娘が20歳になった
あの娘が、20歳の誕生日を迎えた。
何度も「20歳かぁ…20歳…ニジュウ…ハタチ…」と反芻しては、実感があるのかないのか、よくわからない感情になる。
21歳で産んだあの日から20年。
あまりにも激動で、あまりにも大変で、あまりにも楽しかった20年。

「家に帰るのがめんどい」というアホな理由で20歳で結婚し、あれよあれよで妊娠。21歳で娘を産んだ。経産婦かと思うほどの超スピード出産。家を出て2時間後には産んだ。
2460gと絶妙に小さかったが、よく飲みよく寝る、手のかからない子だったように思う。21歳という若さがそうさせていたのか、ただただハイになっていただけなのか、私自身も元気だった。生後5ヶ月の娘を背負い、山(新城の乳岩)に登った。(今思えばとんでもないことをしている)
そのうち娘には弟もできて、姉として本当に張り切っていた。当時3歳。このままアクティブに家族4人で楽しく遊んで生きていこう!と意気込んでいた。しかし、霊感のつよいバァさんの「医者にいってこい」の一言から、こんなことになるなんてね。

小児がんのひとつ、膵芽腫(膵臓がん)になっていた。気づいた時には、体の3分の1が腫瘍で埋まっていた。膵芽腫の腫瘍は、柔らくて豆腐のように脆くて、触ったところで誰も気が付かない。当時、世界に200例しかなく、日本には2009年には2人しかいなかった。
そこから家族はバラバラになった。弟はバァバの家へ、父は休日に会いに来る。母である私がずっと、完全看護の形で入院生活を送った。抗がん剤も手術も、全部やった。闘病生活を語ったらおさまらないので書けないが、とにかく、楽しいと地獄が混在していた。娘には楽しい思い出だけを残したくて、そう思わせるように努力をした。地獄を見るのは親だけでよい。おかげで娘はいまでも、あの地獄のことは覚えていない。
358日の入院生活を終えても、がんが治ったわけではなかった。そこからずっと、それこそ今でも、通院はしている。病気と共に生きている娘。そこに誇りを持っても持たなくても、どっちでもいい。ただ母として、この出来事を忘れたくなくて、blogと本にまとめた。たまに読んでは、なにも変わらず忘れていなくて自分に驚く。つーか、忘れてたまるかってね。

姉と弟いっしょの写真は撮っちゃうよなぁ
壮絶な闘病があって、なんとか寛解状態になって、幼稚園・小学校・中学校・高校と、いろいろありながらも生きて歳をとってきた。
高校時代に出会った弓道を引っ提げ、今では家を出て、忙しすぎる社会人をしながら弓を引いている。割と連絡をとるタイプの娘なので、LINEがくるたびに「オホッ///」と言いながら返信する。
娘を産んで20年。
あまりにも可愛くて、コンビニの店員さんから「可愛い」と言われてニヤニヤしたこと。
七五三のために薄すぎる髪の毛を頑張って伸ばしたこと。
小児がん闘病したこと。小児用ベットで点滴を絡ませながら、無菌室の中で一緒に寝た358日。泣きながらベットの上で剃った髪の毛(まだうちに残ってる)。抗がん剤で吐きまくる姿。モルヒネから覚醒するあの声。
幼稚園へいくバスへ乗る時の、あの笑顔。
寛解5年目のお祝いパーティー。小学生の時の恋バナ。中学で柔道をやった時の激弱な姿。仮装しまくって呆れられた日。20キロの散歩。山登り。
弓道と出会って、毎日朝5時に作った弁当。夜中3時まで意識朦朧としながらふたりで縫った、40人分のハチマキ。ふたりでパソコンの前で語り合った、12年分の作文。砥鹿神社で放った弓の、信じられない皆中。
全部忘れられない。忘れたくない。
この思い出を持ったまま、老いて逝きたい。

娘の生きた20年は、私が生きた20年でもあった。こどもの人生はこどものものだとわかってはいるが、どうしても切り離せなかった。それくらいに、私は娘を生かすのに、本当に必死だった。これを俗に言う「毒親」というならもう仕方がない。毒にも薬にもならない、母としての20年。地獄を地獄と意識しないできたあの日も、楽しかったあの日も、娘の人生であり私の人生だったよ。
母の今の願いは、ちゃんと寝て、ちゃんと食べて、ちゃんと楽しく生きて欲しい。楽しく生きるための苦しい思いは頑張ってほしい。もうこれからのあなたの人生に母はいないけど、推させてはほしい。
20歳の誕生日おめでとう
そして私も、よくやったよ

