敬老イデオロギーと反福祉国家
敬老は美徳ではなくイデオロギーだ。
この一文で読者の半分は離脱するだろうし、残った半分のうちさらに半分は「また逆張りか」と思うだろう。だけど僕が言いたいのは逆張りではなくて、もっと退屈な話だ。つまり、「老人を敬え」という命題は論理的に正当化できない、という話。正当化できないにもかかわらず、自明の公理のように扱われている。公理のように扱われているものが実はイデオロギーであるとき、それは疑うべきだ。いや、疑わなければならない。なぜなら、公理を装ったイデオロギーは、それが搾取を正当化するための道具として使われるとき、最も危険な形態をとるから。(あと一つ言っておきたいことがあるとすると、タイトルの反福祉国家は反福祉/国家じゃなくて反/福祉国家なんだけど、タイトルに/をいれるのはなんかダサかったのでやめた。)
で脱線するけどさ、よくこの手の話をするときに映画を思い出す。多くの人(イタい人の割合が多いのは秘密ね?)はMatrixのred pill / blue pillのやつとつなげるんだよね。red pillingとかいう動詞にまでしている笑。なんだけど、僕はあえてコーエン兄弟の"No Country For Old Man"を推したいんだよね。日本の邦題は「ノーカントリー」なんだけど、これは最悪の邦題の罪だと思う。あのタイトルはベル保安官の視点から世界を定義する言葉だ。邦題の「ノーカントリー」は単に「どこにも居場所がない」的な漠然としたニュアンスになっていて、映画の核心であるベルの老いと無力感、イェイツの詩との対話が全部消えているし、もっというとモスとシガーを主人公だと多くの人に思わせている。
漢字に含まれているもの
「孝」という漢字を分解すると、上に「老」、下に「子」がある。象形的に、老人が子供の上に乗っている。これは偶然ではないかもしれない。少なくとも、2,500年前にこの文字を設計した人間は、世代間の権力関係について何かを理解していたのかもしれない。
孝の起源は殷周時代の祖先崇拝にまで遡る。だけどこの段階では、孝はまだ普遍的な道徳規範ではなかった。大きな宗族が土地を保有し、内部は家父長的な階層秩序で構造化されていた時代の、宗族維持のための機能的コードにすぎない。老人を敬うことに「美しさ」はなく、あったのは実利だけだ。農耕社会において、知識の蓄積者は老人だった。種まきの時期、灌漑の方法、氏族間の婚姻関係の記憶。文字が普及していない社会では、老人の脳が唯一のデータベースだった。敬うのは合理的だった。
孔子がこの機能的コードを道徳規範に引き上げた、ということになっている。だけど胡適の指摘は面白くて、彼によれば、孔子自身は「仁」を上位概念として教えていたのであり、「孝」を最上位の徳目に格上げしたのは後代の儒者だった。つまりは「孔子=敬老の祖」という通説自体が、後付けの権威付けにすぎないということになるのだ。
歴史が思想を作るのではない。権力が歴史を編集する。

そして『孝経』が登場する。戦国時代末期から前漢初期にかけて書かれたとされるこのテクストは、孔子と弟子の対話を装っているんだけど、著者は不明。成立年代も曖昧。要するにゴーストライティング(You are hiding a child, let that boy come home(でもまぁアドニス君を全世界に晒したPushaが倫理的に正しかったかは別の話だけどね))。だけどこのテクストが決定的に重要なのは、ここで孝が個人の徳から政治原理に拡張されるから。父子間の「孝」は、君臣間の「忠」へとアナロジーで接続されて、「親に従え」は「故に君主に従え」に変換され、「君主に従え」は「故に国家に税を納めろ」に変換される。
これは自然法則ではなくコード変換だと思うんだよね。
家族内の感情的紐帯を、国家統治の正当化装置に転用する操作。秦が中国を統一して専制的な帝国国家を作った後、孝はまさにこの目的のために国家イデオロギーに組み込まれた。
日本への輸入も同じ構造をなぞっている。徳川家康は幕府の要職を「大老」「老中」と名付け、各藩では「家老」が置かれた。「老」の字を権力構造に刻み込んだ。儒教は宗教としてではなく「儒学」として、幕藩体制を支える思想的基盤に使われた。
つまり敬老というものは、特定の歴史的条件下で、特定の権力構造が、特定の目的のために設計し、編集し、輸出した道具なのだ。自明の公理なんかじゃない。
