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「豊臣兄弟!」お慶(秀長正妻)の人物予想(26/4/12追記)



本稿の関連記事です。実際のキャスト発表後に更新していきますので、他の登場人物の予想結果をお楽しみください♫





★(26/4/12追記)慶と父・安藤守就について


(1)慶登場

ついに慶がキターーーッ!(⁠☆⁠▽⁠☆⁠)

キャスト予想の更新と併せて、今か今かと登場を待っていました。

「武家の娘(安国寺恵瓊)」なのではないか?、という私の予想に少しカスってましたが、まさか安藤守就の娘とは予想外でした。

しかも、織田信長(小栗旬)からの直々の命によるもので、政治臭い流れでした(笑)
とはいえ、秀長(ドラマ内では小一郎)にとって祝事です(^_^)v
慶には非常に謎めいた設定があるので、これからの展開が楽しみです。

慶の父・安藤守就やこの時期に小一郎と夫婦になった意味について、少しまとめました。

(2)慶の父・安藤守就について

史実の守就には、男2人、女2人の子女がおり、娘の1人は竹中半兵衛の正室(得月院)です。
※ドラマで守就が半兵衛と顔見知りだったのは、このあたりに基づくのでしょう


永禄10年(1567年)、信長の美濃侵攻軍に対して他の「美濃三人衆」と共に内応し、織田家臣としてのキャリアがスタートしました。

その後は京都上洛戦、姉川の戦い、伊勢長島攻め、槇島城攻め、越前朝倉攻め、伊勢長島攻め、石山本願寺攻めなどの諸戦に信長直属の部隊として参加しています。

天正3年(1575年)に信長が嫡男・信忠に家督を譲った際、美濃衆のほとんどが信忠の下に付けられましたが、守就は信長直属の家臣のままでした。かなり信長に重用されていたといえるでしょう。

ところが、です。
天正8年(1580年)8月、突如として、林秀貞・丹羽氏勝らと共に「信長に野心あり」との嫌疑をかけられ、織田家を追放されてしまいました。

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こり、信長が明智光秀により討たれます。
これを好機とみて、守就は嫡男・定治と共に挙兵して北方城を奪い、再起を試みました。
しかし、当時の北方城を守る稲葉一鉄に攻められ敗北、6月8日に一族共に自害したため、美濃安藤氏は滅亡となってしまいます。

(3)小一郎(秀長)が安藤氏の娘を娶る意味

冒頭で小一郎と慶の婚礼が「政治臭い」と評したことについて、ドラマ内の世界観から、整理してみました。

結論は「美濃勢力の取り込み」と「秀長個人の独立性の強調」という意味があると思います。

①美濃衆との連携
守就は、美濃の有力な国衆である「美濃三人衆」の筆頭でした。 

信長による美濃攻略の際、兄・秀吉が中心となって三人衆を味方に引き入れました。その際、小一郎は守就との関係を深めたので、縁戚を結ぶ候補者としてうってつけです。(独身だし)

守就と小一郎が親類となる事を機に信長はさらに美濃国衆を取り込んでいく事ができます。
美濃平定によって、譜代の「尾張衆」に加えて「美濃衆」が織田家を強力に支えることになります。
※こう見ると、織田徳川同盟は対等ではなかったので、家康率いる「三河衆」が織田家に従属していたともいえますね

②農民出身からの脱却(家格の確立)
秀吉・秀長兄弟は尾張・中村の農民出身であり、織田家内での地位が上がっても、歴史ある名家との繋がりがありませんでした。

兄・藤吉郎(秀吉)の妻・寧々は、「浅野氏」という武家の出身です。これで藤吉郎の「家格」が奇跡的に向上したのは言うまでもありません。

慶の出身となる安藤氏は伊賀守を称する伝統ある美濃武士の家系です。その娘を正室に迎えることで「家格」が生まれるだけでなく、小一郎が「藤吉郎の弟」ではなく、独立した「武将・木下小一郎長秀」となっていく事を意味することになります。
※信長に仕える際に「長秀」という名前をもらっています

③秀長の終生パートナー
ドラマ内では、許婚・直を失った哀しみを引きずったままの小一郎が、慶と婚礼することで「夫」というキャリアをスタートさせました。

二人の間には溝がありますが、共に「大切な人を失った」者同士です。これから少しずつ和解し、戦国の荒波にどのように立ち向かい、困難を支え合っていく夫婦のエピーソード(秀長メインの話)を期待せずには居られません。
史実では、智雲院(慶)との婚礼の時期は不明ですが、墓を隣り合わせにするなど仲睦まじい夫婦だったようです。

初夜では慶から「宣戦布告」のような告白があり、小一郎がどのように「円満」解決できるのか、男としての腕の見せ所ですね(笑)


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「豊臣兄弟!」にて、秀長の正妻である「お慶(ちか)」の人物予想をしてみました。

 1 結論 表に出せない人だった?



