「6月23日」――墓場まで持って行けなかった秘密 (約1900字 3分10秒~4分45秒)
沖縄県民の4人に1人が殺された沖縄戦。
日本軍と米軍が地上戦をおこなった沖縄。
日本軍の司令官の自決で組織的戦闘終了。
2026年の今から81年前の6月23日である。
戦争を繰り返してはならない。
戦争ほど、ひどいものはない。
戦争を絶対に許してはダメだ。
そう、皆、異口同音に訴える。
けれど皆、肝心な「その先」を話さない。
誰にも話さず墓場に持って行こうとする。
墓場まで持って行ききれずに、最後の最後に、こぼしてしまった人がいた。
精神科医が呼ばれる夜中の修羅場では、墓まで持って行くつもりで隠していたものが、見え隠れ、いや、とめどなくこぼれ落ちて露見してしまうことがある。
かなり前になるけれど。
もうベッドから自力で動くことも難しくなった、沖縄本島出身の患者さんがおられた。
穏やかな方で、内科病棟の申し送りでも精神科の出番は全く予想されていなかった。
その日は救急外来の呼び出しもなく、いつになく静かな当直の夜を迎えていた。
「精神科医を呼べ」と言っていると、内科病棟から連絡があり、駆けつけた。
「先生はヤマトンでしょ。」
そう言われた瞬間、私は、日本軍が沖縄で地上戦を繰り広げ、沖縄県民の多くを犠牲にしたことを責められることを覚悟した。
ヤマトン(チュ)とは沖縄県民ではない本土出身の日本人のことで、近年はナイチャーともいう。
私の父方祖父は戦前から尋常小学校の校長だった。
祖父は亡くなるまで何度尋ねても戦時中のことは一言も語らなかった。
が、教師、それも校長だったということは、全国で行われた軍国教育の片棒を担がされたであろうことは想像に難くない。
加えて、日本軍の衛生兵の予備役でもあった。
そんな祖父の孫である私。
叱責されても仕方ないと思った。
緊張してベッドサイドに伺った私に、その人が発した言葉は、はたして、叱責ではなかった。
懺悔だった。
沖縄本島に上陸し進撃してくる米軍と応戦する日本軍。
その戦火から身を隠すように、「ガマ」と呼ばれる天然の防空壕に、その人は集落の仲間とともに逃げ込んだ。
狭い「ガマ」は、あっと言う間に満員となった。
あとから、別の集落の村人たちが「ガマ」に逃げて来たが、追い払うしかなかったという。
追い払われた人たちは、戦火から逃げ切れず、逃れた者も島の南端の崖に追い詰められ、命を落としたらしいという。
「ガマ」の中でも、敵に見つからないよう、泣き声のやまない幼子を手にかけることを、強要したという。
穏やかな人だった。
しかし、ときおり言葉を詰まらせながら語る内容は、想像を超えていた。
あまりに生々しい行為を震える手で再現されるのは、見ているほうが呼吸を忘れそうになるほどだった。
「話してくださってありがとうございます。でも、どうして初対面の、しかもヤマトンの私に話してくれたのですか。」
明け方、そう訊ねるのが私の精一杯だった。
こんな話、子どもや孫に聞かせられると思いますか。
人殺しの子どもだなんて、人を犠牲にして生き残ったから、あなたたちが生まれたなんて、言えると思いますか。
沖縄の仲間を追い払って見殺しにして、幼子を手にかけさせた話なんて、沖縄の人間に話せると思いますか。
沖縄に何の関係もないヤマトンの先生だから話せたんです。
先生は今だけ、応援に来ているだけの先生なんでしょ。
業務応援の勤務時間は、厳密に決まっていた。
ために、カルテにお話の内容を記載する時間まで残っていなかった。
数カ月後。
再び業務応援に呼ばれたとき、その人が、あのあと間もなく亡くなられていたことを知った。
数カ月遅れのカルテ記載となった。
亡くなられて数カ月後のカルテを読み返す人なんて、多忙な医療職にはまずいないだろうことを知りながら、カルテ開示請求でもされない限り遺族たちの目にふれることもないだろうことを知りながら、私は事細かにカルテに書き記した。
カルテに記して置いてこなければ、私が耐えきれなかった。

戦争を繰り返してはならない。
戦争ほど、ひどいものはない。
戦争を絶対に許してはダメだ。
守秘義務でそれ以上は何も言えない。
6月23日は沖縄にとって、というより、日本軍を派遣した日本にとって、忘れてはならない日なのではないか?
注:守秘義務に配慮し、本筋と直接関係しない部分を一部改変しました。
