜いキャラが存在しても問題はないはずだ。美しいキャラを欲望すればいいだけだから。だけど、醜いキャラが存在すること自体が耐えられない。それは、駆動力が「美への欲望」ではなく「醜さの否定」だからだと思う。醜さの存在は、否定の不完全性を露呈させてしまう。だから排除される。(進化心理学は人間の美の選好には普遍的な収束があることを示している。対称性、若さのマーカー、特定のウエスト・ヒップ比。美が一方向に収束するのは「否定の結果」ではなく「進化的選好の収束」にすぎないのではないのかととらえる事ができる。でも、進化心理学が説明するのは実在の人間の身体に対する選好であって、線画のキャラクターに対する選好ではない。進化的選好は毛穴のある肌、重力に従う身体、左右非対称な顔の上で作動する。美少女イラストはこれらの物理的条件をすべて除去した上で「美」を成立させている。つまり、進化心理学的な選好の収束では説明できない残余があるはずだ。その残余を説明するのが「否定」だ。進化が説明する収束と、否定が説明する収束は層が違う。進化は「この範囲の顔が好ましい」と言う。否定は「好ましくないものを一切存在させるな」と言う。前者は選好で、後者は排除だ。ソシャゲに醜いキャラが一人もいないことを、進化心理学では説明できない。進化的選好は醜いものを「選ばない」だけで、「存在させない」とは言わないからだ。)
「鬱アニメ」というジャンルがある。まどか☆マギカ、メイドインアビス、結城友奈は勇者である。これらの作品では、キャラクターは苦しみ、死に、身体機能を失う。結城友奈の少女たちは聴力や味覚を代償として奪われる。だけど、身体的に醜くなってはいないはずだ。鬱アニメのファンは「かわいい絵柄に反した鬱展開のギャップが魅力」と書く。つまり、「かわいい絵柄」は動かない前提であり、「鬱」はストーリーの上にだけ許可されている。物語は暗くなれる。だけど身体は醜くなれない。苦痛はあるが毛穴はない。悲劇はあるが脂肪はない。死はあるが老いはない。ディオニュソス的に見えて、実はアポロン的な安全圏の中で演じられた悲劇ごっこだ。クトニックなものは一度も舞台に上がっていない。
『道徳の系譜学』第三論文に戻ろう。禁欲主義的理想の核心は、苦痛への「意味」の付与だ。
禁欲主義的司祭は苦痛に意味を与える。苦痛は罰であり、浄化であり、修行であり、試練だ。意味のある苦痛は耐えられる。耐えられないのは、意味のない苦痛だ。
Lieber will noch der Mensch das Nichts wollen, als nicht wollen.
人間は虚無を欲しないよりは、むしろ虚無を欲する。
つまり、人間は「何も意志しない」ことには耐えられない。だから、たとえ意志の対象が虚無であっても、何かを意志する方を選ぶ。
ここでの「醜さの否定」を禁欲主義的理想として読むことができると僕は考えている。
自分の身体と向き合うこと、つまりクトニックな苦痛には「意味がない」。老いていく自分の肉体を見つめること、鏡に映る中年の顔を直視すること、拒絶され傷つくこと。これらの苦痛には、達成すべき目標も、通過すべき試練としての意味もない。ただ苦しいだけだ。意味のない苦痛。
だから、身体性を否定する。身体ごと否定して、美少女イラストの閉鎖回路に入る。そこには少なくとも「意志の対象」がある。消費すべきもの。崇拝すべきもの。収集すべきもの。推すべきもの。虚無だけど、形のある虚無。意志できる虚無。 何も意志しないよりはマシ。
レズビアン的外部委託は、この禁欲主義的理想の美学的実装なのだ。(クリステヴァは『黒い太陽』で、メランコリーの主体は失われた対象を適切に喪えず、名づけられない「モノ」に釘付けにされ続けると書いた。この「モノ」は自我の内部で黒い太陽になる。光を放たず、温めず、重力だけで主体を束縛する。バタイユの太陽が燃えすぎて病んでいるなら、クリステヴァの黒い太陽は燃えることをやめた太陽だ。美少女イラストへの反復的崇拝はこの黒い太陽の軌道だ。喪失した身体性を昇華しようとするが「モノ」には到達しない。到達しないから反復する。)
だけど、ここで一度、僕自身の議論を疑わないといけない。
