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『シビル・ウォー』が残す違和感「主体位置」を渡さない映画として

『シビル・ウォー』の後味が悪いのは、単に悲惨だからでも、過激だからでもない。
観客が無意識に期待する「ここに立てばいい」という場所を、映画がほとんど与えないからだ。

感情移入の対象、倫理判断の拠り所、正義の代理。そういう主体位置が剥がれたまま進む。
その空白が、苛立ちや違和感として残る。

近未来の内戦下のアメリカで、ベテランの報道カメラマンと駆け出しの若いカメラマンが、前線を追いながら撮影を続ける。
物語は彼らの移動と遭遇で進むが、観客が安心して寄りかかれる“正義の視点”は最初から薄い。

ジェシーが国内外で叩かれやすいのも、その構造の上にある。
彼女が不快に見えるのは、彼女が悪いというより、観客の居場所の代行を引き受けないからだ。
観客の側が「こっちの気持ち」を預けたいのに、預け先がない。だからムカつく。

「若いから」で処理すると、焦点がずれる

ジェシーを「若いから未熟」で処理するのは簡単だ。だがそれをやると、映画が実際にやっていることが見えなくなる。
この映画で問題になっているのは、未熟さの是非ではない。主体の置き方である。
もっと言えば、「未熟さ」というラベルは、観客が“納得の回収”に逃げるための言葉として機能してしまう。

だから「若いから世間を知らない」で済ませるのは安易だと思う。
むしろ資質の問題─ただし人格の善悪ではなく、現場に残るための資質の問題として見たほうが、この映画の嫌なところに届く。

ガーランド自身は、ジェシーを批判として描いていない。むしろ「リーより良い写真家だ」と言う。

ここで重要なのは、褒めているかどうかではなく、監督がジェシーを「観客の味方」や「保護すべき未熟者」として扱っていない点だ。
ジェシーは最初から、観客の倫理を代行する位置にいない。

何が剥奪されているのか

観客が映画に入るとき、勝手に求めているものがある。

誰の視点で見るのか。
誰の感情に乗ればいいのか。
どの立場から「理解した」と言えるのか。

『シビル・ウォー』は、その装置を薄くする。すると観客は、出来事に晒されるだけになる。理解より前に、立ち位置が消える。
このとき生じる不快さは、説明不足の苛立ちではない。主体位置の喪失による反応だ。

この映画の「乾き」は、戦争の乾きというより、映画が観客の面倒を見ない乾きに近い。
だから鑑賞後に、整った感情や、言い切れる結論が残りにくい。

リー=理解して引き受けてきた側の崩れ

リーは、深いところで理解するタイプとして描かれている。
撮ることの暴力性も、倫理の摩耗も、現場の虚しさも、ひととおり分かったうえで、それでも撮り続けてきた人だ。
その理解の深さは、成熟としては美しい。だがこの映画は、成熟を救済にしない。理解は彼女を支えない。むしろ内側から削っていく。

ここがいやらしい。
多くの映画なら、ここで「分かっている大人」が物語の最終的な拠り所になる。観客は、混乱や暴力の中でも、その成熟に寄りかかって息継ぎができる。
つまり“理解”は、観客にとっての安全装置になる。

だがこの作品は、その逃げ道を塞ぐ。
成熟は慰めにならず、むしろ消耗の形で露出する。観客は「大人の理解」に回収されるはずだった不安を、宙づりのまま持ち帰らされる。
理解が深いほど救われる、という慣れた物語的倫理を、ここでは使わせてもらえない。

リーの崩れは外側の内戦ではなく、内側の内戦だ。
理解して引き受け続けた人が、同じようには立てなくなる。

そこが、この映画の「現実から立ち上がっている」感じと繋がっている。

ジェシー=プロとしての資質/プロとしての危うさ

ジェシーは、観客の感情を代行しない。
だから好感が持ちづらい。だから叩かれる。だが、その見え方自体が仕掛けだと思う。

彼女は「世間知らず」で片づく存在ではない。
むしろ彼女は、別の形で適応している。踏み込む力、ためらいのなさ、現場に残るための反射神経。
ここで言いたいのは、ジェシーが倫理的に正しい、という話ではない。
むしろ逆で、倫理と相性の悪い資質が、現場で強く機能してしまうことがある、という話だ。

それを「ジャーナリズムの観点で言えばプロだよね」と感じる瞬間がある。
撮ってはいけないものを撮ってしまう、ではなく、撮るべき瞬間を逃さない。判断が早い。躊躇が少ない。現場の速度に身体が合っている。

ただし、そのプロ性は、賞賛として気持ちよく回収できるものじゃない。
なぜならそれは、観客が期待する「善良な主体」や「正しい学び」のラインに乗らないからだ。

ジェシーがリーを追い越す構図は、観客の安心を壊す。
観客はリーの理解に寄りかかっていたい。
だが映画は、寄りかかれない状況を作り、ジェシーの側へ視界を押し出す。

そこで反発が起きる。ジェシーへのバッシングには、彼女個人への嫌悪だけでなく、観客が奪われた主体位置への苛立ちが混ざっている。

ここで「2タイプ」が効いてくる

“参照源”ではなく“立ち上げの責任”の違いについて。

ガーランドの「2タイプ」の話が浅く扱われがちなのは、これが単なる好みや世代論、あるいは「引用が多い少ない」という趣味の比較に見えてしまうからだ。
だが彼が言っているのは、もっと根の深い、作品をどこから立ち上げるかという選択だと思う。
起点が違えば、作品が観客に要求する態度も変わる。