(1)記録がない人物だから自由度は高い

秀長の正妻は、脚本上、「お慶」と命名されていますが、史実では「ちうんいん様(智雲院)」「大かた様」の名前しか資料等に記録がない人物です。

さらに、秀長には実子がおらず、養子である秀保、お岩など家族の記録は限られているようです。

また、長子の「小一郎」が夭折していたという説もあり、いつ正妻と祝言をあげたのか、どんな人柄だったのか謎です。

その分、俳優の特性を生かして自由度の高い設定ができると思います。

総じて、「お慶」は、特殊な出自のため、秀長と他の人物を繫げる「キーマン」というポジションは如何でしょうか。

また、義姉である「ねね(浜辺美波さん)」に負けないくらいの夫婦仲も見れたら楽しそうです。



(2)秀長の「尻叩き役」「相談役」

豊臣秀長は温厚篤実な人物というのが定評で、キレキレの知恵者である兄・秀吉と対称的だったようです。

しかし、秀吉の腹心として数多の合戦に参加し、徳川氏や毛利氏との交渉役や総大将(四国・九州)なども務めた有能な武将でもあります。

秀吉が強敵・難題に立ち向かう側で「尻叩き役」「相談役」をしていたのが弟・秀長だったのではないでしょうか。

という事は、秀長に対しても、千利休や藤堂高虎たちや誰かしらが「尻叩き役」をしていたり、仲裁で板挟みになってしまう悩みを聞く「相談役」がいたハズだ、というのが私の予想です。

そういった役割を「お慶(吉岡里帆さん)」に期待します!

(3)吉岡里帆さんに期待すること



「お慶」を演ずる吉岡里帆さんと言えば、正統派からコミカルまで演技幅の広い女優さんという印象です。

そのため、ラフで優しくて気取らない、フットワークが軽い、普段は控えめだけど、キレると怖いという感じで秀長の「尻叩き役」「相談役」がいてくれると、ドラマが盛り上がると思いました。

もちろん、秀吉との兄弟仲も見たいです☆



↑これは、「Gメン(2023年)」という映画で女性教諭を演じている吉岡さんです。眼光が鋭いですよね。

これ、業界用語で「メンチ切る」というシーンです。「メンチ切る」とは、「相手に顔(メンツ)を近づけ、睨め付けて威嚇する」という意味です。

地域によっては「ガンを飛ばす(睨む)」とも表されます。

よくボクシングや格闘技の試合前会見で選手同士が見合っているアレです(笑)



(4)予想A案【安国寺恵瓊の忘れ形見(一人娘)】というのはどうでしょう?

秀吉は中国攻略を命ぜられ、「鳥取城」「三木城」「高松城」などの連戦の末に毛利氏と和睦に漕ぎ着けました。

この時、毛利方の交渉役だったのが外交僧の安国寺恵瓊です。

恵瓊は秀吉を高く評価し、のちに家臣になっています。

本能寺の変があった時も情報封鎖されていた為、撤退する秀吉軍を追撃しませんでした。。。。

詳しくは【5 お慶の人物予想】にて☆


(5)予想B案【雑賀孫一の妹】というのはどうでしょう?

雑賀衆は、言わずと知れた戦国最強の鉄砲傭兵団です。

本願寺と連携して織田信長を苦しめたので、「紀州攻め(第一次 1577年)」が行われ、秀吉も従軍しました。

その後、雑賀孫一の党派が雑賀衆を統べましたが、土橋党の反撃により追い出され秀吉が匿います。

のちに秀吉による「紀州攻め(第ニ次 1585年)」が行われ、雑賀・根来は平定されました。

孫一が秀吉軍を先導したり、内応工作をしたのが功を奏したとも言われます。なお孫一は生没や正式名などが不確かな人物です。。。

詳しくは【5 お慶の人物予想】にて☆



2 これまでの秀長正妻の設定

(1)【おんな太閤記(大河第19作 1981年)】

役名:しの

演:田中好子さん

・元は播磨の百姓の娘

・秀長が一目惚れするが成就せず

・別所氏の三木城の女中となる

・三木城兵糧攻めの影響で失明

・落城後に再会して夫婦となる

・秀長の死後は播磨に帰り、彼の菩提を弔う形で物語から姿を消す


(2)【江〜姫たちの戦国〜(大河第50作2011年)】

役名:秀長の妻

演:柴垣亜希さん

・秀長の妻(役名のみ)

※紫垣さんのブログにも詳細がなかったので、あまり登場しなかった?


3 GoogleAI(ジェミニ)回答


AIにも聞いてみました!