日本には敬老の日がある。祝日だ。労働者が休んで高齢者を祝う。つまり若者が一日分の生産をやめて高齢者の象徴的ステータスを再確認する儀式だ。これを年に一回やるのが敬老の日で、毎月やるのが年金制度だ。
搾取の三定理
ここからは演繹してみよう。データなんか要らない。(ケインジアンの方はここでお帰りください)

と書いたけど、もう少しだけ残ってほしい。なぜかというと、ここから言うことの半分くらいは、ケイジアンの方法論の内部から出てきた結論でもあるから。
出発点は一つだけ。人間は行為する。行為とは、不満足な状態を除去するために希少な手段を目的に向けて使用する合目的的行動のこと。この命題は経験によって反駁できない。反駁しようとする行為自体がこの命題を前提にしているから。ここから時間選好、機会費用、限界効用逓減が演繹的に出てくる。
この行為の構造の上に、所有権が演繹される。議論に参加するという行為自体が、自己所有権と先占原理を論理的前提として含んでいて、命題を提出するには自分の身体を排他的に使用できなければならない。真理主張を行うには、希少な資源の紛争回避的な割当方法として先占を認めざるを得ない。これに反する倫理提案は、それを議論によって正当化しようとする行為自体と矛盾する。つまり遂行的矛盾だ。
(最近の形式化では、この構造が5つのソートと6つの原始関係を持つ一階述語論理として定式化されている。行為公理から限界効用逓減までがヒルベルト式の定理として導出される。統計ではなく論理で経済学をやる、ということの意味が、ここで明確になる。)
ここまでが土台。じゃあここから育てていこう。
A: 強制的な所得移転は所有権の侵害だ。 先占と自発的交換以外の財の取得は、議論の遂行的前提と矛盾する。高齢者福祉のための課税も例外じゃない。「敬老」というナラティブは、この侵害に道徳的偽装を施すイデオロギー装置となる。
これに対する典型的な反論は「でも高齢者は若い頃に保険料を払った」だ。なんだけど、この反論は賦課方式の構造を誤認しているんだよね。賦課方式では、今の高齢者が払った保険料は当時の高齢者への給付に使われた。今の高齢者への給付は今の現役世代の保険料から来る。つまり「払った」という事実は、自分の口座に積み立てたことを意味しない。それは前の世代への移転に参加したという事実にすぎず、今の世代から搾取する権利を発生させないのだ。(イェイツは老人がビザンティウムに航海すべきだと書いた。僕は別にどこかに航海してほしいわけじゃない。でも海賊行為はやめてほしい)
ところで、この倫理的土台を認めない読者がいても構わない。この先の定理BとCはインセンティブ構造の分析だけで成立する。どちらの入口から入っても出口は同じ場所に通じている。
B: 国家福祉は意思決定者からダウンサイドを除去する。 国家が老後を保障することで、個人が自ら低時間選好的行動(資本蓄積、子育て、共同体形成)を取るインセンティブが消失する。これは「国家福祉は社会全体の時間選好を人為的に引き上げる装置だ」と言い換えることができる。時間選好の上昇は資本蓄積の減速を意味し、資本蓄積の減速は文明の減速を意味する。
これに対する典型的な反論は「でも福祉がなければ高齢者は困窮する」だ。だけどこの反論が成立するのは、福祉以外のセーフティネットが存在しない場合だけだ。そして福祉以外のセーフティネットが存在しないのは、国家福祉がそれをクラウドアウトしたからだ。代替手段の不在を、代替手段を消滅させた制度の必要性の根拠として使う。これは循環論法で何も言っていないことに等しい。
もう一つ来るのが行動経済学だ。人間は双曲的に将来を割り引く、と。近視眼的だから放っておくと老後のために貯めない、と。だから強制保険は「合理的パターナリズム」だ、と。
なるほど、でもこれは壊れている。
まず、双曲割引が「非合理」だという判定。これは指数割引を「正しい」と前提しているんだよね。その基準はモデルの外から密輸入されたもの。「将来の自分」が「今の自分」より正しいとする根拠はどこにもない。
今Snickersを食べる人間は、来月ダイエットする人間より「間違っている」のだろうか? 誰がそれを決めるのか? モデルが決める? モデルを作った人間が決める? その人間は近視眼的ではなのではないだろうか?