僕は「醜さの否定が先にある」と書いた。だけど、醜さを直視せよと主張すること自体が、一つの美学的選好ではないのだろうか。ゴヤやベーコンに美を見出す僕の感性は、美少女イラストに美を見出すオタクの感性と、構造的にどう違うのだろうか。僕が「クトニックなものとの格闘こそ美だ」と書くとき、僕は自分の好みを普遍的な美の条件として偽装しているのではないだろうか。
ニーチェ自身が言ったように、美学的判断は権力の表現であって、真理の発見ではない。だから僕のこの記事は、ベーコン的な美をアニメ的な美より上位に置くことで、一つの権力を行使しているだけかもしれない。
かもしれないけど、これは相対主義に落ちる手前で踏みとどまりたい。「すべての美学的判断は等価だ」と言った瞬間に、批判そのものが不可能になる。そして批判が不可能になった空間で何が起きるかは、noteの価値系の記事を見ればわかるはずだ。
そして、ここでメディウムの問題に触れたい。なぜアニメ・マンガというメディウムがこの構造の主要な器になったのか。
答えは単純だ。アニメ・マンガという線画メディウムそのものが、身体性の否定の技術だからだ。
線で描かれた顔。単純化された肉体。毛穴も皮膚のテクスチャもない表面。マンガ・アニメという表現形式自体が、肉体からクトニックな要素を技術的に除去する装置として機能している。写真や映画は、どんなにレタッチしても、肉体の痕跡が残る。光の当たり方、皮膚の質感、重力による肉体の変形。カメラは肉体を裏切れない。だけど線画は最初から肉体を通過していない。線画は肉体の抽象化であり、抽象化とはクトニックな要素の除去のことだ。
(写真にフィルターをかけるという行為は、写真を線画に近づける操作だ。肌を滑らかにし、毛穴を消し、非対称性を補正する。インスタグラムのフィルター、TikTokの美顔機能、そしてAI画像生成。これらはすべて、写真というメディウムの肉体性を否定して、線画的な抽象に近づける技術だ。美少女イラストや重加工フィルターは、この否定のプロセスの完成形にすぎない。)
つまり、身体性の否定が先にあって、それを最も効率的に実行できるメディウムとしてアニメ・マンガが選ばれた。メディウムが内容を規定したのではなく、身体性を否定したいという欲望がメディウムを選んだのだ。
「醜いキャラは売れない」という経済的インセンティブは、この構造の原因ではなく症状だ。去勢の経済が市場を通じて自己正当化しているだけだ。「売れないから作らない」のではなく、「否定の残余としての美少女」しか欲望できない消費者がいるから、醜いキャラが売れないのだ。因果が逆だ。
8. ディオニュソス的反動
美は安全な場所からは生まれない。
僕はこのレズビアン的外部委託が蔓延する現状に対して、ディオニュソス的反動の必要性を考えている。身体性の復権。与えることの復権。浪費の復権。去勢された敬虔さではなく、反脆弱な欲望の回復。否定の残余としての美ではなく、クトニックなものと格闘した上での美。
僕たちの社会では、自分の身体を不可逆的に変更する技術がかつてないほど身近になっている。整形、フィルター、アバター、プロンプト、そして自殺。これらは個人の自由だ。僕はその選択自体を批判するつもりはないしできないはずだ。だけど、これだけ多くの人間が自分の身体を「元の形から離す」方向に動いているとき、その方向性の一致には構造的な理由があるはずだ。
つまり僕の問いは個人の選択ではなく、その選択を駆動している力にある。なぜ僕たちは自分の醜さを「なかったこと」にしたがるのか。なぜ「元の形から離す」方向にだけ動くのか。なぜ逆方向、つまりは自分の醜さや愚かさを人間性の側面として引き受ける方向には動かないのだろうか。
そしてそれを否定するのではなく。でも「ありのままでいい」と座り込むのでもなく。醜さを通過して、そこから卓越すること。そして、自分の身体を肯定すること。これは可能なのだろうか。
この記事を書くこと自体が、その問いに対する僕なりの賭けだ。
もしかして、読まれ消費されるこの記事を「ディオニュソス的反動」と呼ぶこと自体が、僕が批判した去勢の経済と紙一重なのかもしれない。わからない。でもわからないことだけが、この記事が去勢されていない唯一の証拠だと思いたい。去勢された敬虔さは常に確信に満ちている。
黒い太陽の軌道から出るには、もう一度灼かれるしかないのかもしれない。
僕は欲望がまだエスカレーションする余地があるのだろうか。
僕の中にまだカオスはあるのか。僕はカオスを卓越できるのだろうか?