【質問:豊臣秀長の正妻である智雲院はどのような人物だったのか?お墓や生没が不明なのは武家の娘ではなかったからか?】

【回答】
豊臣秀長の正室である智雲院は、出自や生没年が不明な女性です。
お墓についても確かなものは見つかっていません。

智雲院について
●出自: 智雲院の出自については、確かな記録がなく、武家の娘であったかどうかは不明です。
●生没年: 生没年についても、詳しいことは分かっていません。
●人物像: 智雲院に関する情報は非常に限られていますが、豊臣秀長の正室として、彼を支えた女性であったと考えられます。
●記録: 文禄3年(1594年)3月に豊臣秀次が郡山城を訪れた際の『駒井日記』の記事に「ちうんいん様」「大かた様」とあり、秀長の正室を指すと考えられています。
また、『森家先代実録』にも、秀長の養女である智勝院の養母(秀長の正室)の法名として「智雲院」と記されています。
●お墓について:智雲院の墓所は、現在も特定されていません。
●武家の娘ではなかったから?:智雲院の出自が不明であることと、墓所が特定されていないことは、直接結びつけることはできません。
当時の女性、特に武家以外の女性の記録は、現代に比べて残りにくく、出自が不明な女性は多く存在します。

●まとめ:智雲院は、豊臣秀長の正室でありながら、その出自や生没年、墓所など、詳しいことが分かっていない謎多き女性です。
しかし、数少ない記録から、秀長を支えた重要な存在であったことが窺えます。


4 唯一のヒント「法名」

(1)智雲院

3.AIジェミニ回答にもありましたように、史実における「お慶」の手掛かりとしては、甥・秀次の関連資料にある「智雲院」という法名です。

おそらく秀長の死後に出家したのでしょう。他に「自雲院」「慈雲院」という説もあります。

日本語は「表語文字」なので、人物を予想するヒントになると思いました。

法名に「雲」という漢字が使用される場合は、徳や覚りが高いなどの意味があるそうです。

また、「雲」という漢字には、「遊び人・風流人」という場合もあるそうです。



(2)現代人の法名例

・慈唱院美空日和清大姉(美空ひばりさん)  

・花香院麗風妙舞大姉(大原麗子さん)  

・芳蓮院妙優日雅大姉(夏目雅子さん)


(3)戦国時代の法名例

・興雲院殿前大中大夫筑州都督古心道ト大居士(黒田長政)

・法雲院殿泰巌宗龍大居士(竜造寺隆信)

・大雲院仙厳(織田信忠)

・律雲院鏡湖閒明大姉(織田信包の娘=信長の姪)


(4)豊臣家近親者の法名例

・国泰寺殿前太閤相国雲山俊龍大居士(秀吉 兄)

・大光院殿前亜相春岳紹栄大居士(秀長)

・瑞光院花嶽妙喜(秀保 子息)

・智勝院殿月桂宗清大禅定尼(お岩 子女)

・光秀尼(お藤 側室)

・天瑞寺殿春岩宗桂大禅定尼(なか 母)

・妙雲院殿栄本虚儀(なかの前夫・父)

・瑞龍院妙慧日秀尼(智 姉)

・南明院(朝日 妹) 

・栄松院日寿(なか 妹)

・名松雲院洞室妙仙(なか妹 福島正則の生母)

・大恩院(なか妹 青木一矩の生母)

・聖林院(なか従妹 加藤清正の生母)


※〇〇院の3文字だけの法名の者もいる

※黒太字にした家族内だと「お慶」(智雲院)と娘のお岩(智勝院)は「智」の1字が共通しているので親子関係を伺える


5 お慶の人物予想

(1)予想A案 安国寺恵瓊の忘れ形見(一人娘)

秀吉は中国攻略を命ぜられ、「鳥取城」「三木城」「高松城」などの連戦の末に毛利氏と和睦に漕ぎ着けました。
この時、毛利方の交渉役だったのが外交僧の安国寺恵瓊です。
恵瓊は秀吉を高く評価し、のちに家臣になっています。
本能寺の変があった時も情報封鎖されていた為、撤退する秀吉軍を追撃しませんでした。。。。

私的にこれは話が上手すぎるので、何か裏があったのではないかと勘ぐります(笑)

そこで、「お慶」が恵瓊の忘れ形見で、秀長を知略&世話係として支え、備中高松の交渉が上手くいきました。

中国大返し時に追撃も免れ、のちの臣従に繋がったのではないか、と予想しました。

総じて秀長の「相談者」というポジションです。

補足情報

ちなみに、毛利方が本能寺の変を知ったのは、雑賀衆から吉川広家へもたらされた情報だったそうです。

この時、秀吉軍が撤退した翌日だった事もあり、追撃はされませんでした。(小早川隆景の進言)