次に、仮に近視眼性を全面的に認めたとする。Thaler自身が提案したSMarTプログラムにはSave More Tomorrowというやつがある。これはデフォルト設計を変えることで自発的に貯蓄を増やさせるコミットメントデバイスだ。強制じゃない。行動経済学のボスが自分で、ナッジと強制は別物だと実証している。
そして致命的なのが三点目。人間が近視眼的だとして。なぜ政治家は近視眼的でないのか。
この問いに誰も答えない。いや、答えられないのかもしれない。政治家の時間軸は選挙サイクルの4年から6年だ。年金の時間軸は40年から50年だ。近視眼的な人間に長期的な年金設計を委任する。その根拠が近視眼性。これは冗談ではなく、本当にこういう議論をしている人間がいる。パターナリストの主体もまた近視眼的なのだ。むしろ制度的に、構造的に、君や僕より近視眼的なのだ。なぜなら僕の時間軸は僕の人生全体だけど、政治家の時間軸は次の選挙までだから。
C: 民主制はこの搾取を修正する装置ではなく、固定する装置である。 民主制においては多数派が政策を決定する。高齢者は多数派だ。多数派は自分への再分配を選好する。したがって民主制は世代間搾取を再生産する。これはバグではなくてfeatureだ。
これに対する典型的な反論は「民主的な改革で世代間公平を実現できる」だ。だけど民主的な改革の主体は有権者であり、高齢有権者が多数派である限り、自分への再分配を縮小する改革は多数派の支持を得られない。民主制の内部で民主制の帰結を是正しようとすることは、多数決で多数決の弊害を修正しようとすることだ。修正する主体と修正される対象が同一なのだ。
なぜこうなるのか。もう少し掘ってみよう。
民主的意思決定には非対称性がbuilt-inされている。便益が特定集団に集中し、費用が広く薄く分散する政策は、体系的に過剰供給される。これは僕の発見でも何でもなくて、ブキャナンがノーベル賞をもらった程度には確立された力学だ。だけど確立されていることと、みんなが直視していることは、別の話なのだ。
年金にこの力学を適用してみよう。受給者にとっての便益は月額数万円から数十万円という具体的な現金だ。それを失うことの痛みは鋭い。鋭いから動員される。投票に行く。陳情する。テレビの前で怒る。一方、個々の現役労働者にとっての保険料負担は給与明細の一行にすぎない。しかもその一行は「将来の自分の年金を買っている」という曖昧な信念によって麻酔されている。(実際には買っていないんだけどね。賦課方式だから。)でも麻酔が効いている限り、痛みを感じないから、動員されない。投票に行かない。陳情しない。テレビの前で怒らない。
集中した便益は動員を生む。分散した費用は無関心を生む。だから全老連は470万人の組織になり、若年負担者の利益団体は存在しない。存在しないものは政治的に発言しない。発言しないものは政治的に存在しない。
この非対称性の上に、もう一層の歪みが乗る。再分配の受益者は、再分配を維持するために政治的資源を投入する。投票、ロビイング、メディアへの圧力。この投入自体が社会的浪費なのだ。何も生産していない。パイを焼いているのではなく、パイの切り分け方を巡って争っている。年金制度を維持するために費やされるすべての政治的エネルギー、審議会の議事録、与野党の年金改革論争、選挙における年金公約。全部足しても一円の富も生まれていない。これがレント・シーキングの正体だ。富の生産ではなく、富の移転のための政治的インフラ。
さらにもう一層。これが一番えげつない。
有権者は政府支出の便益を過大評価し、その費用を過小評価する。なぜか。それは公債が間に入るからだ。公債で資金調達すると、費用は将来世代に転嫁される。現在の有権者には便益だけが見える。コストは見えない。見えないものには反対しない。賦課方式の年金は、この構造をbuilt-inしている。便益の受領者と費用の負担者が時間的に分離しているから、現在の有権者にとっての最適戦略は常に「給付を増やし、負担を将来に回す」だ。常に、だ。例外なく。なぜなら、これは個々の有権者にとって合理的な行動だから。合理的であるということは、修正不可能であるということだ。合理的な行為者に「合理的であるな」と要求することは、定義上、不可能だ。僕はこれを財政錯覚と呼んでいる。(ブキャナンが先に名前をつけたけどね。著作権は譲ってもらおう。)