タイプA:映画の内部アーカイブから組む

10代の頃に好きだった映画について映画を作る人。
映画の記憶、引用、ジャンルの文法、既存の“映画体験”を素材にして世界を構築する。

ここでいう「映画についての映画」は、メタ的な自意識の話だけではない。
もっと実務的だ。映画史が蓄積してきた「こういう場面で観客はこう感じる」「この展開ならここで息継ぎできる」という、感情導線のテンプレ群を利用できる。
つまり観客の主体位置を、ある程度あらかじめ配布できる。

だからタイプAは、うまくやれば気持ちよく、強く、早い。観客は迷いにくい。迷っても、迷いが“映画的迷い”として回収される。ジャンルの安全柵が最後に立つ。

ただし、ここには副作用もある。現実の危機を扱っても、いつの間にか「映画として理解できる危機」に変換される。
危機が、引用で食べられるサイズになる。そこで観客は、良くも悪くも落ち着く。落ち着いてしまう。

タイプB:一次世界から立ち上げる

自分の経験や、現実の危機からフィクションを立ち上げる人。
ここでの一次世界とは、社会、制度、倫理、歴史、暴力の生々しさのように、作品の外側にある“重力場”だ。
作品はその重力に逆らいながら成立する。だから、物語の手触りに最初から摩擦が残る。

このタイプにとって、映画の文法は便利だが危険でもある。便利というのは、観客に主体位置を配れるから。
危険というのは、その主体位置が「現実の危機」を“理解できた気分”に変えてしまうからだ。

だからタイプBは、しばしば意図的に、文法を壊す。気持ちよさの回収を遅らせる。観客の息継ぎを奪う。つまり、観客が慣れで立てる場所を、先に崩す必要が出てくる。

ここで『シビル・ウォー』の話に戻ろう。

なぜ『シビル・ウォー』が「戦争映画の引用遊び」に見えないのか

『シビル・ウォー』が戦争映画に見えるのに、戦争映画の気持ちよさが薄いのは、単に演出の趣味ではない。観客に配る主体位置を、最初から疑っているからだと思う。

戦争映画の文法は強い。
誰が正しいか、誰が守られるべきか、誰の視点に寄りかかれるか。
たとえ曖昧でも、最後には“映画としての正しさ”が立ち上がる。

だがガーランドの立ち上げは、その回収を信用していない。信用しないというより、そこに乗った瞬間に作品が別物になるのを知っている。だから「ここに立てばいい」という場所を渡さない。

観客の側に残るのは、現場の速度、暴力の雑さ、倫理の摩耗、そして「撮る」という行為の無遠慮さだけになる。

このとき、ジェシーのプロ性が不快に見えるのは自然だ。
彼女は“善良な主体”としてではなく、“現場に適応した主体”として立ってしまう。観客の理想的なジャーナリズム像と擦れる。

だが映画はその擦れを丸めない。丸めるためには、主体位置を配り直さなければならないからだ。

「主体位置を渡さない」は、作風ではなく“責任の取り方”でもある

ここを、単なる演出論に落としたくない。

タイプBの作り手が主体位置を渡さないのは、意地悪だからではない。
現実の危機を扱うとき、観客が映画的に立ち直れる場所を用意した瞬間に、危機が“見世物として成立してしまう”からだ。

つまり、主体位置を配布すること自体が、作品の倫理に関わってくる。

『シビル・ウォー』の乾いた現実感は、その拒否の結果だと思う。
映画の文法ではなく、現実から立ち上げる。
すると、観客は映画の中で片づけられない。片づけられないからムカつく。ムカつくから叩かれる。
だが、その流れ自体が、設計の内部にある。

主体位置を渡さない映画は、他にもある

ここで誤解を避けておくと、以下は題材の重さを同列にする話ではない。手法の話だ。
観客に「善良な視点」や「正義の足場」を与えない、という設計が、別の作品でも徹底されている。
だから『シビル・ウォー』の違和感は、気まぐれではなく、映画的な戦略として位置づけられる。

『関心領域 The Zone of Interest』(2023)

アウシュヴィッツの隣に住むナチス将校一家の日常を描きながら、虐殺は壁の向こうから“音”として侵入してくる。
カメラは生活を淡々と映し続け、観客が「告発する側の善良さ」に避難できる出口を潰す。
収容所の内部を見せない、というより、見せないことで観客の立ち位置を固定する。

『サウルの息子』(2015)

ホロコーストを扱いながら、主人公の背中を追うカメラワークで、観客を「理解」の外側に置く。
状況を俯瞰させず、主人公と同じ混乱の中に放り込む。整理された全体像を持たせないことで、観客の安全な主体位置を成立させない。

この2本は、主体位置を渡さない戦略を徹底しながら、批評的にも興行的にも成功した稀有な例だ。
重い題材を扱うからこそ、従来の“描き方”や“寄りかかり方”を拒否し、観客を不快な位置に置き続ける。

『シビル・ウォー』の「ムカつき」も、同じ系譜の手触りとして理解できる。

相互選択としての作品体験

ここまで来ると、作家と観客の関係は相互選択だ、という話に戻る。
監督は観客を選び、観客も監督を選ぶ。

これは「分かる人だけ分かればいい」という優越ではない。もっと冷たい話だ。

主体位置を渡されないまま最後まで見続けられるか。
違和感を回収しないまま保てるか。

そこが合う人とのあいだでだけ、作品体験が成立する。

迎合しない。説明もしない。その代わり、立場を崩さない。

欠点ではなく、態度の痕跡

『シビル・ウォー』の「嫌な感じ」は欠点というより、態度の痕跡だと思う。
一次世界から立ち上げるとは、題材が重いという意味ではない。
主体をどこに置くか、観客にどこを渡さないか、という選択のことだ。

この映画はそれを最後まで崩さない。
だから、居心地の悪さが残る。

そして、その居心地の悪さが消えない限り、この作品が現実側に立っていることも消えない。

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