しかし、外交僧だった恵瓊なら、独自の情報網で掴んでいたのではないでしょうか。


【「お慶」と安国寺恵瓊のストーリー】

→毛利氏に生家を滅ぼされた竹若丸(恵瓊)は幼くして寺に預けられるが、安芸武田氏の再興のため水面下で活動する

→元家老の娘と恋仲になり、やがて「赤子」が生まれる

→恵瓊が東福寺に入門するにあたり、毛利氏から身辺を調査される

→危機感を抱いた恵瓊は「四割菱」の御守を持たせて母子を逃がす

→母は恵瓊の法号である正慶から、赤子の名前を「お慶(ちか)」と名付ける

→年月は過ぎて「お慶」親子は但馬に流れつくが羽柴軍の侵攻に巻き込まれ、病気の母の代わりに労役に応募したが足手まといだと門前払い

→当時、留守居役をしていた秀長に直談判し、その聡明さを見初められ、秀長の女中に取立てられる★

→更に月日は流れ、備中高松で毛利氏と交渉のため秀長に伴した際、「お慶」は僧侶である恵瓊に尋ねる

→「御仏を信じれば、いつか父に会えるのでしょうか?」と「四割菱」の御守を見せると、恵瓊は絶句した

→しかし、「お慶」が豊臣方に利用される事を恐れ「甲州武田家は滅んだが、きっと浄土では再会できる」と励ます

→秀長は恵瓊の態度変調を訝しむが、彼の印籠に刻まれた「四割菱」と「お慶」の御守から親子である事に気付く

→秀長は臨終まで秘密を守り、「お慶」に父親について知らせてから亡くなる


(5)予想B案 雑賀孫一の妹(信長狙撃犯)

雑賀衆は、言わずと知れた戦国最強の鉄砲傭兵団です。
本願寺と連携して織田信長を苦しめたので、「紀州攻め(第一次 1577年)」が行われ、秀吉も従軍しました。
その後、雑賀孫一の党派が雑賀衆をまとめましたが、土橋党の反撃により追い出され秀吉が匿います。
のちに秀吉による「紀州攻め(第ニ次 1585年)」が行われ、秀吉が雑賀・根来を平定しました。
孫一が秀吉軍を先導したり、内応工作をしたのが功を奏したとも言われます。
なお、孫一は生没や正式名などが不確かな人物です。私は鈴木重秀説を取ります。。。

私的にこれは話が上手すぎるので、何か裏があったのではないかと勘ぐります(笑)

そこで、「お慶」が孫一の妹で、秀長を軍略&射手として支え、その縁で孫一の危機を秀吉が庇いました。

その恩義に応える形で紀州攻めの先導役を孫一が担った、と予想しました。

総じて秀長の「尻叩き役」というポジションです。


【「お慶」と雑賀孫一のストーリー】

→孫一が10歳の時に戦災孤児として「赤子」が引き取られる。

→ちょうど雑賀荘にある本願寺鷺森別院にて慶讃法要(宗祖親鸞聖人の誕生と立教開宗を慶び讃える仏事)が準備されていたので、赤子は「お慶(ちか)」と名付けられる。

→ 「お慶」は孫一の手ほどきを受けて雑賀兵法や鉄砲、剣を学び、護衛役としても逞しく育つ

→雑賀衆も参戦した石山合戦の最中、天王寺の戦いにて「お慶」は織田信長を狙撃する金星を挙げるが、反撃に遭い、近くの硝石箱が爆発して負傷

→爆発の炎で「お慶」は右半身を大火傷している所を秀長に救われる★

→秀長は自軍の攻撃で「お慶」たち農民を巻き込んでしまったと勘違いし、懸命に看病する

→「お慶」はひと月、死の淵を彷徨い、毎日声掛けする秀長の献身で意識を取り戻すが、名前以外のことが一時的な記憶喪失になる

→秀長は、雑賀衆射手の特長である右頬や右手の火花痕や「お慶」が倒れていた場所が信長狙撃位置に近い事を思い出すが、気付ずかない振りをする

→秀長は「お慶」を女中として側に置き、彼女も心を開き、相談をすると気弱なところを叱咤されるような関係になる

→翌年、「紀州攻め(第一次 1577年)」で雑賀・土橋が降伏した際、秀長に伴した「お慶」は孫一と再開して記憶を取り戻す

→孫一から「生きよ」と命じられ、秀長を支えて生きる事を決意する

→月日は流れ、秀長は臨終まで秘密を守り、「お慶」に「そなたの右手は働き者の手。いつも優しいな」と言って亡くなる

以上です。

最後までお読みいただきありがとうございました☆



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