2025年6月に年金制度改革関連法が成立したんだよね。厚生年金の積立金を基礎年金の底上げに使う措置が盛り込まれている。厚生労働省はこれを「流用ではない」と呼ぶ。(いやまぁ流用ですというバカはいないんだけど。)だけど積立金は過去の現役世代が積み立てたものであり、それを現在の受給者の給付底上げに転用するなら、構造的には過去の労働者から現在の受給者への所得移転にほかならない。言い方を変えても構造は変わらない。
「流用ではない」。この一文が財政錯覚のライブデモンストレーションになってる。費用の可視性を一段下げる。有権者の無関心をもう1ミリだけ深くする。それだけで制度は延命する。なぜなら、無関心な有権者は反対しないから。反対しない有権者は、賛成しているのと政治的に等価だから。厚労省の官僚は邪悪なんじゃない。合理的なのだ。合理的であることが、ここでは邪悪と区別がつかないだけなのだ。
依存的統治術
そもそもの話、依存は権力の別名なのではないかと考えてる。
アリストテレスは『政治学』第一巻で、家庭内の統治(oikonomia)を3つに分類した。主人と奴隷、夫と妻、親と子。3つの関係に共通する構造は、依存者に対する提供者の支配だ。提供者は依存者の生存を握っている。とすると、依存者は提供者に逆らうことができない。アリストテレスはこれを「台所の統治」として扱った。
福祉国家は、この台所の統治を国家規模にスケールさせたものにすぎない。
福祉国家を擁護する人間はだいたいビスマルクの話をする。1880年代のドイツ帝国で世界初の社会保険制度が作られた、福祉国家は資本主義を守るための防波堤として生まれたのだ、と。革命を防ぐために国家が労働者に保険を与えた。慈悲ではなく生存戦略だった、と。
この話には裏面がある。
「革命を防ぐために福祉を導入した」ということは、「福祉は国家権力の自己保存装置である」ということだ。国民のためではなく、国家のために導入された。これは擁護ではなく自白だ。敬老イデオロギーが国家統治の正当化装置として設計されたのと同じ構造に見える。孝経が「親に従え」を「君主に従え」に変換したように、ビスマルクは「保険を与える」を「革命を防ぐ」に変換した。変換の方向は異なるけど、構造は同型だ。依存を作り出し、依存を通じて支配する。
公共選択論の用語で言い直すと、ビスマルクは政治的起業家(political entrepreneur)だった。彼が「発明」した社会保険は、労働者階級の政治的忠誠を国家に結びつけることで社会民主党の票田を切り崩す装置だった。福祉は公共財の供給ではなく、レント・シーキングの制度化、つまりは政治的忠誠と引き換えに国庫からの移転を提供する取引だ。ビスマルク自身がこれを隠しもしなかった。彼は帝国議会で、社会保険の目的は「国家が労働者の福利のみならず彼らの権利にも配慮していることを示す」ことだと述べていた。提供するのではなく、示す。つまりシグナリング。労働者への実質的な便益は、国家への忠誠を購入するための価格にすぎない。
(しかもこの防波堤論は「金を出さなければ暴力を行使するぞ」という脅迫の構造を認めている。「福祉がなければ社会が不安定化する」は「保護料を払わなければ店を壊す」と構造的に等価だ。これを「歴史的必然」と呼ぶのは修辞の問題であって、構造の問題じゃない。)
だけど依存テーゼの射程はビスマルクより広いはずだ。
政治的忠誠を最も安価に調達する方法は、自力でステータスを獲得する手段を持たない人間に、ステータスを与えることだ。給付は物質的なものだけではなく、「弱者」「被保護者」という地位そのものが、道徳的優位として機能する。福祉の受給者は、受給しているという事実によって、政治的発言権を獲得する。
「弱者の声を聞け」は民主主義の道徳的命令なんだけど、その命令が機能するのは弱者が存在し続ける場合だけなのだ。
福祉国家は弱者を保護するのではなく、弱者という政治的カテゴリーを再生産する。(フーコーの指摘した精神医学が精神病を必要とするように、福祉国家は弱者を必要とする。需要が供給を生むのではなく、供給が需要を生むってコト。セイの法則の政治版。)
再生産された弱者は体制への忠誠によってステータスを維持する。忠誠が切れればステータスも切れるから、離反のインセンティブがない。忠誠と能力のトレードオフにおいて、体制は常に忠誠の側を選ぶ。なぜなら、能力のある人間は体制なしでも生存できるけど、忠誠だけを持つ人間は体制なしでは生存できないからだ。体制にとって最も信頼できる支持基盤は、体制なしには存在できない層だ。
これを高齢者福祉に適用すると: 高齢者は「敬老」イデオロギーによって道徳的優位を付与された政治的カテゴリーだ。年金は物質的給付であり、敬老は象徴的給付。この二重の給付が高齢者の体制への依存を構造化し、投票行動を規定する。高齢者は福祉国家に忠誠を誓う。なぜなら福祉国家なしには物質的にもステータス的にも生存できないから。そして民主制において忠誠な多数派は最強の政治的資産だ。
ここで定理(C)に戻ろう。福祉国家が民主主義の内部から廃止できないのは、「国民が本当に望んでいるから」ではなく、依存構造が投票行動を規定しているからだ。ヘロイン依存者がヘロインを「望んでいる」のと同じ構造で、依存を「選好」として読むのは依存の本質を見誤っているのだ。福祉国家は選好を満たす装置ではなく、選好を生成する装置にすぎないのだ。(シガーがプロの殺し屋のウェルズを殺す直前のセリフの"If the rule you followed brought you to this, of what use was the rule?"があるんだけど、あれって合理性そのものがここに至った以上、合理性は無意味だったのか?という問いなんだよね。で、これが面白いのは、この言葉がシガー自身にも跳ね返る言葉で、最後の交通事故がまさにそれを証明しているんだよね。穏健なものは未知の外部ストレスに弱いのかもしれない)
だとすれば、民主主義の内部で福祉国家を解体することは構造的に不可能だ。受給者が有権者の多数を占める限り、自分の給付を削る投票は多数決原理によって否決される。
一つの思考実験をしてみよう。
政府を一つの企業体として扱い、主権的な破産手続きによって、年金、医療保険、失業保険といったエンタイトルメントを不採算部門として清算対象にする。管財人が配当最大化のために再編する。民主的な合意は経由しない。経由できない。経由できないことが、問題の所在を指し示している。(これは過激に聞こえるだろうけど、2070年に1.3人の現役世代で1人の高齢者を支える制度を「持続可能」と呼ぶことの方が、はるかに過激だと思う。)
ところで、依存を構造化しないセーフティネットは、歴史的に存在した。
19世紀のイギリスでは、友愛組合(Friendly Societies)という自発的な相互扶助組織が、国家福祉なしで成人男性の約半数をカバーしていた。1891年時点で400万から500万人。1907年には26,795の登録組合、約620万人の会員。同時期の労働組合の会員が240万人だから、2.5倍以上だ。疾病手当、葬儀費用、医師の派遣、一部は老齢年金まで提供していた。起源は古代ギリシャ・ローマの職人の埋葬組合にまで遡る。
友愛組合は依存構造を作りにくい。なぜなら相互的だからだ。払う側と受け取る側が固定されていない。今日の払い手が明日の受給者になるし、その逆もある。そこには一定の対称性がある。
しかも、友愛組合にはメンバー同士の監視制度があった。疾病給付では、病気を申告した会員を sick visitor や visiting committee が訪問し、本当に働けない状態なのかを確認した。不正請求は共同体の内部でチェックされる。つまり、給付にはダウンサイドが内蔵されていた。これは、モラルハザードや逆選択への対処として機能した。
現代の賦課方式年金には、この対称性が薄い。払う側と受け取る側が世代によって分離している。今日の現役世代は今日の高齢者を支えるが、その現役世代が将来同じ条件で支えられる保証は、制度の政治的持続性に依存している。
もっと遡ってもいい。古代アテナイでは、老人の世話は国家の直接給付ではなく、家族の義務として扱われた。Plutarch が伝えるソロン法では、父が子に職業を教えなかった場合、子は父を扶養する義務を負わないとされた。裏返せば、通常は子に老親扶養の義務があったということだ。国家は老人福祉の直接提供者というより、家族チャネルの履行を法的に担保する番人だった。
そしてアテナイにはリトゥルギア制度があった。富裕な市民に、軍船、合唱隊、祭祀などの公共サービスの費用を負担させる仕組みである。これは近代的な一般税ではない。だが単なる任意寄付でもない。名誉、威信、競争と結びついた公的負担だった。
しかも antidosis という異議申立制度があった。リトゥルギアを課された市民は、「自分よりあいつの方が金持ちだ」と主張し、相手に負担の引受け、財産交換、または裁判での富の比較を迫ることができた。公共負担を一方的に押しつけるだけではなく、少なくとも負担者側には「なぜ自分なのか」と争う回路があった。
もちろん、アテナイ民主制は奴隷制の上に成り立っていたし、人口規模も小さかった。市民が直接参加できる規模でのみ民主制は機能した、という留保は必要だ。代議制民主主義になると、代議士は票田のために多数派への再分配を拡大するインセンティブを持つ。小さい国家でしか民主主義は機能しないのかもしれない。
20世紀のイギリスでは、友愛組合や職域医療組織が担っていた医療・疾病保険の領域が、国民保険制度とNHSによって国家制度に吸収されていった。NHSは1948年7月5日に発足した。 Aneurin Bevan の選挙区にあった Tredegar Workmen’s Medical Aid Society は、NHSのモデル、あるいは少なくとも重要な着想源として語られる。ただし、NHSがTredegarだけから生まれたという単純化は正しくない。
それでも、構造は見える。自発的・相互的な秩序が、国家制度に吸収される。吸収された後で、「もはや代替手段がないのだから福祉国家は必要だ」と言われる。放火犯が消防署の必要性を説くのと同じ構造に見える。(マルクスが現代の年金制度を見たら何と言うだろう。たぶん搾取と呼ぶと思う。搾取者が資本家ではなく、高齢者になっただけで。)
iatrogenesisという概念がある。医原病。医者が患者を治療することで引き起こされる病気のことだ。Ivan Illichは『脱病院化社会』で、医療制度そのものが健康を破壊していると論じた。

福祉国家はiatrogenicだ。治療が疾患を生み、疾患が次の治療を正当化する。螺旋が回る。大恐慌がこれだった。恐慌を長期化させたのは市場の崩壊ではなく、Hooverの賃金維持政策とRooseveltのNIRAと連邦準備制度の貨幣供給の3分の1の縮小だ。政府の失敗を「市場の失敗」と呼び、その「市場の失敗」を修正するためにさらに介入する。(これは僕の独自見解ではなく、Cole & OhanianがJournal of Political Economyで、Friedman & SchwartzがMonetary Historyで、それぞれ主流派の方法論で示したことであって陰謀論じゃない。)
福祉国家の「必要性」もこの医原病の産物にすぎない。自発的代替手段をクラウドアウトし、代替手段の不在を自分の存在理由として提示する。数千年間、人類は家族と共同体と市場で老後を賄ってきた。福祉国家よりトラックレコードが長い。
でも、友愛組合が機能したのは19世紀イギリスの「成人男性の半数」だ。女性、子供、障害者はカバー外だった。
じゃあ問いはこうなる。カバーされない人間が存在するとき、国家がカバーすべきか。僕の答えはNoだ。だけどそのNoは「どうでもいい」ではなく「国家がカバーすると総量がむしろ減る」ということになる。
穴がある自発的システムと、穴がないシステムの比較ではないのだ。穴がある自発的システムと、穴を塞ぐと称して全体を飲み込み、飲み込んだ後に別の穴を開ける国家独占システムの比較なのだ。友愛組合の穴は「加入していない人間がカバーされない」とするならばNHSの穴は「加入している全員が不十分にカバーされる」となる。
前者の穴は拡張可能だ。新しい組合を作ればいい。それに比べて後者の穴は構造的だ。独占だから競争による改善が起きない。 しかも友愛組合の会員数は急速に拡大していた。1891年に400万人、1907年に620万人。トレンドが続いていればどこまで伸びたか。知る方法がない。1911年に国民保険法が導入されて実験は打ち切られたからだ。芽を摘んでおいて「この植物は育たなかった」と言う。iatrogenicだ。
老後のポートフォリオ
僕は福祉の「廃止」を主張しているわけじゃない。福祉の「脱独占化」を主張したい。
現行制度の問題は、福祉であることではなく、国家独占であることだ。独占だから競争がない。競争がないから政治家の票田以外のインセンティブが機能しない。結果として世代間搾取が構造化される。解決策は、老後のセーフティネットを国家の一元供給から多チャネル化することだ。(VCが一社集中投資しないのと同じ理由で、老後の保障を一つの制度に集中させるのはリスク管理として最悪だ。しかもそのVCが政府で、ファンドマネージャーが政治家で、投資判断が票田で決まる。こんなファンドに金を預けるバカはいないだろう。いないよね?)
チャネルの一つは子供だ。福祉を脱国家化すると、老後の面倒を見てもらうために子供との関係を維持しなきゃいけない。子供との関係を維持するには、子供の世代が生きやすい社会を望まなきゃいけない。つまり世代間の利害が構造的に一致する。子供を育てている人間は、30年後、50年後の社会がまともでなければ自分の「投資」が毀損されるから、時間選好が構造的に低下する。下の世代を育てることは年金をもらうことよりも長期的な関与を要求する。すると、子供や若い世代を苦しめる政策が、自分を苦しめる政策になる。(これは「子供を年金として産め」という主張じゃない。子供は多元化されたチャネルの一つにすぎない。だけど、他のどのチャネルよりも時間選好を構造的に低下させるチャネルではある。)
二つ目は資産形成。自分の老後を自分の資本蓄積で賄う。三つ目は保険市場。民間の保険会社が老後リスクをプライシングし、各個人がリスクプロファイルに応じて契約する。四つ目は相互扶助組合。どのチャネルも選ばなかった人間は、その結果を自分で引き受ける。これが自由の対価だ。
各チャネルが自己のダウンサイドを内蔵するから、国家福祉と違って自己修正メカニズムが働く。子供チャネルを選んだ人間は次世代の繁栄に利害を持つ。保険チャネルを選んだ人間は保険料というコストを通じてリスクを内部化する。全員が平等に恩恵を受けることは不可能だし、不可能であることを認めるところから設計が始まる。各個人が何を「良い老後」と定義するかは主観的に異なるのだから、画一的な制度で全員を満足させること自体が、分散した選好情報を中央集権的に処理しようとする計算不可能な企てだと思う。
で、この記事を書いて何が変わるのだろうか?たぶん何も変わらないだろう。高齢者は明日も投票に行くし、年金は明日も振り込まれるし、若年層は明日も黙って保険料を払う。コインはもう宙にある。

それでは、また次回!
